幸せじゃなくてごめんなさい

ペコチーノ

第1話

なぜ自分が生きているのか。この世界に降りたったのか。時に苦しみ、泣いている日もある。僕らはそのたびに、満ちていく月の光とともに、大切なはずの「何か」を忘れる。心は刹那の灯とともに、手の届かない場所へ歩き出す。しかし、反比例して「死」という現実だけは、恐怖を残し、心によどみ続ける。水たまりに墨を一滴たらしても、何も変わらない。だが、そう思っていられるのは束の間。繰り返され続けることで、見えなかったものが目に映るようになる。

「あと二か月」

これが僕に新しく見えるようになったもの。

僕に残されたわずかな「時間」が、動き続けることのできるタイムリミット。

僕は、ベッドの上で目をつむり、瞼の裏の世界を覗く。生の喜びも、死の恐ろしさもせめぎ合う混沌の世界で、残されたわずかな時間をどう過ごすのか。自分自身が交錯する中で、僕の中の僕は、今日も縮こまったまま答えを出そうとはしない。

けれど、この世界から魂が引き離されるその瞬間までには、答えを出さなくてはならない。何より、自分自身に決着をつけなくちゃいけないから



机の上に飾られたスズランの花は、差し込んだ太陽の光を浴びて、僕よりも先に目覚める。花弁が生きづく瞬間を目にすることはなく、七時になって遠くの方から鳥の声が聞こえてから起きる。カーテンを開けると、まぶしすぎるほどに輝く太陽が僕を見ていた。

あと何度この朝日を見ることができるのか。カレンダーを覗くと、医者に宣告された僕の余命までは残り五十日とすこし。そこまで生きていられるのかも分からないけど・・・。

遥か上空でのんきにあくびをするあの光を目に焼き付ける。

「明日もみられるのかなあ・・・」

せつない希望は昇華していき、だれの耳にも止まらぬまま、過ぎ去っていく。

一日の始まりは検温から始まる。わきの下に体温計を入れると、三九・八度。僕の患っている「急性骨髄性白血病」は、こんな感じで毎朝四十度近い熱が出る。朝から意識は朦朧とし、とにかく体はだるさで満ちていく。日がたつにつれて元の幸せな体は削られていく。けれど、こんな地獄さえもすでに日常と化してしまい、「怖い」とは思わない。むしろそんな自分に怖くなるくらいだ。

 このまま起きていても辛いので、眠ることにした。何を言われても、もうすぐ死んでしまう僕には関係ないと割り切った。こうして徐々に時間は過ぎていく。昼食後は薬を入れられて、吐いて、吐いて、吐いて、辛い時間が進んで、夜になる疲れ果てて寝る。そして、そのたびに今日の自分に後悔する。さすがにこの生活に何も感じなくなるのは程遠そうだ。

「それまでには死んでしまうんだろうけど」


どれだけの時が流れたどろうか、気がつけば、その日は残り二週間後にまで迫っていた。生きているのか、死んでいるのか、正直自分でもわからない。ただ、三途の川のほとりで一つの命が耐え忍んでいるだけ。 

「だれか、僕に生きる理由を与えてくれ・・・」


次の日も、いつも通り、何もすることのない朝を迎え、飽きるほど見た窓の向こう側を眺めていた。

心のキャンパスにスケッチを描けるくらい僕と共存してきたこの風景。何も考えずに生きていられる時間。それが楽な時間と言えるかは別としても、僕が僕でいられる瞬間。飽きるまでただ、ただ、無の心で眺めた。昼になる前に、布団をかぶって横たわった。一時の薬の時間まで、何もすることはないので、ぼーっとしていた。それは気づかぬうちに眠りに変わり、夢の世界へ墜ちていく。



「お~い。お~い。」

 突然その声が聞こえてきたのはいつからだっただろうか。遠くの方から呼んでいたはずのその声は、徐々に耳元まで迫ってきて、僕を起こそうとする。朝方僕を起こしに来る鳥のさえずりのように。

本能的に起こされ目を覚ましてみると、そこは、

僕の知らない。

いいや、この星の誰もが証明できないような光景が目の前に広がっていた。


サラサラサラ・・・

目前には、僕が一人で立っているのにはあまりにも広すぎるほどの大草原が広がり、あたり一面がゆらゆらしている葉っぱで埋め尽くされている。遠くの方には、緑に生い茂った木々が日向ぼっこをしている。そこは言葉では想像できないほど心地よく、荘厳で、不思議と自分が自分でいられるような気がする場所だった。

「おーーーい。」

地平線の見えないこの世界の端へ向かって叫んでみても、やまびこさえ起きない。

誰もいない、自分だけの世界に迷い込んでしまったのだろうか。わかっていることは、本当にただただ美しい見たことのない風景が僕の目の前には存在しているということだけ。

「ただの夢か・・・。」

そう思えばしっくりくるが、どこか腑に落ちない。

妙に現実味を帯びているような気がする。抗がん剤治療でやせ細ったはずの僕の身体が、ドシッとこの地に足をついている。大自然で育まれた空気が、体をめぐり始めた気もする。遠くに見える木々は、緑単色ではなく、様々な味を出している。そして、風が吹けば、髪が揺れ・・・。

僕に限って、そんなことだけは決してありえなかった。それと同時に、僕は、すべてを悟った。

「ここは、現実でも、夢でもない。僕だけの理想郷なんだ。」


髪の毛なんて、治療をしている間に抜けてしまったではないか、だからこれは夢なんだ。確かに僕も初めはそう思った。しかしこれが夢ならば、こうして人間らしい思考を繰り返しているのはどうしてか。

そういえば体の不調は・・・。

そんなわけないだろ・・・。

自力で、歩けてる。

思い通りいく世界に、僕は心を躍らせた。誰もいないけど、何にも縛られない。嫌なことも、辛いことも、明日のことも、人生のすべてを忘れられる。そんな僕の「理想郷」。終着点へ着いたような喜びとおどろきに包まれていた。

だがそれもほんの一瞬。一安心する間もなく、あわただしく僕を渦巻く。突然僕の身体は、空中に浮いた。あまりに唐突なだけに、当然この状態を解除することもできるはずもなく、体全身が浮遊する。すると今度は、大渦巻の中に引き連れ込まれ、体の自由が利かなくなる。

そこは嵐の中。積乱雲の中にいるように感じる。雷が降り注ぎ、身が凍るほどの寒さだった。歯がガタガタ鳴り、震えで手を強く握ることすらできない。さっきとは一変、ここはまさに「地獄」にふさわしい場所だった。大粒の水滴が体中にあたりつけ、目がショボけてきたと思い、右腕で目をこすった。ここまでが、僕が体験した、一度目の奇跡だった。


気づいたら、そこは見覚えのある光景。普段と同じ感触。もう、何百も、何千も見たことのある天井だった。

「理想郷は・・・。」

現実に帰ってきてしまったのだ。心の中にすっかり穴が開いてしまった気もするが、埋めることのできるものすら僕は持ち合わせていない。まったく不可思議な、説明できない現象が僕を渦巻いて、ほんの一瞬の間に起こった。

「くそが・・・。」

声にならない叫びが体の中で行き来する。どこにも吐き捨てられないその気持ちを、何者かに植え付けられたような感覚になる。

せめてもう一度くらいあんな場所に行ってみたいだなんてかすかな希望を抱いた。

「希望か・・・」

このくそみたいな人生の終着駅でようやく目にすることができた気がした。


どれくらいの時間がたっただろうか。あの場所と出会ってまだ数時間というところなのに、僕はまた新しい夢を見ている。気が付かないうちに眠ってしまっていたようだ。

「おーい。おーい。」

その声はまた遠くの方から聞こえる。徐々に近づいてくるその声には、やはりどこか安心感があり、全身を包み込んでくれるような気もした。

僕はもう一度あの場所に行けるのではないかと期待した。とても勝手な僕の思い込み。

しかしそう思わせてしまうほどにあの場所は脳裏にフラッシュバックさせる。

薬のような中毒性をもって、僕の胸を弾ませた。

そんなかすかな希望を抱いて、その声につられて目を覚ます。


すると、そこには、「僕」が立っていた。


どうしてかわからないけれど、目に映ったものは、僕の姿だった。なぜだろうか、驚くことはなく、僕の心はもう一人の僕の存在を受け入れようとしていた。

「僕を呼んでいたのは、君だよね。」

怖がることもなく、話しかけた。興味が先行したから。

「あかり君、そんなに怖がらなくても大丈夫。」

もう一人の僕は、質問には答えず、奇妙なことを言った。そして僕の名を呼んでにこっとして見せた。それは僕が普段人に魅せない笑顔だった。

しかしその行為は本人にしてみれば、あまりにも不自然で、説明がつかないことであった。

寝起きでかすんだ目をぱちぱちさせてよく見れば、そこにいるのは、もう一人の僕ではなく、僕の右側しかない、非現実的な生命体だった。


「半欠けの僕」と出会ったこの日から、僕の中の僕は動き出す。


一時頃だろう。太陽がとても高い位置にいる。真冬にもかかわらず、その日照りは、この部屋を暖めた。それが窓側の風景。いつもと変わらぬ日常。非日常なのは、窓側ではないそっち。そこには「半欠けの僕」が立っている。どうやら彼は何か僕に話したがっているようにみえる。人見知りなのかなあ・・・。だって君、僕だもんね・・・。

どこか納得いくそぶりを見せると、彼は満面の笑みでこう言った。

「ねえ。死にたいの?」

そんな顔していうようなことではないと思ったが、確かにそれは僕の本音。

「うん。」

返事を返した。彼のことは気になるけど話すこともない。今はそんな気分ではまるでないし。あの「理想郷」で生きることでしか希望を見いだせないような人間なのだから。

「まあ、そりゃそうだよね。」

すると半欠けの僕は、僕のすべてを知っているかのような答えを出した。そして僕の一歩上手を取って話してくる。

「ねえ、あの理想郷へもう一度行ってみたくないかい?」

それは驚きの提案だった。今の僕の心を唯一動かすことのできるもの。やはり彼は僕の心を読めているのだろうか。いや、彼が僕である以上、それは必然なのかもしれない。僕は喉元でその驚きの声を我慢し、彼の話を聞いた。

「じゃあ、俺にその体を譲ってくれないかなあ。」

彼は、なんの躊躇をすることもなく、恐ろしいことを口にした。しかし寿命が残り二週間の僕にとっては、そんなことはまるで気にすることのないことだった。

「そんなんでいいの?」

僕は破格ともいえる条件を目にして心が動く。

「人ってもっと命乞いするものだと思ってた。」

なぜか寂しそうな、でも、顔はにこっと微笑んだまま、話を続けた。

「ほんとにその気持ちに変わりはないみたいだね」

 僕のすべてを知っているであろう、彼からの質問。

「僕の人生知ってるくせに、そんなこと聞くんですね。」

そう言うと、彼はつまらなそうな顔を見せた。

一連の話が終わると、彼は深いため息をついた。

彼が呼吸を終えて、目を開けるまでの時間は、まるでいままで過ごしてきた時間とは思えないほどの重さを感じた。その時何かを感じ取ったが、微々たる違和感の中で、僕にできることはなかった。そしてその瞬間はいきなり訪れる。

「もう一度聞かせてくれ、君は本当に死んでもいいんだね?あの世で後悔しないでよ?俺のせいにされても困るんだから。」

僕に迷いなんてなかった。

「あの理想郷に行けるなら体なんてくれてやるさ。」

僕は強く言い張った。この人生に区切りをつけたくて、仕方がなかった。それをこんな風に救ってくれるなんて、神も捨てたもんじゃないな。

それは僕と半欠けの僕のとっての最終確認となった。死神ではないと思うが、多分人間ではない、そんな彼との契約を結ぶ手続き。

半欠けの僕は、右手を僕の額に当てて、何やら唱え始めた。

気づけば意識は薄れていき、眠りにつく。

それは、「命」という生命の奇跡に触れる禁忌。何者にも許されることのない行為。そして今、運命の歯車を、ずらす時が来た。僕の人生の終着点は、今日になりそうだ。


「生まれてくること」は人生で最大の奇跡だ。この地に生まれてくることに、あの小さな体の持つすべてのエネルギーを使い果たすから。そして、その儀式を通り抜け、親から名を授かることで、運命の歯車は回り始める。これが人間の始まり。でも、そこからは、「生まれてくること」よりも奇跡といえる体験をすることはできない。だって、「生まれること」以上の奇跡が、まだこの星には存在していないからね。でもそれじゃあ、あまりにも残酷だと思うだろ?

安心していい。この世界に降り立つその瞬間を覚えている者も、「生まれてくること」の奇跡を味わったことを覚えている人もいないから。そうでなきゃ、長い長い人生がつまらないからね。


半欠けの僕に運命をいじられ、意識が朦朧としているときに、そうささやかれたような気がした。いや、間違いなくそう言われた。なぜかいまだに脳裏にこびりついて離れない。そしてその言葉の意味を噛みしめた時

僕の知っている、あの「理想郷」に到着していた。もうその頃には、彼に伝えられた最後のメッセージなんて、忘れてしまっていた。そんなことよりも、今起きている状況への喜びが、あまりにも大きすぎて、これが人生最大の奇跡だと勘違いしていた。

しかしどうであれ、あの契約は成功していたのだ。かくして、僕の人生はハッピーエンドで終わりを迎えたこととなる。

窓際に飾られていたスズランの花も、窓の外の風景も、きっと世界は何も変わらない。僕がこの世界にいないことなんて、誰にも気づかれることなく、時の流れとともに風化していく。悲しみも、幸福も生まない僕の死は、世界に干渉することなく訪れた。そして、僕だけが知る世界で、僕は僕の好きなように生きる。それで、いいじゃないか。

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