02「キロリッター・トングラム・センチメンタル」

 ──キタ! キタキタ! 俺の異世界ライフ!


 ロータローは心底浮かれていた。

 上機嫌な気分が顔から漏れているのか、すれ違う船員たちから「どうしたんだアイツ。変な顔して」「頭打ったついでにパーになったんじゃね?」との声が聞こえたが、そんなことにツッコミを入れてる場合ではない。何故なら、ロータローの最重要課題はキロリッターの部屋に向かうことだからだ。

 異世界に来て早速、推定美人との間に関係が構築されるのだ。これはもう、お約束と言えるヒロインイベントと見て間違いないだろう。

 スメネシが絶賛するほどの美形で、その上見ず知らずのロータローを助けてくれるほどに慈愛に満ちているのだ。天使かな? 異世界なんだし、いてもおかしくない。いや、聖女という可能性も……ともあれ、期待がグングン高まっていくではないか。

 海中に召喚されたり拾い上げられた先が屍だらけの幽霊船だったりと、スタートは悪夢そのものみたいだったが、悪いことの後にはいいことが必ず来るという法則は、異世界であっても変わらないらしい。

 軽快な足取りで部屋の前に着く。スメネシの言葉を信じるなら、ここがキロリッターの部屋と見て間違いあるまい。扉に掛けられたプレートに目を向けると、読解不能な異世界語で何か書かれていた。大方、この部屋にいるキロリッターの名前とかだろうか?

 ごくり。

 緊張で喉を鳴らし、ドアをノックする。


「あら。サスライが拾った人間が着いたのかしら? 入っていいわよ」


 部屋の中から鈴の鳴るような声がした。

 鼓膜を震わせる心地よい振動に感動を覚えながら、ロータローはドアを開ける。


 次の瞬間、息が止まった。


 窓にかかっているカーテンが閉め切られた部屋の奥、黒い革張りの椅子に、ひとりの少女が座っている。

 なんて美しいのだろう。

 肩口で切り揃えられた金色の髪。

 年はロータローと同じくらいだろうか。船員たちが『姉さん』と呼んでいたから、てっきりキャプテンと同じくらいの年齢かと思っていたが、どうやらその予想は間違っていたらしい。顔立ち自体は幼さがあるが、身に纏っている高貴なオーラや黒を基調としたドレスが彼女の外見に対する評価を『可愛い』ではなく『美しい』に変えていた。

 ……危なかった。スメネシによる事前情報や部屋に入る前に聞いた声で予め心構えをしていなかったら、あまりの美しさに網膜が焼け焦げていたかもしれない。


「まずは名乗らせてもらおうかしら。私の名前はキロリッター・トングラム・センチメンタル。この船に乗せてもらっている……そうね、故郷を求めて彷徨う旅人といったところかしら」


 そう言うとキロリッターは立ち上がり、ロータローの前に近寄ると顔を寄せた。宝石のような輝きと理知的な雰囲気を有している瞳が、興味深げにこちらを見据える。その視線にロータローの心臓は跳ねた。

 引きこもり生活ゆえに同年代の異性との接触は絶無であり、コミュ障と童貞メンタルが極まっているロータローにとって、この距離は刺激的すぎる。思わず顔を赤くして、目を逸らしてしまった。


「ど、どどどどどうも! 俺の名前は砂塔蝋太郎。あの、助けて貰ったお礼を言いに来たっていうか、引き取ってもらいに来たっていうか……」


 緊張のあまりしどろもどろでてんぱった喋りになる。

 あれ? そう言えば、『引き取る』ってどういうことだ? まるでペットみたいな言い方じゃないか。そもそもどうしてこの子は自分を助けてくれたのだろう? 

 そんな疑問を今更ながらに抱いたロータローであったが、キロリッターが両手でロータローの頬を挟んだ瞬間、全ての思考が急停止する。


「サトー・ロータローね。聞いたことのない珍しい名前だけど、悪くない響きだわ。それじゃあ、初めましてロータロー。……早速で悪いけど、吸わせてもらうわね?」


「吸う⁉」


 何を? 

 え、まさかえっちな意味? 

 えっちな意味なのか⁉ 

 動揺するロータロー。彼の鼓動は最高潮に達していた。


 ──初日から大人の階段を一気に駆け上ってしまうとは。……やれやれ、異世界って凄いな!


「え、えっとその……優しくお願いします」


 心中で昂る気持ちとは裏腹に、弱々しい声で初心な乙女のようなことを言ってしまうロータロー。


 眼前に近づいてきたキロリッターの薄い唇は、そのまま下に動き……下? 


「がぶりっ」


 ロータローの首筋に噛みついた。


「ひいいいやあああああああああああああああああああああああああああああ⁉」


 本日何度目かの叫び声をあげたロータローは、慌ててキロリッターを突き放した。その拍子に両者は尻もちを着く。

 鋭い痛みを訴える頸部を押さえながらロータローは起き上がった。


「いってえな! なにすんだ⁉」


「はあ? いってえな、はこっちの台詞よ! そりゃ、出合頭にいきなり吸うっていうのはぁ? ちょっと? はしたなかったかもしれないけどぉ? 久しぶりの血で浮かれてたんだし、仕方ないじゃない!」


 転んだ拍子に打ったのか、腰を擦りながら声を荒げるキロリッター。

 しかし、次の瞬間には目を輝かせた。


「それにしても……うーん、ンま~い! やっぱり血は最高ね!」


 そう言って、口の端から垂れていた血をペロリと舐め取る。その仕草は猟奇的でありながら、どこか扇情的な艶かしさもあった。

 そんなキロリッターの姿に、ロータローは誰もが知る空想上の怪物の名を連想する。


「吸血鬼……?」


「その通り。私は闇の世界で生き、人の血を啜る吸血鬼ヴァンパイア。いくら可愛らしい少女の姿をしているからってナメないことね。アンタみたいなひよっこの十倍以上は生きてるんだから」


「じゅっ!?」


 十倍って。

 そりゃ、こんな見た目でも船員たちから『姉さん』と呼ばれるわけだ。

 まあ、動く死体なんてものを見た後だから、吸血鬼なんて存在もすんなりと受け入れられそうではあるけども。


「っていうかお前、吸血鬼ってことは……もしかして血が目当てで俺を拾ったのか⁉」


「あったりまえでしょ! 海の上、それもアンデッドやゴーストだらけの幽霊船での生活じゃ、新鮮な生き血を味わえる機会なんて滅多にないんだもの。ていうか、逆にそんな理由でもない限り、見ず知らずの人間なんて助けないわよ」


 キロリッターはロータローより先に立ち上がると、偉そうに胸を張った。


「あのねえ、立場が分かってないようだから言わせてもらうけど、私はアナタの命の恩人なのよ? それなら、ちょっとくらい血を分けてくれたっていいでしょ?」


「ぐっ……」


 そう言われると強く出られない。

 息のできない水中での苦しみに比べたら、首がちょっとチクッとする方が遥かにマシなのだから。


「それに、別に血を吸うと言っても、一滴残らず絞り尽くすなんてことはしないわよ。ロータローには少なくとも私が故郷に着くまでは、ずっと一緒にいて、血を生産して貰うんだから」


「女の子から初めて言ってもらった『ずっと一緒にいて』がこんなシチュエーションだなんて、あんまりだ!」


 嘆くロータロー。

 しかし、ここが異世界であり、他に頼れる相手がいない以上、キロリッターの提案を呑むしかない。血を呑まれるしかない。


「……ちなみにさ。キロリッターが探している故郷ってあとどのくらいで着くんだ?」


「さあ? そもそも何処にあるのかすら分かってないわ。そんなこと知ってたら、こんな値段と船員の耐久度くらいしか取り柄がない流離のボロ船じゃなくて、もっと別のちゃんとした船に乗ってたもの。そしたら人の血にも困らなかったはずだし」


「……………」


 こうしてロータローの、吸血鬼の非常食としての先の見えない異世界生活が始まった。


 ◆


 ロータローはキロリッターの部屋を後にしていた。

 その足取りは重く、どこかふらついている。あれからキロリッターに血をたっぷり吸われて貧血気味だからというのもあるが、心的なショックによるところも大きい。

 まさか異世界に来て真っ先に与えられた役割が、世界を救う勇者とか無敵最強の戦士ではなく、吸血鬼の非常食だなんて。

 その吸血鬼が美少女というのは、役得なのかもしれないが……。いや、それにしても輸血パック代わりみたいな役割とはねえ?


 血で喉を潤したキロリッター曰く、この船でロータローは彼女に所有権がある『所持品』として扱われ、吸血されるとき以外は部屋の外で、ある程度は自由にしていていいらしい。

 ていうか、血を吸ったら用済みとばかりに放り出された。『ずっと一緒にいて』とはなんだったのか。


 ──おかしい。おかしいぞ。これが俺の異世界ライフ?


 とりあえず今は風に当たりたい気分だった。キロリッターに放り出されずとも、あのまま暗い部屋に居続ければ、更に気分が滅入ってしまう。引きこもりが部屋から出たがるだなんて、ロータローの親が知れば泣いて喜びそうな話だ。

 そういうわけでロータローは現在、甲板に向かっていた。

 しかし、とりあえず船尾の客室を目指せばよかったさっきとは違い、ロータローは甲板に向かう経路どころか船内の構造すらロクに知らない。

 どうしたものかと悩んでいると、その時ちょうどセーラー襟に半ズボンの船員とすれ違った。


「あっ、おーい、ちょっといいか?」


 ロータローの声に反応し、その船員は振り返る。

 ゾンビみたいに青白い肌をしているが、顔立ちと体つきからして、女であることが窺い知れた。ボサボサに荒れた髪をしていて、それを束ねもせずに腰まで伸ばしている。こちらを見る目は爬虫類のようにぎょろついていた。その視線を受け、ロータローの背筋に怖気が走る。


 ──い、いやいや待て待て。待つんだ、砂塔蝋太郎。まだ乗ってから時間は浅いが、この船で人(?)を見た目で判断するのは愚行の極みだと理解しつつあるじゃないか。


 感情豊かな骸骨や、こちらを食料としか思ってない美少女吸血鬼が脳裏を過る。

 その前例を踏まえれば、目の前のいかにもバイオでハザードしてそうな彼女が、実はめちゃめちゃ話が通じる可能性だって……!

 そんな望みに賭けながら、ロータローは口を開いた。


「ええと、その、ちょっと道を聞きたいんだけど」


「あー?」


 長髪の水夫は聞き返すような声を上げると、ロータローに一歩近づいた。怯えていたせいで声が向こうまで届いていなかったのかもしれない。

 ロータローは先ほどよりも大きな声を張り上げて、同じセリフを言った。


「ちょっと道を聞きたいんだけど!」


「あー?」


「ちょっと! 道を! 聞きたいんだけど!」


「あー?」


「ちょっとー! 道をー! 聞きたい―! んだけどー!」


「あー?」


「ちょ」


「がぶりっ」


 長髪の水夫はロータローの首筋に噛みついた。


「はわわわああああああああああああああああああああああああああああああああああ⁉」


 悲鳴を上げるロータロー。貧血気味に加え、何度も叫んだ後だというのに、見事な叫び声だった。


「今回は見た目から予想できる通りの展開かよ!」


 キロリッターの時と同じ要領で突き放そうとする。しかし、女の咬合力は凄まじく、ロータローの力ではビクともしなかった。むしろ、時間が経つごとに歯の食い込みが増している気がする。このままでは肉を食いちぎられ、血のスプリンクラーと化すだろう。ぞっとしない予想だ。


「はっ。そうだ! こういうピンチに陥った時こそ、異世界転移で与えられた特典ボーナス的なものが力を発揮するんじゃないか? ……って、そんな都合のいいものがあったら、さっき溺れた時点で発動してるだろ!」


 ロータローが言う通り、腕力が突然常人の何十倍にもなったり、聖なる力を帯びた光が溢れ出したりなんてことは全く起きない。その力は相変わらず引きこもり高校生相応のまま。それどころか、キロリッターに血を吸われた分、力が減っている。


「あの女っ! ちょっと美少女で命の恩人だからって、呑みまくりやがって……!」


 そんな恨み言を吐いてももう遅い。

 そのまま悪戦苦闘を繰り広げていたロータローはあわや敗北しそうになったが、その直前で悲鳴を聞きつけた他の船員たちが駆けつけ、彼らの助力もあって何とか助かった。噛まれていた首筋を指で擦ると滲んだ血が付着しており、それを見たロータローの喉から「ひっ」という声が漏れた。


「だから、食べちゃダメなんだよクサリ。こいつはキロリッターの姉さんの荷物なんだから」


 船員のひとりが女を叱っているのを横目で見ながら、「へー、クサリって名前なのか。……あれ? その叱り方だと、俺がキロリッターの所有物じゃなかったら食っても許されてたの?」と思っていると、別の船員が近寄ってきた。


「いやあ、ごめんな。クサリはその、アンデッドにしては元気が過ぎるからよ」


「別に大丈夫だよ。大した怪我はしなかったし、不用意に声を掛けた俺も悪かった。……ところでひとつ聞きたいんだけどさ、もしかしてアンデッドって人を食うのか?」


 アンデッド。あるいはゾンビやスケルトンと言った方がいいか。

 映画のようなフィクションの世界では往々にして人を襲って食らう怪物だ。もしこの世界のアンデッドも、そのイメージ通りの存在なら、ロータローはライオンの檻の中に放り込まれた肉のようなものになるのだけど……。いや、キロリッターの非常食になった時点で、殆どそうなっているようなものか?


「いやあ、そんなことはねえよ。アンデッドだって元人間だしな。普通の食事の方が舌に合うよ」


「そうなのか。……あっ、そういえばこの船にも厨房はあるんだったな」


 溺れていた時に船員たちとキャプテンが交わしていた会話を思い出すロータロー。

 じゃあなんでクサリはロータローに襲い掛かったのだろう?


「クサリは元々は別の船で航海士をしていたんだけど、自発的にアンデッドになった変わり者でな。俺も詳しくは知らねえんだけど、アンデッド化の際に脳が変な腐り方しちまって、人喰グールみたいな頭になっちまったらしい。人食いの航海士なんて誰もそばに置いたくねえだろ? そういうわけで船から追い出されて、彷徨っていたところをこの船が拾ったんだ。ここならあいつの食欲を刺激するものはねえからな」


「……今日までは、だけどな」


 ……仕方ない。後から入ってきた自分が文句を言うわけにもいかないだろう。なにせ、ここでは普通の人間は圧倒的にマイノリティなのだから。生き延びさせてもらっているだけで御の字だ。

 聞くところによると、人食い衝動持ちはクサリ以外にいないようだし、だったら彼女に近づかないように気を付ければいいだけだ。


「そう落ち込むなって。このまま進めば、多分あと三日もしないうちに島に辿り着くさ。そこならお前の同類の人間もいるって。……あ、お前はキロリッターの姉さんの所有物だし、そこで船を降りられるわけでもないのかな? よく分かんねえ。ははは、まあ、うーん、なんだ、人生生きてりゃなんとかなるって」


 船員はそんな効果の薄い励ましを言った。ついでに甲板への経路を教えてもらう。


 ──もっと慎重に動こう。


 痛む首を擦りながら決意を固めると、ロータローは教えてもらった経路に従い、甲板へと出た。

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