第16話 最後の言葉

 私のバッグが椅子にあたり「ガタン」と音を立てた。一星くんが気づいて、私の方にくるりと顔を向けた。私はどうしていいかわからなくて下を向く。


「あ、美華さん。」一星くんがにっこりと笑って私の名前を呼んだ。


「これ、美華さんが描いたの?」と一星くんが聞くので、私は黙って頷く。


「きれいだね。」と一星くんが言い、


「え?」と私が聞き返す。


「この絵、すごくきれいだね。」と一星くんがニコニコして言う。


 死んでいる男の顔の絵だ。頭から大量に血が吹き出し、脳みそが飛び出ている。焦点の合わない目は視線が空をさまよっていて、口からは唾液が垂れている。吉永教授から「パワーがあるわね。」と思いがけずめられた絵だったが、「きれいだ。」と言われるとは思わなかった。


「血がぬらぬらしているところとかさ、白目の部分に細い血管が浮き出てるところとか、すごくきれいだ。」


 西日が教室に入り、一星くんの顔を照らしている。一星くんは、屈託くったくのない笑顔で私と絵を交互に見たあと、夕焼け色になってきた窓の外を見て目を細めた。不思議な雰囲気の人だと思った。生きているのと死んでいるのと、その中間にいるような、稀有けうな存在感があった。なんだか、この世の住人ではないみたいだった。


「くちびるがカサカサに乾いてるのに、唾液が出てるよね。」と唐突に一星くんに言われ、私は曖昧あいまいうなずく。


「なんて言ったの?」と一星くんに質問され、質問の意味がわからずに「え?」とまた私は聞き返す。


「この男、死ぬ前にさ、なんて言ったの?」


私は自分の絵に視線を落として、死んだ男の半開きの口を見つめる。


(ここから最後に出た言葉……。)と数秒、思考を巡らしたあと、


「お母さん。」と私は言った。とっさに思いついた言葉だったけれど、それで間違いない気がした。


「ふーん。」と一星くんは、少し意外そうな顔をして腕を組んだ。


 私はその時、胸の中におりのように溜まっていたものが、すうっと消えていくような、不思議な感覚を覚えた。安堵感あんどかんに似ていた。


「この男は死んだのだ。」と私は心の中で反芻はんすうした。私を襲った後もなお、何度も悪夢に出てきたこの男は、死んだのだ。なぜだか、あの時の私も一緒に死んだような気がした。いつもおどおどと何かに怯え、母の視界に入らないように細心の注意を払いながら、心の底では母の関心を必死で引こうとしていた、あの子。


「この人、生きている時は、めっちゃくちゃ嫌な奴だったのかな。なんかそんな顔してる。」


 一星くんに言われて、私は全てを見透かされたようでドキッとする。この人は、本当に人間じゃないのではないかという気がして、その馬鹿げた発想に心の中で苦笑する。


 この男は、嫌な人だったのだろうか。あの日、私を襲った男。私がレンガで殴った男は、通りすがりの高校生を強姦ごうかんしようとしたのだから、確かにろくでもない人間だろう。でも、私はあの男の名前も知らない。顔も覚えていない。家族や友人はいたのだろうか。みんなに嫌われていたのだろうか。それとも、大事にされ、しあうような間柄の人間が一人でもいたのだろうか。私はあの男のことを何一つ知らない。


 では、この絵の中で死んだ男は誰なのだろう。最後に「お母さん。」と言って息を引き取った、この人は。


「そうなの。」と私は小さな声で呟いた。


「めちゃくちゃ嫌な人だった。死ねばいいのにと思ってたの。」私は、今度ははっきりと言った。不思議と心は穏やかだった。


「ふーん。」と一星くんはまたうなずいた。


「死んでよかったね。死に顔がすごくきれいだ。」と一星くんが私の目をみて微笑む。


「ありがとう。」と私も一星くんの目を見ながら笑ってみせた。


 私の胸に温かいものが込み上げる。あの時、人を殺したかもしれないと松岡くんに打ち明けた時の気持ちに似ていた。私の声に耳を傾けてくれる人がいる。それだけで、私はこんなにも救われるのだと気づいた。


 ふと母のことを思った。母には、自分の声に耳を傾けてくれるような人間が一人でもいるのだろうか。夫に愛されず、娘を愛せない母のことを、初めて不憫だと思った。もしかしたら、人を愛せないのは、人から愛されないことよりも、孤独なのかもしれない。母がときおりベッドを共にしていた男たちは、ひとときでも、母の声に耳を傾けていてくれたのだろうか。あの男たちの一人でも、母は愛したことがあったのだろうか。そうだったらいいな、と私は思い、そのことが自分でも意外だった。

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