開かれた扉

 安全は確認できている。丹泥種たんでいしゅ、レッド・クリーチャーの気配もない。暇を持て余し、ランタンを持って廃坑探検に向かったじゅん、それに無邪気に付いていくミネルヴァ、ファーガルの子ども金髪コンビを見送って、一人皿洗いを終えた龍弥りゅうやは、大きく息を吐く。

 話を振ったものの、倫理観の足りない青年の何を知ることも出来なかった。子どもたちとの交流が進むにつれて、彼の底知れない才気が、さらに深く音の届かない深淵を覗かせただけのように感じられた。思考を止めて、車外に出る。冷える空気。気配を察したのか、廃坑の行き止まりの壁に目をやっていたクローシェが、振り向いて言う。

「もう、びっくりしましたよ。いきなり、恋バナ、だなんて」

「あ、あぁ、うん。俺なりに機転を利かせたつもりだったんだけど、ごめん。でも結局、純のおかげでなんとかなってくれたからまぁ……」

 口を滑らせて、気付く。恋についての話題を通じて純を知ろうとした龍弥だが、クローシェにとってはどうだっただろうか。艶やかなブロンドの髪を揺らし、女優然とした美しさを持つ彼女には、記憶がない。そんな中で、過去を攫うようなこの話題を振ることは苦ではなかっただろうか。考えが足りなかった。それは彼がガーネットキマイラになって以降手に入れた間抜けの発現というよりは、もっと自然な彼自身のミスだった。

 私はたくさん本が読みたいな。純が切り替えた話題にそう答えたクローシェの様子を思い出し、さてしかしどんな本かということを記憶のない彼女に聞いても良いのか悩む龍弥に対し、美しい少女は数歩前に歩み出て「でも、ありがとうございます」と言葉を区切り、こう続けた。

「みんなと話していくうちに、少しずつ、自分が鮮明になってくる感覚があるんです」

 名前がクローシェ・ケーニッジだということも、一五歳の誕生日を迎えたばかりだということも。そして、本を、とりわけ古典を読むのが好きだったということも。

 嬉しそうに三つ、指を折って笑顔を見せる彼女に、龍弥は胸をなでおろし、暖かい喜びを覚えた。記憶がないというのは、単に『自分が何者か分からない』という精神不安の問題を生むだけではない。 

 仮に、クローシェがロウズと同じく定期的に服用しなければ死ぬ類の常用薬を持っているとすれば、記憶の欠落は時限爆弾にも似た物理的な死に直結する。彼女を助け出したとき、彼女の入っていた棚の中には何もなかったから、可能性は低いと思うが、ともかく早めに全てを思い出してもらうに越したことはない。

 ふと、足元にがさがさとした感覚がある。それは焼け爛れて固まった龍弥の靴を這い、ボロボロのジーンズを上って、汚れた黒いシャツに張り付く。

「ひっ」

「――うん?」

 クローシェの笑顔が見る間に恐怖に変わり、龍弥と距離を取る。捕まえて目の前に出すと、それは、体長五センチほどの、小さなムカデだった。クリーチャーとは関係ない、ずっと前から存在していた普通のムカデだ。まさか、この黒に染まった大地で、生きている生物がいたとは。

「ち、近付けないでください。うわぁ、」

「えーでも、怪物から生き延びた仲間みたいなものじゃないかな」

「違う! 絶対違うぅ……。殺さなくっていいから、せめて、見えない遠いところに、ひぃ、動いたぁ! あいたぁ!」

 先ほどまで澄んだ知的な目をしていたクローシェが、慌てふためきながら後ろに下がってトロッコの路線に躓き、派手に尻餅をついた。怪我はなさそうだ。その微笑ましい様子をすがめながら、龍弥は彼女の深く本当のところが知れた気分になった。

 純にも似たような方法が試せないだろうか。思案して、死を畏れ、手の中で身をよじらせて暴れる小さな命をそっと遠い廃坑の木の梁に返す。ブロンドの髪の彼女は、安堵の声を漏らして立ち上がるために奥の壁面に手を触れる。

 瞬間、激しい地鳴りが廃坑を揺らす。今日の昼から世界中に撃ち放たれる予定になっている東アジアからのミサイルが近くに着弾したのかと思ったが、違う。轟音は足場を揺るがすような振動を伴って、目の前、クローシェの触れた土色の行き止まりの奥から鳴っている。よろめいて再び倒れそうになる彼女を今度はしっかりと支え、数歩後退って、数メートル離れたトレーラーの運転手席に腰をぶつける。

 空気がひりつく。この土壁の奥で、何かが起こっている。

「カノート、聞こえるか! 純たちを探してきてくれ!」

 壁向こうの気配までは分からなかった。仮にこの土に覆われた行き止まりの先に、自分と同等以上の力を持つ怪物、丹泥種たんでいしゅがいるとしたら、子どもたちを逃がすには再びミネルヴァの瞬間移動能力を頼ることになる。しかし、彼女の能力は洞窟から半径数キロ先の洞窟へしか移動できないことに加え、一度に飛ばせるのは半径二〇メートル以内にあるものだけだ。

 みんなで一緒に逃げるには、一つ所に集まっている必要がある。飛ばした言葉に応えるように、トレーラー後部の扉が開き、浅黒い肌の少年が小さなランタンを片手に走り去っていく。他にクリーチャーの気配はない。純に似て理知的なカノートなら、上手く見つけて来てくれるだろう。それより目の前に集中しなければ。

 頬が泡立つ。顔面を赤黒い紋章が覆い、クローシェを抱き留めていない左手に、空色の剣が握られる。足元にあかい泥が流れ、無言の圧力を発していく。空気が震え、奇妙な磁場のようなものが龍弥を包む。腕の中のブロンドの髪の彼女を無暗に怯えさせるべきではないが、気を抜くこともできない。

「大丈夫、大丈夫だから。後で好きな本の話を聞かせてよ」

「は、はい……」

 なるべく穏やかに、優しく言いながらも、視線を正面から離さない。ぎゅっと腕が強く掴まれる。クローシェが恐怖に震えているのが分かる。もし、自分がガーネットキマイラでも能力者でもなかったら、きっと彼女よりずっと無様に慌て、金切り声を上げ、考えなしに逃げ出しただろう。そう、龍弥は思った。心臓が高鳴り、荒い呼吸音をさせながらも落ち着いてくれている彼女をしっかりと抱えなおす。敵がいると分かっているのなら、先手を打つことが出来る。地震にも似た振動音に覆われながらも、背後、およそ一〇〇メートル先から、四人分の走る足音が聞こえるのを、龍弥の圧倒的な聴覚は捉えた。

 空色の剣を振り上げる。純たちが到着次第、ミネルヴァに叫んで腕の中のクローシェと共に瞬間移動してもらうのと同時に、自分はここに残り、最大火力の一撃を見舞う。それからは昨日の焼き回しだ。左手に力を籠め、精神を研ぎ澄ませる。重く断続する振動音、パラパラと降り落ちる土埃。自分の心拍も徐々に早まりつつあるのを感じながら、数歩前に進み、仁王立ちでじっと待つ。あと五秒、四秒、三秒……。

「ミネ……えっ?」

 結局、龍弥が大きく声を上げることはなかった。振動が止まる。と、同時に土壁に亀裂が生じ、広がり、割れて、散る。廃坑の行き止まり、その奥。トレーラーに走り来た純たちを含めた全員を出迎えたのは、新世界方形原領域サン・フランシスコのシェルターで見たような青い光を放つ近未来的な高さ三メートル超の鋼の扉だった。握ることが出来る位置に、一つ直角に折り曲げられた人間の腕を模した鉄製のドアノブが取り付けてある。


 地球全史アカシックレコード群 

 サンフランシスコ~ロサンゼルス窟路 

 第六区間 中世盛期 

 装飾写本担当次席研究官 ケンブリッジ大学院 

 クローシェ・ケーニッジ特別博士のために開く


 扉に青白い文字で数行の英文が表示された直後、ガシャッと鍵の開いた音がした。空色の剣を握ったまま呆然とする龍弥の横を純が遊園地に入場するような勢いで通り抜け、ミネルヴァとファーガルの金髪コンビがわーいと続き、最後に「良いの、置いてくよ」とだけ言い残してカノートが扉の向こうに消えていく。

 カクカクと腕の中の少女を見やる龍弥に、クローシェは驚いたような表情と共に返した。

「あれ、私、全部思い出しちゃいました……」


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