幕間 友達について

 そこは学校の教室で、ブレザーの制服に身を包んだ黒髪の藍凪は、机を前に座っている。

 退屈な授業が終わって、面白くもない長話だけが特徴の先生に礼をする。チャイムはとっくに鳴り終わっていて、時計の針は予定より後ろの部分を指している。

 遅れて授業を始めた先生は、授業を終わる時間も同じ分だけ遅らせた。今はクラスメイトの全員から呪いを受けているだろう。

 無情に縮められてしまった休み時間に、それでも各々が席を立つ。狭苦しい規範に押し込められた日常。まるで水槽の中のよう。息継ぎは必要だ。

 窓を見る。外ではなく、廊下側の。そこには彼女がいる。

 友達に会いに来たけれど、教室には入れず、なんとか気づいてもらおうと見つめてくる、そんな女の子。

 藍凪は酸素を吸いに、外へ出た。


「藍凪ちゃん」


 灯里ともりは嬉しそうに声をかけてくる。尻尾があれば振っていただろう。

 淡い栗色の髪を行儀よく縛り、服装も崩さず整えている。校則を破る努力をしないのは、真面目だからというより、そうするだけの勇気がないためだ。幼い顔立ちに大きなメガネ。その奥にある瞳からは気弱な光が滲む。


「おいっすー」


 藍凪が気楽に声をかける。挨拶の形はその日の気分。

 灯里は少しだけ周りを気にしながら、ぎこちなく「お、おいすー……」と同じ挨拶を返した。


「なんだかぼおってしてるね」


 はにかみながら灯里が言う。藍凪は気だるげな様子を隠そうともせず目をこする。


「毎日こんな感じだよ、授業のときはね」

「授業じゃないときは?」

「もっとぼおってしてる」

「ふふ。藍凪ちゃんは、ぼおってするのが好きだよね」

「違うんだよ。退屈すぎて、他にすることがないだけ。でも頭の中ではちょーいろんなことを考えてるよ。いろんな妄想してる。だから実は忙しいんだ……ふわあ」


 不意にこみ上げてきた欠伸をこらえようともせず、大きな口で吐き出す。五秒間ゆったりと堪能すれば、涙混じりの視界に灯里がぼやけて見えた。


「たとえばね、この世界でさ、本物の自我を持っているのはボクだけかもしれないんだ。そーだとしても、そーじゃないとしても、ボクには確かめる手段がないんだよ。もしそーだとしたら、ボクが死んだあと、世界は滅亡すると思うんだ。ボクがいなくなった世界は抜け殻と同じだからね。そう考えると、ボクはいつでも世界を滅ぼせる……」


 突拍子もなくぶつぶつと呟く藍凪は、今でも半分は寝ているようなものかもしれない。

 そして話の半分以上も理解できていない灯里は、首を傾げるばかりだった。


「哲学的なこと?」

「そ、テツガクテキ」

「藍凪ちゃん、よだれついてる」

「およ?」


 授業のあまりの退屈さに、気づけば寝てしまっていたことを思い出す。目を覚ましたのはチャイムが鳴ってから。授業の内容なんて、なにひとつ憶えていない。


「また、寝てたんだ。いけないんだよう」


 自分をよく知る灯里は、当然のように居眠りを見抜いてしまう。そうやって注意する彼女は、同じクラスだった時には一度も居眠りしたことがない。たぶん、今もそうだ。

 それも真面目というよりは、注意されることを恐れているから。


「拭いて」

「……もう」


 子供のように口をつき出す藍凪。灯里は困ったフリをしてハンカチを取り出す。

 藍凪の口もとを拭う灯里は、優しい目をしている。


「……ん。ありがと」


 面倒くさがりの藍凪は、こうして灯里に世話を焼かれることが好きだった。灯里は多くのことに気がついてくれるし、頼めば今のように口も拭いてくれる。まるで介護を受けているような気分で、悪くない。

 彼女が、自分のどんなところでも受け入れてくれるようで。


「こういう時間があるうちは、学校も悪くないって思うよ。ほかの全部は最悪だけど」


 嫌になることは多いけれど、この時間がある限り、自分はなんとか大丈夫。

 世界を滅ぼす必要はない。


「そんなこと言って……。――甘えたがりだね」


 灯里が言う。自分の制服の裾を掴む藍凪の手に気づいて。


「なんだか堪らなくてさ」


 こうして掴んでいるうちは彼女が離れることはない。自然に距離は縮まって、安心できる。

 彼女は困るだろうか。そんなはずはない。けれどそうしていると灯里が動きづらそうなので手を離す。

 灯里がハンカチをポケットにしまったところで、藍凪はそういえばと切り出す。


「そうだ。さっき変な夢を見たよ」

「そういうのは家のお布団の上で見るものだよ」

「知ってる? 授業中の居眠りってすごく気持ちいいんだよ。だから良い夢が見られる」

「そういう問題じゃないんだけど……」


 そもそも授業中に眠るなという苦言は藍凪に対して意味がないと分かっているらしい。灯里は早々に諦めて聞く姿勢に入る。

 きっと灯里が気に入る話のはず。退屈はさせない。


「ボクはね。海の底に行ったんだよ」


 藍凪が堕ちていった青色の世界。恐ろしくも美しく、刺激に満ちた体験。

 サメの顔をしたシャーハンに、薄桃の髪のティーネ。その出会いと、交わした言葉。

 わずかな時間の一部始終を語って聞かせる。その物語は一日にも満たないにもかかわらず、いくら言葉にしても足りない、語り尽くせないほど、感覚に訴えるものがあった。

 予鈴は鳴らない。けれど休み時間はとっくに終わっていたように思う。


「なんだかへんてこな夢だね」


 海が好きな灯里は笑った。藍凪が見た景色を気に入ってくれたようだった。

 だが、その笑顔に影が差した。ふと、寂しさを覚えたように。


「でも、楽しそう。そんなに楽しい夢なら……きっと、私のことなんて、すぐに忘れちゃえるね」


 灯里がおかしなことを言うので、何故だか彼女が遠くに行ったように思えてしまった。


「ねえ、藍凪ちゃん。さっきの話、藍凪ちゃんだけが本物の自我を持ってるのだとしたら、藍凪ちゃんにとっては私も、ただの人形に過ぎないのかな?」

「それは……灯里は違うよ」

「どうかな? ふふ、どうだろうね?」


 おかしな風に笑う彼女は、どこか遠い。手放したくなくて、触れようとした。


「灯里……灯里っ……!」


 ふれた。さわれた。それなのに手のひらには感触がない。反発して押し返してくるような存在の強さというものが、全く欠けているようだった。

 藍凪は必死になって彼女をまさぐる。カーテンのように揺らめく彼女は、ただ黙って見つめるばかり。

 その行為が無駄だと理解したころ、目の前の彼女が灯里によく似た幻だと悟ったのだった。

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