我らみな死を畏れ

Aiinegruth

第一部 死を畏れたものたちの創世

第一章 山巓に降り立つ鳥

第二回脱出会議

 翼を拡げ、飛び立とう。

 ここにいたのでは、きっと死んでしまうから。

 身を割く冷たさに、心まで冷え切ってしまうから。


 ゴトンと、身体に響く衝撃と共に目が覚める。揺らめく視界に映るのは、白い漆喰の床。そして、常夜光を放つ天井と、無機質な壁面。身体に触れる薄い布団の感覚から、彼、皆嶌龍弥みなじまりゅうやは、自分がベッドから転がり落ちたことを理解した。

 寝起きのふらつく身体で立ち上がり、手近な壁に手を触れる。水平方向に指をスライドすると、天井の光度が大きく上がり、一〇畳ほどの部屋の全貌が見える。最初に嫌でも目に入るのは、ベッドの正面の壁に飾られた一葉の絵画。それは、この白一面の部屋には場違いに生々しく、おぞましい質感を備えていた。ちょうど両手を拡げたほどの額縁いっぱいに、脳味噌の詰まった瓶が油絵で描かれてあり、下部には『あなた』とタイトルが添えられている。

 いつまでも見ていられるものではない。龍弥はため息を吐くと、シャワーを浴び、着替え、ベッドの枕元の棚に置いてあったカギを手に取って、ビジネスホテルのような間取りの部屋を出る。

 オートロックの鉛色の扉を開けると、そこは左右に伸びた長い廊下だ。部屋と変わらない白い壁面と、天井と、床。何度見ても現実味に欠ける光景だ。そう思いながら、彼は右手に曲がってまっすぐ進む。道中ほか幾つかの鉛色の扉を廊下の側面に認めながら、下り階段へと辿り着く。龍弥が一歩を踏み出そうとしたところで、眼下の踊り場から勢い良く言葉が飛んでくる。

「ちょっと、遅いよ! 心配したんだから」

 息を切らせた声の主は、少し驚いた様子の寝起きの龍弥を見つけると、安心したように冷たい白の床にへたり込んだ。湯河原ゆがわらロウズ。今年で二〇才になる龍弥と同い年の彼女は、疲れのために火照った頬を緩ませると、肩を上下させながら彼を見上げる。

「あぁ、ごめん……」

 踊り場まで駆け下りて、謝る。起きた時間がまずかった。朝の集合時間に遅れていることは、自室に備え付けられた時計で気が付いていた。しかし、実際に迎えにまで来てもらうと罪悪感が増す。勝気で活動的な性分に反して、先天的に病弱なロウズが相手ならなおさらだ。

 あまり無理をさせてはいけない。完全に体力の切れた彼女の身体を支えて、ゆっくりと階段を進む。少し肌寒い白の空間の中で、転ばないように握った手から暖かさが伝わってくる。近くに繰り返す荒い呼吸音。腕に張り付いた薄い着物にべたついた汗と鼓動を感じて、龍弥は少し気恥しくなった。それはロウズも同じようで、会話はあっても、彼らがあえて顔を見合わせようとすることはなかった。

「グッドモーニング、お二人さん。朝から手繋ぎデートかい?」

「ふざけたこと言わないで、あんたも探しに行こうって必死だったくせに」

「ちゃんと目覚めのキスは忘れてないかい?」

「話をちゃんと聞きなさいよもう!」

 朝の集会の場所、個室の一つ下階にある鉛色の食堂の扉を開けると、やけにテンションの高い男が龍弥たちを出迎えた。

 二条市陽にじょういちはる。痩躯の青年で、身に着けた派手なピアスや、付け爪、明るい茶色に染めた髪に、入っている赤色のメッシュと、ビジュアル系のバンドに一人はいるだろうというような容姿をしている。一目くれただけなら軽薄な性根の持ち主だと誤解されても仕方がないなりだが、龍弥は、彼がユーモアにあふれているだけの誠実な男であることを、ここ数日の意思疎通のなかで感じ取っていた。勝気で冗談の通じないロウズとは顔を合わせるたびにいつもこうやってごちゃごちゃしているが、二人の仲はそこまで悪いわけではないらしい。

「ごめん。ありがとう、湯河原さん、市陽くん」

「気にしなくていいよ。とにかく君が無事でなによりだ」

 謝る龍弥に、青年は爽やかな言葉を返し、息の落ち着いた様子のロウズは頷いた。

「それで、残りの三人はどうしたんだ市陽。やはり無理だったか」

 会話を続ける龍弥たちに、食堂の奥から現れた巨大な影が声をかける。二条令吾にじょうれいご。二条市陽の兄で、身長二メートルを超えた巨漢だ。同じく一八〇センチ台前半の弟が小柄に見え、それよりさらに一〇センチ低い龍弥とは親子のような差がある。体格とそのリーダー気質が相まって、彼はこの食堂に集まるメンバーを実質的にまとめている。

「あぁ、兄さん。無理だった。オレが行ってもどうにもならなかった」

「そうか。なら仕方ない。見たところ最悪の事態は避けられたようだから、食事にするか。龍弥、ロウズ、已愛いあ、席についてくれ」

 促されて、各々食堂の中央にある円卓に腰かける。龍弥は座った途端、薄い青に黒を足した瞳と目が合った。彼の対角線上に座ったのは、彼が着くより前に食堂にいた最後の一人、物静かで小柄な少女だった。

 榎木園已愛えきぞのいあ。彼女の右隣に座ったショートカットのロウズと違って、目にかかるギリギリまで伸ばされた黒髪に、病的に白い肌。服から出た手も足も細く、触れれば簡単に折れてしまいそうな印象さえ受ける少女だ。彼女は目が合った龍弥にそっと頭を下げると、目線をテーブルに落として、いつものように黙り込んだ。

「あれからいくらか経ったが、見たところ脱出できるところはなかったな。この食堂も、大広間も、各個室も、共用の部屋もダメだ」

 食事を終え、重苦しい空気を低い声で揺らしたのは、龍弥の右斜め前に座る巨漢、令吾だった。彼は俄かに立ち上がると、右手を強く握る。

 岩石にも似たその手の甲に赤黒く輝く紋章が浮き出た瞬間、令吾を中心に半透明な球形をした壁が現れ、すっと拡がる。それは同じ円卓についていた龍弥たちを何事もなく内側に取り込んだが、床を除く食堂の五面の壁にぶつかると、強烈な閃光と爆発音を上げた。激突したと呼ぶには十分だった。ドーム状に規模を増した薄い白は、接触面にバチバチと紫電を散らしながら、直方体をした食堂を内部から割り、破ろうとしている。衝撃は激しく、地鳴りとなって床を揺らす。あばら屋どころか、コンクリート塀さえ内側から弾き飛ばしてしまいそうな轟音が断続的に足元に響く。

「――やはりダメか」

 しかし、大男の表情は渋いものから変わらない。手から紋章が消え、振動が落ち着いたころには、食堂の壁面と天井には傷一つ付いていないことが分かる。何度か試したことだ。この謎の建物の中では『紋章権能もんしょうけんのう』と呼ばれる一人に一つ超常的な能力を行使することが出来るが、それで外壁を破壊して脱出することは叶わない。

「もう、已愛が怖がってるじゃん」

 飛んできた言葉に令吾は謝り、席に着く。龍弥が目を向けると、食堂の円卓に座っていた一際小柄な少女が、その隣のもう一人の女性に抱き着いていた。抱き着かれた方の女性、湯河原ロウズは、怯えた様子の榎木園已愛の頭を優しく撫でながら、気は乗らないけど、と切り出した。

「結局、残りの協力が必要ってことだよね」

 食堂に集まった五人、皆嶌龍弥、湯河原ロウズ、二条令吾、二条市陽、榎木園已愛を除いた三人。つまり、大幕街おおまくまちユウ、竹平純たけひらじゅん、そして、オートノミー。いま顔を合わせている人間と違い、この三人、特に後者二人は、龍弥にとっても、この場のほかのほとんど誰にとっても、積極的に会いたいと思えるような人物ではなかった。

 それから少し話が続き、三人の中でも唯一まともに話が通じるかもしれない女性、大幕街ユウの元に市陽が再び説得に行くということが決まったところで、閉じ込められて三日目、第二回目になる脱出会議は解散した。

 食堂を去る数人の背中を見送り、龍弥はふらっと立ち上がって、目線を上げ、淡く光る壁に掛けてある丸時計に目をやる。時刻は九時五〇分。もうひと眠りくらいしたい気分になっていた彼は、頬を叩くと、重い足を進めた。

 


 

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