これからの話

 私の鉛のように重くなった足は、それでも勝手に動く。


 今日の若宮大路は歩行者天国になっていて、車道も補導も大勢の人で溢れかえっていた。そんな往来をただ、彼を追いかけて歩く。人の波に飲まれて沈んでしまいたいのに。やがて、消えることもできずにたどり着いたのは鶴岡八幡宮だった。


 時雨さんは、なにも言わない。


 私も、なにも言えないまましばらく歩いて――境内の大階段を目前にして、とうとう立ち止まった。


 それに気づいた時雨さんもまた、足を止めて私を振り返る。

 私たちを避けて、雑踏だけが流れ続けた。


 いつの間にか、日暮れが近づいていたらしい。次第に影が色濃くなっていく。


「どこまで、行くんですか?」


 かろうじて口から出た問い。時雨さんは問われてから、少し考えるそぶりを見せた。


「僕はどこでも構いませんよ。貴女の行きたい場所があるなら、そこにしましょうか。ただ、僕はあの場所からは離れたほうがいいと思っただけです」


 それなら。……彼が、そう思ったというのなら。


「時雨さんは、……全部、知っていたんですか」

「知りません」

「じゃあ、『小松』のことは? 私のことは、どこまで知ってるんですか」


 知られていないと思っていたのは、私だけだったのだろうか。


 振り返った時雨さんはいかにも堪えきれなくなったように、唇をゆがめた。


「……時雨さん?」

「怒っているんです、僕は。彼等と貴女を見ていてわかりました。貴女、自棄になっていたでしょう。どうとでもなれと家政婦の仕事をすることにしたんだ。だけどなにより僕が許せないのは、貴女が今日まで彼等に嘲られていたことです」

「それは……」


 否定できず、うつむく。流れに身を委ねたのは事実だ。あの時の私には、もうどうしたらいいのかわからなかった。


「僕は貴女が小松で働いていたことなんて、知りませんでしたよ。そう多く出向いていたわけじゃありませんから。知ったのは、母から電話を受けた時です」


 彼の母、西御門優子さん。私を鎌倉に招いてくれた人。


「一度だけ、あの人から連絡を受けました。質草の着物を預かった日のことです。僕はその時、貴女の前職について聞かされました。ただ、知らないところで話題に出されることは気分のいいものではないと思ったから、黙っていただけです」


 淡々とした説明が、かえって真実味を増していた。


「優子さんは、時雨さんになんて……?」

「母は、『小松』の引退した以前の料理長に、ずいぶんと世話になったそうですよ。なので、貴女のご尊母に貴女の窮状を聞いた時、うちが世話をするのは当然だと思ったそうです。そういうわけで、僕は改めて貴女のことを頼まれただけだ」

「それだけですか? 本当に? 時雨さんは、どうして聞かないんですか。どうして店を辞めたんだって。私、お店でトラブルを起こして……、逃げて、……黙っていたんですよ」


 恐る恐る尋ねた私にも、時雨さんはいつもどおり、端的に答えた。


「貴女が聞いてほしいなら、聞きます」


 街はすっかり夜に飲み込まれた。夕焼けの残滓が、西の空に残っている。

 短い言葉は、夜の風に攫われて消えた。


「……着物も、人も、時間の差があったとしても、様々な道を経ているものです。隠しているものがあるのは当然で、僕はそれを全て知ろうとは思いません」

「…………」

「ただ……、貴女が来てくれて、貴女に会えて、僕は嬉しかった。だから、貴女が投げやりな気持ちでうちに来たことが許せなかった。貴女にそんな道を敷いた環境が、許しがたかったんです」


 私は言葉もなく、ただ時雨さんの瞳を見つめ返した。


「私、……遊んでなんてなかったんです。ただ、料理人になりたくて、必死で……。それだけは疑われたくなかったんです。だから……」

「信じますよ」

「どうして」


 まだ知り合って三か月の人間を、どうして信用できるのか。


「貴女は、憑き物を見ても否定をしなかった。これまで、家族の他に……あれを受け入れてくれた人はなかった。僕を、気味悪がることもなく、遠ざけることもなく。向き合ってくれたのは、貴女だけでした。だから、僕も貴女を受け入れます」


 見つめていたはずの、時雨さんの姿がゆがむ。


 あふれ出た熱い涙が、留まることなく私の頬を濡らした。


「芽を、摘まれたんです」


 ぽつりと、呟いた。小さな声は、それでも時雨さんに届いたようだった。


「私、覚悟も技術も、なにもかもが足りなかったんです。覚悟があったら、逃げ出さずに戦えた。誰よりも技術があったら、クビになんてならなかったかもしれない。だけど、私はどちらも持っていなかったから……、逃げたんです。弱い人間なんです。時雨さんが思ってくれているような人じゃない」

「それは、逃げたとは言わないでしょう。貴女はうちに来た。料理を作り続けていたじゃありませんか」

「あれは料理に入りません」


 以前、しずくちゃんから時短料理だと指摘された時、本当は泣きたかった。


 彼女が悪いわけではない。私が、弱かったのだ。

 もう以前のように料理を作ることができなくて、小手先で誤魔化すことばかりを覚えてしまったことが悲しかったから。


 優しくしてくれた彼らにも、居場所をくれた彼らにも、なにも返せないことが悔しかったから。


「……入りますよ、寿葉さん。貴女の料理はいつもおいしかった。優しい味がしていたから」


 俯くと、時雨さんは身をかがめた。そうすれば身長差はすぐに埋められて、顔を隠すこともできなくなる。

 目の前にある時雨さんは物静かに、軽く目を細めた。


「僕は、貴女の作る料理が好きです」


 その瞳は、声は、涙がとまらないほどに優しい。


「若い芽を摘まれたなら、おいしいお茶になれる。貴女が以前、しずくに言った言葉です。僕もそう思います。どんなに苦かろうと、その経験は必ず貴女の力になります。貴女が、前を向き続ける限り」


 背後で、花火が打ちあがったらしい。光に包まれ、影が色濃くなった。


 歓声が私たちの沈黙を埋める。


「まだ……間に合いますか? 私、やり直せると思いますか」

「もちろん。間に合うもなにも、僕にとって貴女はもうとっくに料理人だから。貴女はまだ、なにも間違えていませんよ。目指している場所にだって、ちゃんといける」


 涙が滲んで顔をあげられない。足元に敷き詰められた玉砂利に、ぽたぽたと染みを作る。せっかくの花火も見られそうにないけれど、私はただ声を絞り出した。


「絶対に、今よりもっとおいしいもの、作れるようになりますから。そしたら、……食べてくれますか?」

「ええ。楽しみにしています」


 ふわりと浮かんだ時雨さんの微笑に、私は自然と笑顔を返していた。


 数か月ぶりに心の底から料理をしたいと思った。この人のために。


 そうして思い出す。


 すべての始まりは、手作りの夕飯を両親に美味しいと言ってもらえたのが嬉しかったことだと。誰かの笑顔が見たくて、私は料理をするようになったということを。

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