「……嬢ちゃん、嬢ちゃん」

「何です、龍神さん」

「その………大丈夫かい?」

「何がです?」

「いやね。本好きの嬢ちゃんが、ちっとも本を開かない。龍神さん龍神さんと、呼びかけてもくれない。そのまま、かれこれ一時間は経つが、嬢ちゃんはソファに座ってボーっとしたままだ。これで何もないと思う方が、難しいんでないかい?」


 龍神さんは大変目敏い。だから、私の異常にも、本当は、今日より前にもう気づいていたはずだ。何せ、私がこうなって、今日で三日が経過する。これだけ待ってくれていたことに、私は龍神さんの優しさを感じた。

 二日ぶりに遊びに来ておいて、三日も暗い空気を出したまま黙りを決め込むのは、少々無礼が過ぎるだろう。それは、私の責任だ。


 優しい彼への、説明の、義務が、あるだろう。


 億劫になりながら、重い口を開いて、声を出そうとする。実はですね、龍神さん。だが、それより一瞬早く、龍神さんが言った。


「嬢ちゃん。俺はなにも、無理矢理言えって言ってんじゃねぇぜ」


 実はの言葉が、はっと吸い込んだ息とともに、喉の奥に消えていった。


「別に、それを言うも言わないも嬢ちゃん次第だ。俺は興味本位で訊いてんじゃない。嬢ちゃんが心配で訊いてるんだ。嬢ちゃんがイヤなことを言わせるのは、俺の本意じゃない」

「……」

「言いたいときに言いな、嬢ちゃん。俺でよければ、いつでも聞いてやるから」


 聞くしか出来ないからな、と、青い水槽から響く声は、ひどく優しい。その声に、言葉に、私は、自分が本当は何を望んでいるのかを知った。


 言おうとしていた言葉を飲み込み、言いたい言葉を紡ぐ。


「その、何もなかったわけじゃ、ないです。何かは、ありました。えぇ、私の人生が途方もなく変わるようなことが。ですが、今は、それについて、一人で考えたいんです。考える、べきなんです。だから、今は言いません……言いたく、ありません」

「そうかい」


 冷たい部屋に響く声は、温かい。


「悩めばいいさ。悩むだけ悩んで、しんどくなればいつでもおいで。待ってるぜ」

「はい。……ごめんなさい、龍神さん」

「おおっと嬢ちゃん、こういう場合、ごめんよりふさわしい言葉があるぜ」


 その言葉に、私は、今日初めて龍神さんを見た。彼は、おどけたようなドヤ顔をして、調子に乗っている。


 それは、数多い創作で使いつぶされた言葉。キザったらしくて、でも、人の心を救う言葉。

 ふっと小さく笑って、私は龍神さんに言った。


「それもそうですね。ありがとうございます、龍神さん」


 いいってことよと、龍神さんは牙を見せて笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る