楽園前戦

びどろ

鵜ノ沢 夏生

1

 母は、妹が生まれると同時に死んだ。


 妹は、一人では生きられない程幼かった。


 父は、母を愛していた。


 俺は、妹を守りたかった。






 築百年は下らないだろう、古い木造の一軒家。歩くたびに軋む床、今にも穴が開いてしまいそうなそれは、少年が生まれてからずっと目にしてきた風景だった。鮮やかな赤い髪を揺らし、食材が詰まったエコバッグを手に歩く学ラン姿の少年にとって、床が軋み隙間風が入る家こそが日常だった。

 蝉の声に混じって軽い足音が聞こえ、少年は視線を上げた。足音の主が駆け寄ってくる前に荷物を下ろしながら屈み込み、受け止める姿勢を取る。

「おかえりなさい、お兄ちゃん!」

「ただいま、真冬まふゆ

 少年の腕に躊躇なく飛び込んだ赤髪の小さな少女──真冬は、少年と目を合わせてにっこりと笑った。少年が頭を撫でる手を心地良さそうに受けながら、エコバッグの中身を覗き込む。

「トマトがあるぅ……真冬、トマトきらーい」

「そんなこと言うなって。このトマトだって、兄ちゃんがおいしいお料理にしてやるから。スパゲッティとスープなら真冬も食べられるだろ。な?」

「……じゃあ、たべる」

「よし。いい子だ真冬。俺達は植物や動物の命を貰って生きてるんだから、ちゃんと感謝して残さず食べような」

 目を細めた少年は、真冬が頷いたのを満足そうに見て、撫でる手を止めた。学生鞄とエコバッグを持ち歩き出そうと背を向けた少年を、真冬が呼び止めた。

「お兄ちゃん。お父さんが呼んでたよ」

「……分かった。ありがとうな」

 少年は振り返らなかった。だから真冬は、少年の表情を知ることができなかった。


 野菜を冷蔵庫に仕舞い、エコバッグを折り畳む。学生鞄を部屋に置きに行く時間も無い。諦めて、少年は深い溜息を吐き鞄を床に置いた。台所を出て廊下を進み、奥の襖の前に立つ。吸い殻の酸化した臭いと気の抜けた発泡酒の臭いが混ざり、隙間から漏れ出ている。その悪臭に少年は険しい顔をするも、頬を叩いて平静を装った。少年はそっと襖を開ける。

「……ただいま、父さ──」

「遅ぇ」

 瞬間、髪を掴まれ床に叩きつけられる。転がる酒瓶に顔面を強打するが、少年は瓶が割れたものではなかったことに安堵した。

「俺が呼び出してから何分経ったと思ってんだ」

 少年が父と呼んだ男は、倒れた少年の頭を踏みつけた。

「ごめん、なさい。学校が、あって」

「んな言い訳が利くと思ってんのか。いつから俺に口答えするようになった、夏生なつき

 少年──夏生は歯を食い縛り、屈辱に耐える。男は再び夏生の髪を掴み上げ、睨み、その横腹を蹴った。

「ぐ、ぅ……っ」

 蹴飛ばされぶつかった灰皿が派手な音を立ててひっくり返り、灰を吸い込んだ夏生が咳き込む。男は夏生に歩み寄り、唾を吐いた。

「酒。買ってきてあんだろうな」

「……っ、冷蔵庫に、入ってる」

 腹を庇いながら答えた夏生に、男は舌打ちのみを返した。

「ったく、さっさと歳食って働きに出ろってんだ。金も残り少ねえんだぞ」

「……ごめんなさい」

 理不尽に対し震えながら謝る夏生に、男は既に興味を失っていた。無言のまま部屋を出る男を見送り、夏生は何度目かも分からない溜息を吐く。

 空き瓶や空き缶が散乱する和室の一角だけ、ぽっかりと空いた場所がある。夏生はそこに正座し、目の前の仏壇に手を合わせた。

「母さん」

 遺影の女は、穏やかに微笑んでいた。夏生は手を合わせたまま、目を閉じる。

「俺、父さんが怖い。前は、母さんが生きてた頃は、もっと優しかったのに」

 夏生の声が震え出す。

「真冬に知られたくないから隠してるけど……父さんも、真冬に知られたくないからだろうけど。俺、服の下、傷だらけなんだよ」

 頬に涙が伝う。合わせられた手に、力がこもる。

「なんで俺だけ、こんな、我慢しなきゃいけないんだって思う。もう俺、父さんを、父さんって呼びたくない」

 涙を拭う。涙が溢れる。

「俺、普通に、家族皆で笑っていたかったのに」

 夏生は両手で顔を覆った。肩を震わせて、嗚咽を漏らす。それからひとしきり泣いて、深く息をして、ゆっくりと顔を上げた。

「……でも、真冬は守るから。何があっても。俺が、どんな目に遭っても。真冬だけは」

 夏生の、決意を宿した目が遺影に向けられた。遺影の女は、ただ穏やかに、微笑んでいた。




「お父さん! お兄ちゃんの料理、おいしいね!」

「ああ、そうだな真冬。良かったなあ、お兄ちゃんはいつでも真冬の好きなもの、好きなだけ作ってくれるってよ」

「えっ? ほんと、お兄ちゃん!」

「……うん」

 食卓に並ぶトマトソースのスパゲッティとスープ、そして三本目となった缶ビールを前に談笑する父と、妹。二人の姿を眺めて、夏生は少なく盛り付けたそれらを平らげ、空いた皿を流しへと運んだ。

 皿を水に浸けながら、未だ痛む脇腹に顔を歪ませる。押さえると、内臓がじくじくと痺れるような感覚に襲われる。

「お兄ちゃん。どこか痛いの?」

 いつの間にか隣へとやって来た真冬が、不安げに夏生を見上げていた。夏生が恐る恐る父の様子を窺うと、卓袱台に突っ伏して眠っているようだった。それにもかかわらず、真冬の声はごく小さい。夏生は屈んで視線を合わせ、真冬の小さな頭を撫でた。

「大丈夫だよ。ありがとな」

「ほんと……?」

「本当だ」

 小声でやりとりをしながら微笑むと、真冬は真剣な表情を見せた。

「お兄ちゃん。真冬、お兄ちゃんよりまだ小さいけど。困ったことがあったら言ってね。真冬も頑張るから。頑張って大きくなって、お兄ちゃんをお手伝いするの」

 夏生は目頭が熱くなるのを感じ、しかし拳を握り締めてぐっと堪えた。

「真冬にはいつも助けられてるよ。感謝してる。ありがとう」

 父を部屋に連れていくように言うと、真冬は胸を張って父の元へと向かった。夏生は屈み込んだまま、二つの足音が遠ざかるのを待った。やがてしんと静まり返った居間を、夏生は手際良く片付けた。


 風呂の後、寝間着に着替えさせた真冬を部屋に送り、夏生はようやく自室に辿り着く。鞄を机の横に置き、教科書とノートを取り出した。シャープペンシルを手に取り、課された宿題に取り掛かる。程なくして、扉が静かに開かれた。

「……真冬?」

「お兄ちゃん」

 廊下に立っていた真冬は部屋に入り、音を立てないよう慎重に扉を閉めた。夏生は真冬に歩み寄り、屈んで真冬の頭を撫でた。

「眠れないのか?」

 真冬は首を横に振った。夏生は、真冬の手がその背に隠されていることに気付いた。

「どうした、お話したい気分か?」

 優しく声をかけると、真冬は手に持っていたものを夏生に差し出した。

「これ。お兄ちゃん、今日お誕生日だから。お父さんが起きてたから言えなかったの。おめでとう、お兄ちゃん」

 夏生は目を見開いた。笑顔で渡されたそれは、色とりどりの折り紙で作られた花だった。中央の白地には、サインペンで描かれた夏生の似顔絵の下に、「おにいちゃんいつもありがとう」と拙い文字で記されていた。

 ありがとうと動かしたはずの夏生の口からは、何の音も出なかった。

「お兄ちゃん……?」

 夏生は真冬を強く抱き締めた。やがて真冬の耳に啜り泣く声が届き、真冬は開きかけた口を閉じた。小さな手が、夏生の髪を撫でる。

 夏生にとって、十四回目の誕生日。繰り返される「ありがとう」「おめでとう」「大好きだよ」の幼い声に、夏生はただ、泣きながら頷くことしかできなかった。

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