宙に花を 3

 仰向けに倒れたオクトノウトに藍凪が寄って膝をつく。

 目立った外傷は見られない。傷といえば、ムーナを蘇生させる際の腕の出血くらいだ。


 そういえば研究所で協力していた時、オクトノウトから聞いていた気がする。複雑な流紋術式は、潮流器官なしで発現させるのは難しい。生命を創成する術式などはその最たるもので、体を強化改造していても、ヒトの身では肉体にかかる負荷が凄まじいと。

 ならば彼が倒れたのは、実験の負荷が大きさからか。


 それなのに遠いサンゴの園まで追いかけた。娘というだけで。化け物の形をしていても。


 その時、巨大サンゴの下で倒れ伏していた青白い巨体が身じろぎした。藍凪はいち早く反応し、オクトノウトから離れて後ずさる。恐ろしくて目が離せなかったのが功を奏した。


 ――それにしても、今!


 ムーナは腕の名残があるヒレで体を持ち上げると宙に浮かぶ。軽く慣らすように周囲を回って、その途中で視界に入った藍凪たちの方を見つめた。

 標的が決まったらしい、と嘆息する。これは自分でなくとも逃げたくなるはず。

 膨張し、崩壊し、また膨張する肉体のサイクルは、今は停止している。

 彼女は死から完全に逃げ切ったのだろうか。苦しみ悶える様子も、痛みに暴れる様子もない。


 立派に成長した口は、藍凪の身体程度なら一口でたいらげてしまうだろう。

 そのぽっかりと空いた孔がこちらへ。


 違う。目標はもっと手前。より近くで横たわるオクトノウトの方へと、ムーナは向かう。


「まさか、オクトノウトを食べたり、しないよね……?」


 自分を育て、そして他の全てをかなぐり捨ててまで蘇生を果たした親を、文字通りの食い物にする。そんな悲劇は、見たくない。

 そんな藍凪の思いをよそに、怪物は五歳児の無邪気さで大きく口を開き、かつての育ての親へ近づく。抵抗のできない相手に焦る必要などなく、ゆっくりと。

 目の前のヒトが誰なのか、記憶のない彼女に分かるはずもない。


「駄目だ、それは!」


 叫ぶことに意味はなく、悲劇が止まることはない。

 だったら何をすべきか。少ない経験から掘り起こされたのは、とある場面。


『まあ、囮としては優秀なんじゃないですか?』


 そんな風にティーネが言ったのは、カクレテッポウフグを一人で倒そうとした時。

 藍凪ばかりを攻撃する魚。あれは、自分の何に惹かれての行動だったのか。


 変な匂い?

 慣れない匂いは、たぶん地上の――


 直感の囁くままに、藍凪は貰ったばかりの武器に源の碧しおかぜを通した。

 用途も分からない金属の棒。藍凪のマナを取り込んだそれは、潮流器官を内蔵してはいない。故に術式は発動せず、マナをそのままの形で射出する。


 金属器具の先端から吹き出たのは、風。

 強烈で痛烈な風力だ。指先で触れればそれだけで切り飛ばされそうな勢いがある。

 風は魔力で形成されたものなので源の碧しおかぜそのものの色、エメラルドブルー。鮮明な蛍光色で、まるで宇宙系のSF映画に登場するビームソードのようだ。


「……いい、かも」


 頬を熱く紅潮させる藍凪。だがあまり見蕩れている時間もない。

 ムーナはオクトノウトに口をつける寸前だった。そのまま頬張ってからでもよさそうなものを、思考の幼い彼女は新しく見つけたご馳走に目を惹かれ、そちらへ進む。


「わかってたけど、やっぱりイヤだぁ!」


 興味を引くのだから、自分が追われるのは当然。悲鳴をあげつつ背を向けて走り出す。逃げながらの戦いもいい加減に板についてきたものだ。

 巨体がじわりじわりと迫って来るが、肉体を大きくし過ぎたのか、動きは緩慢。

 これなら、と余裕を感じたのは、しかしつかの間だけだった。


 彼女の体表が揺らいだかと思うと、そこが一気に持ち上がって増殖する。おぞましい触手を所かまわず生やしては、何十本ものそれを一斉に藍凪へと差し伸ばす。

 慌てた藍凪は風の刃を触手へ振るった。素人動きのぞんざいな太刀筋。だが一たび刃の先に触手が当たれば、それを螺旋を描く風の内側に巻き込んで微塵に刻んでいった。

 強い。扱う自分でも恐ろしく感じるほどに。

 おぞましい形の触手を何とか切り払ってしのぐ。武器の力でなんとか拮抗を保てている。


 けれどその損傷はムーナに何らダメージを与えない。意味がないと言ってもいいくらいに無感覚の怪物。ただ苛々として触手の数を増やすのみ。これではらちが明かない。

 どうにか算段を立てなければ。藍凪は距離をとろうと後ろへ下がった。


「わぶっ!」


 そして尻餅をついた。足首ほどのサンゴに蹴躓けつまずいたのだ。

 なんて間抜けな。そんな自分の迂闊さにため息をつく間もなく、迫った触手に取り囲まれる。


「ちょっ、タンマ……!」


 懇願を触手は聞き入れない。剣を持つ方の腕を真っ先に絡めとると、首、手首、腹、太もも、足首に巻きつく。藍凪の一切の抵抗を封じてから、宙に持ち上げた。

 この後、藍凪の体は食欲のままに喰らい尽くされるのだろう。


 けれど、藍凪は唐突に地面へ落下した。またも尻餅。痛む尻をさすりながら見上げる。


「待たせましたか?」


 上方から呼びかける声。

 ティーネが、その手の銃から紅の光線を発して浮かんでいる。


「ううん、待ってない! 何そのカッコイイの? 初めて見た」

「とっておき、です」


 ティーネは巨大なブレードを振り回す。そうして背後に忍び寄っていた触手十本をまとめて切断した。


「わお……」


 精密な射撃とは打って変わって大雑把な火力。ワイルドな姿に舌を巻く。

 十本の触手を切断されてもなお、ムーナは反応が鈍く、苦痛など皆無のように見えた。

 ティーネはブレードを消失させると、元の銃によってムーナ本体へ連続で発砲した。動きの遅い本体はちょうどいい的でしかない。

 だが損傷した箇所はすぐさま修復が始まり、三秒後には元通りだった。

 次に眼球を狙って破壊するも、やはり修復される。

 ティーネは歯噛みして銃での攻撃を諦め、藍凪の元へ下りてきた。


「生半可な攻撃では傷もつきませんか……アイナの武器は?」

「これだよ」


 手の柄から風の刃を発現させる。

 ティーネはまじまじと見つめて呟く。


「綺麗……それと私の光刃なら、ダメージを与えられるか……?」

「いや、驚かせるくらいならできるかもしれないけど、それだけ」

「どうして?」

「いくら表面を削っても駄目なんだ。そんな普通の死じゃ足りない。もっとあれの根幹を揺るがすような攻撃でないと」

「そんな攻撃なんて――」

「ある。アクアマリン」


 ああ、とティーネも合点がいったように首を上げる。


「確かアクアマリンがあれに生命力を供給し続けている、という話でしたか。それを破壊することができれば、自ずと活動を停止して絶命する」

「わかりやすい弱点だよね」

「でも、それはどこにあると?」


 見上げた視線。ムーナの体表はどこまでも青白いばかりで、そこにアクアマリンの輝きは見られない。完全に肉に覆われて隠れてしまっている。


 そしてこのタイミングで、大量の触手を失っていたムーナが活動を再開した。

 身を小刻みに震わせ、口から言葉にならない声を漏らしている。震え、嗚咽し、吐き出すかのような声を。それはまるで、


「泣いてる……?」


 藍凪はそう感じた。眼球を撃ちぬいた時に流れた血が涙に見えて。

 言葉が通じないので、実際はどうなのか。推し測るしかないけれど。押しつけるしかないけれど。

 少なくとも、痛いはずだ。痛みがなくとも、自分の体が傷つけられるのは、イタい。


 ムーナはすすり泣きをやめると大きく口を開いた。あれは、見たことがある。ちょうど幼子が転んで、痛みを堪えようとして、駄目だった時の仕草。

 感情が決壊し、大絶叫。痛い痛いと言葉なく。

 静寂なサンゴの園が、張り裂けんばかりの声で震撼した。彼女は泣き叫ぶだけでは飽き足らず、数百もの触手を広げてのたうち回らせる。散々に暴れ始め、しまいには口からマナの塊を吐き出した。


「急に活性化した。それにあれは、まだ成長して……不死を獲得するまで止まらないつもりか……?」


 数百の触手の奥で、本体はまたも肥大化する。その姿は、もはや海洋生物という枠には収まらない。


災禍リヴァイアサン級……」


 ティーネが呆然と呟く。

 人々が最も恐れる災厄にして、海の主。その存在規模に、あれは届こうとしている。


「アイナ、ここからは本当に危険です。一般の人間には、負担も責任も重すぎる。あなたはできるだけ遠くに逃げて――」

「もう少しなんだ」

「……? 何のことですか」

「弱点の話! あとちょっとで視える気がする」


 ムーナは無分別にあちこちを傷つけている。いい加減に振り回した触手はいつ藍凪たちに向かってくるか。その一本でも当たれば、打撲や骨折では済まないかもしれない。だが――。

 流れ読み。藍凪の魔眼。

 今、ムーナが暴れ始めてから、急に視えるようになっていた。まだか細くて頼りない糸だ。これを、どうすれば確かにできる?

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