砂上に落とす影 3

 研究者オクトノウトの施設は、地味な色合いの岩に隠れるようにしてあった。まるで街の喧噪から離れるための秘密基地のようで、丁寧にも入り口は周囲と同じ色の岩でカモフラージュされている。


「そりゃあ見つからないわけだゼ」


 シャーハンは納得の声をあげながら、オクトノウトの背中を叩いた。頼りない体つきのオクトノウトは、若干ふらつきながら答える。


「少し前までは開け放していたんだけど、最近は物騒でねぇ。危ないやつが入り込むといけないから、対策しているんだよ」


 膝まで届く長い白衣に黒い手袋を装着したオクトノウトは、藻繊維アルガの布と緑色の粘つく溶体を用意し、藍凪の負傷した腕を慣れた手つきで治療した。


「ミツミ草はよく潰すと、傷の治りを促進する成分を出す。数日でよくなるんじゃあないかな」


 きゅっと布を縛ると痛みを感じた。薬が傷に染みて、むず痒い。

 洞窟内はそこら中に生えた光るキノコのような光源に照らされている。その頼りない緑光が、藍凪の痛々しい細腕を闇に映し出していた。


「ありがとう」

「いやいや、お礼なんてとんでもない! むしろ私は、君に謝らなければ……アイナ君、だったね。危険に巻き込んでしまって本当に申し訳ない……」


 痩せた研究者が深く頭を下げる。黒髪と白髪のまだら頭が覇気なくうなだれた。

 確かに危険な状況ではあった。ダンガンザメの突進はかすっただけでも肉を抉る威力。直撃すれば、骨の何本か折れてもおかしくなかっただろう。


「不注意とはいえ、無関係のヒトを危険な目に遭わせるとは、なんて恥ずべきことだ。私は出来る限りの誠意で償わなくてはならない。何か要求があれば是非言ってくれ!」

「大げさだって。ほら、もう全然大丈夫。あんまり謝られても、困っちゃうよ」


 藍凪はグー、パーと手を動かしてみせる。


「そうです。オクトノウトさんが気にする必要はありません。言いつけを守らなかったアイナが悪いのです」


 フォローを入れたのはティーネ。彼女が飛ばした鋭い視線に、藍凪は頬を膨らませた。


「しかし……」

「それより、危ないやつが入り込むって、さっきのダンガンザメのことですか?」


 彼女はオクトノウトの発言を聞き逃すことなく拾い上げる。


「いいや、さっきのサメは、縄張りにさえ踏み入らなければ向かってくることはないよ。基本的には縄張りから出ようとしない、安全な種だ」

「その安全なヤツに殺されかけたお前が言うと、説得力がねえナ」

「さっきは慌てすぎて足を擦ったんだ。血の臭いがあの子たちを駆りたてたんだろうね。いやあ、なかなかスリリングな追いかけっこだったよ」


 ちょっとした失敗談みたいに語る研究者。ティーネが「はあ……」と呆れている。


「ダンガンザメがちょっと迷い込んでくるくらいなら、サンプルにも使えるし大歓迎なんだけど、本気で命を脅かしてくる輩はお呼びでないんだよねぇ」

「それで、何が入り込んでくると?」


 ティーネに急かされ、オクトノウトが息を吐く。


「サーペントだよ。何の嫌がらせか、最近は頻繁にやって来るから、困っているところなんだ」


 まったく物騒なものだよ、とオクトノウトは肩をすくめてみせた。


 本来の生息域から離れ、ヒトの暮らしを脅かす怪物、サーペント。まさにそれが、ティーネが探し求めている問題の焦点なのだ。


「それで、君達はわざわざこんなところまで……何の用だい?」


 オクトノウトが問う。優しげで温厚な人柄が窺える目つき。けれど日々の研究のせいか、目の下にはくまがあった。

 ティーネがこの海域で起こっている異常について説明する。

 生態系の乱れ。そして謎の生物出現。それらについて、オクトノウトにさほどの驚きはなかった。この辺りを日常的に調査している彼にとっては、既に承知している出来事で、いずれ自分の元へ誰かが送られてくることすら予測していたようだった。

 ティーネが言うべき話を終えると、次にシャーハンが口を開く。

 藍凪の事情について、彼は話した。その話をすること自体は、藍凪も承知だった。


「へえ、なかなか面白い話だねぇ……このお嬢さんは、地上からこの海の世界へ落ちてきた、つまり堕ちビトだと?」


 まじまじと見つめられて、居心地が悪い。藍凪はふらっと逃げ、棚の上にある怪しい薬品をいじくりまわすことにした。


「本当かどうか、怪しいものですけどね」


 藍凪に向けられた視線をへし折るかのごとくティーネが補足する。彼女はまだ信じていない。


「そろそろボクのことを信用してもいいんじゃないかなぁ。同じ屋根の下で寝た仲じゃんか」

「だから何だと言うの? 私の暮らす街で路頭に迷われても困るから、仕方なく部屋を貸しただけなんですけど。勘違いしないでくださいね」

「う、可愛くない……!」


 ツンツンしていてデレがない。

 ティーネはおもむろに人差し指を伸ばして藍凪へ向けた。


「嘘つき」


 告発するような冷たい仕草。そんなことはないと言い返したいが、上手く反論できない。

 ぐぬぬ、と言葉を詰まらせているところへ、オクトノウトが言葉を挟んだ。


「この海に満ちた源の青と生命は密接につながっている……堕ちビト、つまり異世界の生物が源の青に与える影響……いや、あるいは地上のマナそのものが持ち込まれる可能性が……」


 それは誰かに向けられたものではない、自分の内の考えが漏れ出たような独り言。


「……おっと、いけないいけない。何か変な事を口走ったかな?」


 正気に戻った、というのが正しいのか分からないが、ともかく普通になった。どうやら無意識だったらしい。

 シャーハンが呆れた口調で苦言を呈する。


「オクトノウト。考え事をするときは一人で、そんで必ず机の前でナ。外で意識を飛ばしていたら、いくら命があっても足りないゼ」

「すまないねぇ。集中すると、ついね」


 苦言はもっともだ。なにしろ今しがた失敗して、ダンガンザメに襲われたばかりなのだから。本当に命を落としかねない。


「ええと、本題は生態系の乱れの話だったね。それに関しては、恐らくサーペントの行動が大きく影響していると見て間違いないと思うよ」

「生態系の乱れ自体は、サーペントに限った話ではないのですが」

「それは結果だけ見ればね。でも物事には順番がある。まず、ある要因によってサーペントが活性化し、そのあおりを喰らったのが他の生物、と考えるのが自然な形だ。海の王者たるサーペントの咆哮は、海に棲むものをはらう効果があるからね」


 咆哮については藍凪も見たことがある。雷撃のサーペント、ギョクライコウの甲高い声で、周囲の生物が跡形も無く消えてしまった。


「そしてシャーハンの話が本当なら、アイナ君がここへ出現したことで海中のマナに揺らぎが生じ、マナの密度や質が変化することもあり得るかもしれない。それによって、ヒトが感じ取れないレベルの異変をサーペントが察知し、結果として一帯の生物群集の内容に変化が起こることも、可能性としてはあり得る」


 いまいち理解の及ばない藍凪は首を捻った。その様子にオクトノウトは微笑んで補足する。


「つまり、キミが堕ちビトであるのなら、ここに存在しているだけで環境に変化を及ぼす可能性があるということだよ」


 それはやはり、この事態の中心にいるのは自分かもしれないということ。


「ですからそれは、このアイナの言うことが事実であればの話ですよね?」


 はなから藍凪のことを信用していないティーネはその仮説を咎めるが、オクトノウトは藍凪の肩を持った。


「いや、それが信じられない話でもないんだよ、ティーネ君。先ほど彼女の怪我の治療のために腕を触らせてもらった時、体の内部から我々とは異なる生命力を感じた。マナ知覚を持つ君たちにも感じ取れるはずだよ」

「……ですが、マナの違いなら誰の間にも大なり小なりあってもおかしくないのでは」

「量や純度の違いはそうだけど、これは質が違うよ、質が。それと、そう、匂いも」


 オクトノウトは手で仰ぐようにして藍凪の匂いを嗅ぐ。危ない薬品のような扱いで、あまり良い気はしなかった。


「アイナ君は、この海へ落ちる寸前の状況を憶えているかい? 疑うわけではないんだけど、参考までに」


 藍凪は一瞬だけ間を置いて、


「……ううん」


 否定を返した。どちらにするか、迷った末に。

 ティーネが何かを言いたげに横目で見てきた。

 嘘つき、なのだろうか。


「そうか。うん、結構」


 その返答自体はさして重要でもないと言うようにオクトノウトは背を向ける。彼の前には何匹かのダンガンザメの死骸があった。それはティーネが撃ったものを、そのまま捨て置くのも勿体ないと、オクトノウトが持ち帰ったものだ。


「生物が異様な動きを見せていることの原因がアイナ君なのか……それとも他の何かなのか。今のところは断定できない、といったところかな。もっとサンプルが必要だ」

「では、謎の白い生物のことは?」

「ヒトの形をした幽霊のような生物、ねぇ」

「ええ、防衛本部の間では仮に、『ニル』と呼んでいます」

「ニル、か……さてね。未知の生物だ。それこそ大量のサンプルが必要だよ。群生地でも見つかれば、その子に関しては一気に調査が進むだろうね。もしかすると、原因の解明にもつながるかもしれない」

「ネモの幽霊とは、関係ありませんか?」


 ティーネが口走った単語に、オクトノウトは一瞬だけ体を強張らせたように見えた。


「……どうして、それが関係あると思うんだい?」

「いえ、根拠があるわけではないのですが、街の噂で」

「ああ、なんだ……いや、そういったオカルティックな現象は僕の専門外でね」

「そうですか」


 ティーネはオクトノウトの目を正面から見つめる。それは物事の真偽を照らし出すかのような、真っすぐな視線だった。

 オクトノウトは戸惑うように見つめ返すばかり。ネモの幽霊、という単語に彼が反応したように見えたのは、勘違いだったのだろうか。


「……その可能性もあるかと思いましたが、考えすぎのようですね」


 ティーネが引き下がる。専門家の見解は、彼女の中で正しさの基準になっているようだ。


「多角的な視座から物事を見つめるのは良い傾向だと思うけどね、ティーネ君。ウィルディを代表する一流のハンターは、目の付け所も違うようだ」

「ありがとうございます……?」

「ともかく、僕も出来る限りは協力しようと思う。何か分かったことがあれば、報告してくれると嬉しいよ」


 オクトノウトが協力の意思を表明する。これでティーネとしては、やっと本格的な原因究明に乗り出せるといったところだろう。

 そしてそれを受けて、壁にもたれかかっていたシャーハンが身を起こした。


「なら俺はそろそろ工房に戻るとするかナ」

「どうして?」


 率直な疑問が口から飛び出る。


「当然だロ。専門知識ということなら俺よりオクトノウトの方が詳しイ。俺ができるのは、せいぜい武器の提供くらいだゼ」

「最後まで付き合ってくれるのかと思ったよ」

「付き合うに決まってんだロ。でも工房で鉄を打つのが俺の役目ダ。武器のことなら任せろヨ」


 そこへすかさずティーネが薄桃色の頭をふわりと下げた。


「案内してもらってありがとうございました。この件に関しては、私が責任を持って解決しますので――」

「ボクも一緒だよ!」


 口を挟む藍凪に、ティーネはむすりと口先をとがらせる。そんな様子を、シャーハンは声をあげて笑った。


「ああ、二人とも頼んダ。グッドラックだゼ」


 シャーハンは親指を立て、歯をむき出して笑む。

 こうしてシャーハンとは別れ、藍凪とティーネは調査へと乗り出すこととなった。

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