消失少女

Sanaghi

第1話

 都古が二つめの扉を開くと、その向こうには下半身――正確に言えば陰部を露出した先輩が立っていた。


 外は――比較的穏やかなほうではあるものの――吹雪いており、朝に発表された予報が百パーセント正しいのならば、マイナス十度を下回っている。風が強く、雪も降っていることを踏まえると、体感温度はマイナス二〇度に迫るだろうか。とても「寒い」の一言では言い表しきれない環境に下半身を晒す人間、いやバカがいるだろうか。そのありえない光景に青年は思わず、茫然とする。先輩の顔と唇、そして露出された下半身は、いままで見たことがないほどに真っ青になっている。彼自身はすこし意識があるのかすら怪しい状態だった。この暴力的に理解不能な状況を頭の中で整理するために、一度深呼吸をすると、ようやく言葉が出てくるようになった。


「……今度はいったい、どんな馬鹿やったんすか、先輩」

「み、みひゃこ、たひゅけてくれ」


 状況を上手く呑み込めない戸惑いをそのままに、都古は急いで先輩を室内へ招き入れる。肩を貸して彼を歩かせると、彼の逸物がぶらりぶらりと揺れる。なぜか水気を含んでいるアウターはずっしりと重かったので、すぐさまにそれを脱がせてしまう。脱衣所では何かを脱がせることなく、都古はそのままぶち込むようにシャワールームの椅子へと座らせた。それからコックを捻ってぬるま湯を出し、心臓に遠いところからゆっくりとお湯をかけていく。低体温症の処置は都古にとって慣れたものだった。コツは急がないでゆっくりと温度をあげていくこと。急けば心室細動を起こして心停止に至る。それだけに気を付ければ、特別なことは無い。


「いい? 服の上からゆっくりとシャワーをかけるのがコツだよ」と、都古は地元に暮らす母から教わっていた。それは幼い弟が薄氷の湖に落っこちた時の話だった。今年で二十八を迎える大の大人が、そして誰よりもこの土地に詳しい彼が低体温症なんて間抜けをやるのは、なにかトラブルが起こったとしか考えられなかった。顔を俯いて少し虚ろな表情を見せている先輩だが、意識はあるようだった。


「酒ですか? 酔っ払ってあんなことしたんですか?」

「ひゃけ? あんにゃ?」

「……いや、今はいいです」


 意識はあるが、ベロが回っておらず、とても受け答えできるようには見えなかった。シャワーから出てくるぬるま湯が凍っていた体をゆっくりと溶かしていく。シャワールームが水蒸気で曇って煩わしく感じた彼はシャワールームの扉を開き、換気扇を回す。先輩の顔にすこしずつ顔に赤みが戻っているのはシャワールームの橙色の照明のせいだけではないだろうと、どうやら、そこまで症状は深刻ではないと都古は察した。


 さて、と困ったのはここからだった。身長一八〇センチを超えるこの大きな男の服を着替えさせ、運んで、ベッドに寝かせて、然るべきところに連絡しなければいけない。貴重な日曜日の午前中から、とんでもないハプニングが舞い込んできたものだ、と都古は思わず苦笑いを浮かべる。目の前でシャワーに当たっている先輩という男は、都古にとって半ばヒーローのような存在だった。寒冷化により全球凍結を控えた地球、その解決の術を探るために極圏で城のようなラボラトリーを、学問の横断的に構える民間企業「カナリア」に努めている男。

 カナリアで働ける研究員は一〇〇〇人に一人居るか居ないかだ、少なくとも都古の暮らすヴィレッジでカナリアに努めている人間は、彼しかいない。地質研究のエキスパートであり、必要とあらば雪原調査に少人数で臨むためのサバイバル技術も持ち合わせていた。

 それと同時に非常に豪放な性格でもあった。クマのように酒と飯を飲み食いし、ワハハと笑いながらラボラトリーを駆け回る。彼が金を貸せば、次の日には「忘れた。いいよ返さなくて、儲けたと思え!」と言ってしまう。下の面倒見をよくするし、研究実績も豊富なため、上からも好かれる。ありていに言えば人気者であり、暗い性格の都古からすれば憧れるところだった。

 都古は自分のベッドに先輩を寝かせると、くたびれた肩をもみながら机の上のタブレットを手に取ると、メッセージアプリを起動した。先輩と同棲している彼女に事情を説明すると「ありがとう。天候が落ち着き次第、すぐにそちらへ車で向かいます」というメッセージが返された。


 これがとある休日の朝、青年都古に襲い掛かったドタバタの顛末である。

 優雅な毎日を、あるいは余裕ある休日を過ごすことを心がけているわけではないが、ちょっとでもそれを取り戻そうと、都古はドリッパーでコーヒーを淹れ、窓から外の様子を見ながらそれを飲んだ。リビングにある縦二五〇〇、横三五〇〇ミリメートルほど、特別大きくない窓は、都古の知る限り二つの姿しか映さなかった。一つは一面を覆う雪の景色、もう一つは視界を遮る吹雪の様子。明かりのない部屋だから、吹雪の光景はわずかな光源となった。風がガラスを打ち付ける音とともに左から右へと粉雪が舞う。


 ふと自分が、目の前の光景に見惚れていることに都古は気が付いた。

 それはちょうど、ヴィレッジの片隅にあるコンテナで行われている原始的なライブのイベントを二階の狭いスペースから眺めているような。しばしば都古は自然という名の暴力に対して、そのような一種のマゾヒズム的な興奮を覚えた。それは目の前の光景に対して、自分は無力であることが由来するのだろうか、と彼は彼なりに自己分析をする。それならばこのヴィレッジで暮らす入植者に言えるだろうか、もしかしたら、この凍結寸前の地球に暮らす、すべての人間にあてはまるのかもしれない。


 そのようなことを考えていると、都古はきまって亡霊を見た。白衣の亡霊。女の亡霊。彼女はなにも言わず、机を挟んだ隣の椅子に足を組んで座って、上品な法杖のつきかたをしながら都古と同じように窓の外を眺めていた。窓の外を見つめ直してみると、都古にはそれがバンドのライブのようにも見えたと同時に、映画のエンドロールとも重なって見えた。


 共通するのは、どちらも、自分たちは目の前の光景に対して、まったくの影響力を持たないということ。だからつまり、この窓――と、そこに映るこの吹雪――は地球の全球凍結を回避することは不可能だ。という厳然たる事実を象徴しているのだろう。そこまで考えると、なんだか彼の気持ちはいやにむしゃくしゃしてきた。亡霊に意見を求めようと、横を向いたが、彼女は彼の行動に対してよく思わなかったのだろうか「少しは自分で考えればいいんじゃないかな」と一言告げて、そっと姿を消してしまう。

 

 都古は溜息をひとつついてコーヒーカップを机に置くと、ことり、と音が出た。

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