洋上の砲台

 皆嶌龍弥みなじまりゅうやが大学生だった二○一八年までは、洞窟のあるサンノゼ市街の近くにアメリカ西海岸はなかった。しかし、温暖化と黒い怪物たちによる地表の浸食によって、サンタクルーズを始めとしてビック・ベイスン州立公園からシエラ・アズール保護区まで二○キロメートル超の幅の大地が海に没し、いまや太平洋の海面は立って確認できるほどの距離にある。

「「……え?」」

 龍弥りゅうやとミネルヴァの二人が揃って唖然としたのは、洞窟で会話を終えてからおよそ二〇分後だった。雨音は止んでいた。沈んだ空気をどうにか変えるため、彼は足を西に向け、少女と共に外の空気を吸いに出た。

 眩い真夏の日差し、ガーネットキマイラの泥の熱で氷の裏から姿を出した波打ち際。天を覆う虹の弧に、水面を爆速で駆ける薄い鉄板と、それを乗りこなす上半身裸のじゅん。同じ浜に立った青年、守河優斗もりかわゆうとは、すげえだのかっけえだの言いながらその様子を見守っている。

「な、何やってんだ」

「サーフィンだよ。見て分からないなんていままで夏に何をしてきたんだい。……あ、龍弥くんもしかして友達少なかった? ごめんね」

「いや見て分かるとかそういう話じゃなくて……って、お前」

「やだなぁ、謝ってるんだから怒らないでよ」

 ばっしゃあと水音。熱による加速で海岸線まで近づいてくると、サーフボードと化した鉄のキャンピングトレーラーの扉で二人に海水をぶっかけた純は、ケタケタと笑って龍弥を煽った。咄嗟にその巨躯で庇っていなければミネルヴァごとびしょ濡れだったところだ。

「昨日から水かけられたの二回目だぞ」

「いいじゃないか。僕たち水も滴るいい男ってね」

 澄まし顔で手招きする青年。かかってこい、瞳の奥にそんな色を感じて、龍弥は隣を見た。カノートと混ざった純。一瞬複雑な表情になったミネルヴァだったが、晴れ渡る空と頭上の虹、そして彼の素朴な笑顔に、暗く重い気持ちは抑えられたようだった。ちょっと目を離した隙に海岸に駆け寄り、そこにいた優斗と恐る恐る交流し、打ち解けて共にすげぇAwesomeとかかっけえCoolとか言っている。

「ほら、レースをしようよ。といっても、ファンが一人もいない龍弥くんじゃ僕には勝てないかな」

 へらっと笑って煽る純。いまにも倒れそうなくらい疲れているのにふざけた冗談に付き合っていられるか。引き返そうとした龍弥の背中に、投げかけられる視線。気配を感じて振り返ると、金髪の少女と、その隣の青年が、期待に満ちた眼差しを湛えて彼を見ていた。

 痩せこけ、頬がくすみ、誤魔化しきれない倦怠感を全身に着込みながら、二人は一つの希望を見るように力強く目を輝かせている。――怖い思いをした彼らが少しでも楽しんでくれるなら。はぁ、と息を吐いた龍弥は形だけでも深淵の瞳の青年の提案に乗ることにした。沖へ出たついでに、どこかほかの種類の魚がいる場所を探して来よう。

 見下ろすと、ご丁寧に波打ち際にはキャンピングトレーラーを解体して生成された鉄板がさらにいくつか持ち出されていた。上着を脱ぎ、龍弥はそのうち一つに左足をつける。平たい鋼で水面を駆けるには勢いが要る。先を往くように滑る純を追って、必要最低限の熱量で輝く赤い鶴の翼。それが拡がり切った瞬間、瞬く光と共に砂を蹴り、彼は飛び出した。

 派手に波を割り、虹が渡す空を映した水面を揺らす。サーフィンというよりはモーターボートのような要領で、いつも漁をしているところからかなり西まで一息に駆けていく。

「どうする、龍弥くん? このまま日本に戻っちゃう?」

「疲れてるから余計なことを言わないでくれ」

「そう。ならあの小島で少し休もうか」

 少し離れたところにある四畳半ほどの大きさの岩礁まで、一分程度。足に溶接した鉄板をまた熱で剥がすと、龍弥たちはそのまま上陸した。翼を仕舞って振り返る。海を隔てて視界に拡がった横一線の白亜。現れたのは、先ほどまで立っていた陽の光を返す氷結した地平だ。

 魚を探して視線を下ろせば、海面には太い一条の青色が揺れている。海岸からここを通過して、直線約一五キロメートル。人工的なブルーホール。あの夜ガーデナーが熱閃で抉り飛ばしてできた海溝だ。この小島が数個収まりそうな幅と建物数階分の深さがあり、底面はまだ焼け焦げて熱を持った漆黒に染まっている。凍土化により急激に下がった水温と、数年前まで陸地であったために膝上ほどの高さしかない水面。それらにもかからわず、龍弥が洞窟からあまり離れず漁を行えたのは、沖合からこの暖かい谷を通った魚たちが流れ込んで来ていたからだ。

「ねぇ、龍弥くん、僕が君を特別に想う理由って何だと思う」

「疲れてるって言ってるだろ」

「それはね」

 岩に腰をつけて魚を探す龍弥の首に、後ろから細く白い手が伸ばされる。いつか奇跡館きせきかんで見た傷跡は欠片もなく、ただ透明な瑞々しい肌が日光を返す。少しの間ののち、背に回る暖かい感覚と、耳にかかる吐息。何のつもりだ。そう声をかけようとすると、純の手が持ち上がって指差した。

「――黙って」

 水面から目を上げて、指を追う。と、そこで龍弥は気付いた。見上げる空、眼前の海岸線のその奥に、白飛びした地平の果てから異様な迫力で昇る光がある。夏の日が照る入道雲の合間から群れを成して飛んでくるのは、丹泥種行海群乙型一号たんでいしゅぎょうかいぐんおつがたいちごうと同じ規模、計五体からなる怪鳥の群れだ。うち一匹、先頭を飛んでいたあかいワシが、不意に下を向く。その視線に捉えられたミネルヴァと優斗が悲鳴を上げるのを、超常的な彼の五感は鮮明に偽りなく映し上げる。

 足元に伝わる海水の冷たさが、皮膚に沁み込んで神経を伝い、脳を凍らせる。完全に油断していた。気が抜けていた。嘘のような絶望が眼前に拡がろうとしている。殺される。守ろうとしていたものが、また、なくなる。その前にどうにかして、自分が犠牲になってでも注意を引かなくては。巡る思考のまま翼を拡げようとした龍弥の視界に、赤黒い紋章が映る。肩に回った純の腕がおぞましい印に覆われ、その右手が跳ね上がって青白い長銃を握った。

「良いよ。ちょっと、任せて」

 囁くような声と共に、視界の半分が赤い泥の壁に覆われる。純の能力は『火器を生み出し、操る』というもの。『行使されていない他人の能力を行使できる』龍弥ほどの汎用性はないが、使う者が使えば違ってくる。岩稜の小島に腰を掛ける青年二人の右半身を覆うように半球状の泥の防壁が形成される。溶岩にも似た熱を上げる表面から一つ飛び出しているのは、青白く伸びた銃だ。沖合二キロメートルの洋上に座した小さな砲座。龍弥が振り返ろうとした直後、肩に冷たい感覚があった。

 それは涙だった。純がその白い頬に伝わせて零した一粒の涙。ガーネットキマイラの力は、恐怖するほど増す。背後の底知れない青年は一体何を怖れるのだろう。そう思う余裕もない龍弥だったが、確かに彼の能力反応は臨界直前まで出力を上げているのだけは分かった。

 直後、小さな揺れ。吹き抜けた一陣の風に合わせて、凪いだ眼前の海が龍弥たちのいる小島を弧の中央にするように大きくしなった。泥の防壁が俄かに形を崩し、銃口と反対方向の水面に青年二人分の淡い影が伸びる。純の能力が最大に発揮された一撃が放たれた。と、能力で把握しなければ気付かないくらい、目の前の光景の激変はあまりに静かだった。おぞましいほどの無音。風圧に荒れる海面も、剥がれ飛んでいく泥の防壁も、歪に伸びきった影も、全て白い平静の中に奇妙に同居していた。

 ガーネットキマイラの力で発射音を大きく抑え込んだのか。龍弥が問おうと立ち上がって振り返ったところで、目が合う。純。その笑顔とは不釣り合いな涙の筋を頬に残した青年は、紋章に覆われた両手を龍弥の腰に伸ばす。何のつもりだと反応する暇もなかった。迫る黒々とした瞳。純はつま先を伸ばし、口づけで龍弥を押し倒してもろともに海面に没した。

「がっ!?」

 弾ける水しぶきと共に、夏の心地よい塩水が身を包む。いきなり口を塞がれた方の青年が混乱に鶴の翼を拡げかけると、唐突なキスの主犯はそっと離した顔の間に指を差し込んだ。しー、黙って。純がウインクをして息の泡を吐きながら音もなく言った途端、龍弥は全く別のものに注意を引かれた。小島に連なる浅い水底に背が付く。眼前、差した銀色、三メートル上の水面の光。その明るさが一瞬だけ莫大に増した直後、全てを破壊するような地鳴りと共にとんでもないうねりが海中を駆け抜けた。

「いやぁ、我ながら派手にやったと思わないかい。龍弥くん」

「……」

「ノーリアクションは寂しいじゃないか」

 波立つ海面から顔を出した龍弥たちの前に、それは鎮座していた。耳に響く風切り音と、焦げ付いた匂い。肌に撥ねる水しぶきに、断続する激震。視線を上げて、サンノゼから遥か南西の彼方、水平の果てに姿を現したのは、目をく至天の炎、立ち上る巨大な熱の柱だ。揺れる昼の爆心。数万トンの液体を一瞬で蒸発させる火力。スケール感のふざけたそれは、薄い層雲を紫電と共に曝し上げて虹を焼く。怪鳥の鳴き声。幾条かの赤い光が空を奔り、その爆発の下へと向かっていくのが見える。疲れた頭では処理しきれない。西海岸を支配し、怪物たちの気を引いて遠ざけたとんでもないまでの一撃に、龍弥は言葉を発することが出来なかった。

 やっぱり、氷のある場所とは違って、ただの水面に派手な爆発を起こすと集まって来るね。乙型一号もまだあの辺りにいたはずだから、上手くいくと同士討ちしてくれるかも。流された鉄板二枚を拾って来た純がそう言って小島に戻ったころ、龍弥は体力の限界のために固い岩に腰を当てて寝転がっていた。あれほど超常的だった火の柱も潮風に流れ、姿を消してしまっている。温かい七月の日差し。感覚がぼやけて、怪物の気配が分からない。みんなは大丈夫だろうか。あぁ、今日の分の魚を取って来なくては。気持ちは逸るが、身体が動かない。首が持ち上がらない。吐き気さえ混じる倦怠感と、歪み重なるくもった視界。その中央に整った青年の顔が映る。

「それはね、龍弥くんがそのまま特別だったからだよ」

 何を言っているか分からないまま、目の前が暗くなっていく。体力の限界だ。それでも龍弥の残された聴覚は、加えられた深淵の瞳の男の言葉を途中まで聞き取った。

「だって、僕が思うに、君はあの奇跡館きせきかんの八人の中でただ一人だけ――」

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