短編喫茶店

θ(しーた)

es ist das

 パソコンに向かって文字打つのは何ヶ月ぶりなんだろうか。ある時を境に書くことをぴったりと辞めてしまった。それは唐突に起きたことだったし、そうなってしまっても仕方のないことではあった。でも、その経験は自分を「物書き」という存在からグッと遠ざけてしまったし、そして今も、自分の素直な表情を文字として記せているのかわからない。ただ、今自分にわかるのは、この場に悩み続けながらも文字を綴っているということだけ。コギト・エルゴ・スム。我思う、故に、我あり。


 ある男が話しかけてきた。身長は二メートルを超えそうな大男だった。黒のスーツと黒のシルクハットをかぶっていた。シルクハットのせいで余計に身長が高く見えた。

「あなたは、神を信じますか?」

 その男は僕にそう聞いた。

「はい?」

 そう返事したのが運の尽きだった。無視すれば良かったのに返事をしてしまった。

「あなたは、神を信じますか?」

 僕は意味不明な質問をする大男が怖くなった。

「宗教勧誘の方ですか?」

「いえ、そんなチンケなものではございません」

 大男は礼儀正しく答える。

「じゃあ、なんなんですか」

「ただ私はあなたが神を信じるのか知りたいだけです」

 僕は気持ち悪くなった。

「警察呼びますよ」

「どうぞ、ご自由に。私は知りたいのです。あなたが神を信じるのか」

 大男の顔はシルクハットの影に隠れてわからない。男が笑っているのか真顔なのか。

「神ですか?そんなもの信じるわけないじゃないですか」

 そう答えると、

「そうですか」と

 大男は素直に去っていった。

 僕は訳が分からなかった。ただ、彼の声がずっと頭の中に残っていた。

「神を信じますか?」


「神を信じますか?」

 また、声をかけられた。今度はピンクのブラウスを着たふくよかな中高年の女性だった。

 僕はドキッとした。二日まえに、大男に声をかけられたばかりだった。

「あなたもですか?」

「何のことでしょうか?」と女性は微笑みながら聞いてくる。

「この前も同じように、『神を信じますか』と僕に聞いた人がいるんですよ」

 と僕が答えると、

「それはそれは」と女性は驚いた。

「でも、それはそれ。これはこれ。あなたは神を信じますか?」

 その女性は何も臆することなく質問をしてくる。

「神なんて信じませんよ」と僕が返すと、

「どうして?」と女性は聞いてきた。

「そんなの変じゃないですか。神がいるならどうして僕らは知ることができないんですか?」

「認知できるところにいる神が本当に神だとお思いで?」と女性は聞く。

「どういうことですか?」

「神であるのに、どうして認知なんぞできましょうか。世界の創造主である神がそこの喫茶店でブレンドコーヒーを飲んで、スポーツ紙を読みながらその日の競馬の結果に一喜一憂していたらどうですか?」

 女性はなお笑顔で聞いてくる。

 女性の指差した方向をみると、ハゲ散らかした初老の男性がコーヒーを飲みながらスポーツ紙を読んでいた。

「それは、それで気持ち悪い」と素直に答えると、

「そんな神の姿も見てみたいものですが」と女性は言った。

「あなたは何者なんですか?」と僕は聞いた。

「何者でもありませんよ。ただ、あなたが神を信じるのか。それが知りたいだけです」女性はそう言って、その場を去った。


 三日後、大男にまた会った。電車に乗っている時、横に座ってきたのだった。シルクハットを被った大男だ。すぐ目につく。

「神を信じるようになりましたか?」その大男は聞いていきた。

「少なくともあなた方が何者かがわかれば信じるかもしれませんね」

 そう答えると、

「もうじきわかります」と大男は言った。

 大男は立ち上がると、急に僕を抱きしめ出した。周りの人が僕の方を見る。

「何しているんですか!?」と声をあげて大男から離れようとする。

「じっとして」と大男は答える。

 大男との視線が近い。シルクハットの下を覗くと、精悍な顔立ちの男性だった。年齢はわからない。二十代と言われるとそんな気もするし、五十代と言われても信じてしまいそうだ。

 大男に抱きつかれた三十秒後、急に電車が揺れた。左右に揺れた電車はおかしな方向に曲がりだし、窓の方に体が持っていかれた。あまりの勢いで体がどちらの方向に持っていかれているのかもわからない。ただ、わかるのは、自分が大男に抱きしめられているということだけ。轟音と悲鳴が入り混じる三十秒間。車両はコロコロと転がり、商社ビルにぶつかったところで回転を止めた。

 脱線事故だった。多くの人間が躯体を失っていた。腕を失った者、足を失った者、下半身を失った者、首を失った者。悲鳴と火災の音が轟々と響き渡る。サイレンの音がけたたましい。自分は体の中心に鉄柱が突き刺さっている男の横にいた。ふと、大男のことを思い出し、探そうと試みた。しかし、周りにはいなかった。よろけながら立ち、探してみてもどこにもいなかった。ぼうっと突っ立っていると、救急隊が僕を拾い上げ、病院に搬送してくれた。僕は無傷だった。脱線事故の中で、唯一の無傷だった。


 三日後、街を歩いているとまたピンクのブラウスを着た女性に話しかけられた。

「神を信じますか?」

「えっ」

 僕はその女性を見る。前と同じように微笑みながらこちらを見ている。

「神、ですか?」

「ええ。神です」

 僕は自分の手を見る。じわりと汗が溢れる。

「わからない」と答える

「そうですか」と言って、女性はまた同じ話をした。

「世界の創造主である神がそこの喫茶店でブレンドコーヒーを飲んで、スポーツ紙を読みながらその日の競馬の結果に一喜一憂していたらどうですか?」

 そう言いながら指を差した方向にある喫茶店の窓をみると、大男がコーヒーを飲みながらスポーツ紙らしきものを読んでいた。

「それはそれで可能性としてあるのかもしれない」と呟く。

「前回と回答が違いますね」と女性は言う。

「わからない」と僕が答えると、

「わからないのではないのです。わかりたくないのです。あなたが経験したことを。自分が唯一無傷であったことを」

「なぜあなたがそれを?」と僕は女性に聞く。

「それはあなたが知るはずのないこと」

「でも」

「でもじゃありません」

 僕は、女性の方を見る。

「僕はなぜ、あの時、助かったのでしょうか?」

 女性なら答えを知っていそうだった。僕は期待の眼差しで彼女を見た。

「さぁ?」と女性は言う。本当に知らないように。

「それって・・・?」

「私にだって知らないことはあります。ただ、あなたが神を信じた。だからこそ無傷だった。それだけのことです」

「それじゃ、どうして神は全員を助けなかったのですか?」と僕は純粋に尋ねた。

「神ってどんな存在だと思います?」と女性は逆に質問した。

「え、神って、平等に全ての人を幸せにする・・・」

「神は、全ての人を幸せになんかしない。それはまやかし。神は、あなたの中にいる。その声をあなたは聞いただけ。誰もが、あなたと同じように聞かれているのです。『神を信じますか?』って。その声にあなたは耳を傾けたに過ぎない。これまで、“聞こえ”ていたものに“耳を澄ました”だけなんです」

「それじゃ」

 その言葉を遮って女性は続けた。

「あなたは、神を信じますか?」

 僕は、少し下を向いた後とても、とても小さな声で

「はい」

 と返事をした。

 女性はそんな僕を見て、少し微笑んだ後、

「またどこかで」

 と言って去っていってしまった。


 やはりねじれた話だと思う。あり得ない話だし、そんなことがあってはならない。神は、人間が作り出した偶像に過ぎない。でも、そう考えれば考えるほどわからなくなる。

 脱線事故での死者は数百人にのぼる、有数の事故として人々の記憶に植え付けられた。その中で、唯一生き残った僕は一時的にテレビに取り立たされたが、誰にも合わないように暮らした。通っていたバイトも辞め、小説投稿も辞めた。ただ、人と繋がるのが怖かった。何かを伝染うつしてしまいそうで。

 あれからと言うもの、女性と大男とも会わなくなった。二人に会わなくなってから体に異常を感じだした。心臓の裏に「何か」が“いる”。それはとても小さく、そして、熱い。その「何か」は特に何もしてこない。ただ、心臓の裏にいて時折トクンとするだけ。

 心臓のうらでトクンと小さな音がする。そこに「何か」がいる。それが神なのか、病原体なのかわからない。病院に行っても異常がないと言われた。思い違いかもしれない。それでも、確かにトクンと聞こえる。

 僕は「何か」を確実に宿していた。でもその「何か」の真実はわからない。そう思うと何か文字に起こすのが怖かった。何かが誰かに伝播してしまうんじゃないか。そう思えば思うほど何かが怖くなった。この資料を誰かが読むことは想定していない。ただ、僕の行動を記しただけ。それだけに過ぎない。僕は何者なのか。生きているのか。ただ、悩み苦しんでいる僕だけはここにいる。コギト・エルゴ・スム。

 今日も僕の心臓の裏で、トクンと鳴っている。


〈後記〉

昨夜未明、〇〇県××市にあるアパートの一室で男性が自殺しているのが近所の住人により発見された。死ぬ直前に遺書を記していたらしく、そこには、"es ist das"と書かれていたと言う。

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