暗闇にて爪を

 日が落ちればあっという間に闇に支配された。

 開け放たれた十四枚の板戸から差し込んでいた光も今はなく、湿り気を帯びた夏の夜風が静かに吹き込んでくる。


 ふと、隅の方に固められていたコンビニ袋が風に吹かれ、カサカサと乾いた音を立てた。


 ――道場主のいなくなった剣道場――


 かつてここには日本一の剣士がいたという。昭和の時代に幾多もの大会・野試合を制し、平成の時代には数々の名剣士を育て上げ、令和を迎えることなく病魔に敗れた老剣士が。


 今は、道場に隣接する母屋に年老いた彼の妻が残るだけだ。


 数百名にも及んだ直弟子たちが訪れることも、日々掃除されることもなく――大体いつも閉め切られてほこり一つ動かない。役目を終えた道場として少しずつ朽ちていくはずだった。


 だというのに。

「ふ」

 広い板間の中央には、なぜだか熱っぽい吐息が一つ。


 それどころか、ぽた、ぽた、ぽた――と、汗の雫が十秒間隔で固い板間に落ちて、二メートル四方の水溜まりを生み出していた。


 辺り一面、真っ暗闇である。


 しかしその実、暗闇の内側には、キャンプ用のウレタンマットと寝袋があり、大きなコンビニ袋いっぱいに詰め込まれた食料があり、生ぬるい水道水が注がれた二リットルペットボトル三本があった。それぞれ道場の壁際に雑然と並べられているのだ。


 そして暗闇の中心部には。

「……はあ……はあ……はあ……」

 特徴的な黒い空手着を纏った手負いの空手家も。


 汗まみれの包帯に包まれた右手を半分突き出した姿勢で静止していた。


 だが、違う。空手家は止まっているわけではない。休んでいるわけでもない。型稽古の真っ最中なのである。練り上げているのは、いつか恋人にせがまれて見せたアーナンクー。


 その時のアーナンクーと変わらない。


 違うのは速度だけだ。

 型を始めてすでに一時間。しかしまだ全体の三分の二にさえ達していなかった。

 拳一つ打ち出すのに三分、足の運び一つに五分。

 正しく腰を落とし、正しく姿勢を保持しながら、筋繊維一本一本を順番に動かしている。


 『静』の型稽古。とはいえ、極端に長時間の低速運動に神経・筋肉は焼け付き、それでもなお正しい力を込め続けようと心臓は熱い血潮を送り続けるのだ。


 身体操作を強化する目的とはいえ、まともな鍛錬ではない。


 空手家の意識を離れてガタガタ震える太もも。より多くの酸素を求めて乱れる呼吸音。全身から止めどなく湧き続ける大汗。二リットルを一口で飲み干せそうな強烈な喉の渇き。


 長く続く苦痛と不快感に精神は疲弊し……しかし空手家は、その間も悩み続けていた。


 彼女を殺すか。

 彼女を諦めるか。


 自らの不甲斐なさゆえに手のひらからこぼれ落ちようとしている初恋。それを救い出す手段はただ一つしかなく――とはいえ、その決断は、空手家の人生を破滅させるだろう。

 大切な家族にも災害級の迷惑と苦労をかけ、きっと未来さえ台無しにする。


 常識的であるならば考えるまでもなく手を引くべきなのだ。それが当たり前。『女性』なる存在は世の中にごまんといて、飛び抜けて美しいとはいえ彼女だけにこだわる必要もない。


 だが、どうしても癪に障った。我慢ならなかった。

 彼女の真意に勘付いておきながら、のうのうと恋愛を楽しんでいた自分が。怪物のような彼女と対等に渡り合える力がありながら、完膚なきまでに敗北した自分が。


 ……思うのだ……。

 誇りを取り戻せる機会がまだ残っているならば、是が非でも掴み取りたい、と。


 ――もう一度、藤ノ井舞魚に認めてもらえるならば――と。


「……はあ……はあ……きつ……」


 空手家でもある父のツテを頼って辿り着いた町外れの廃道場にただ一人。若き空手家は、自分が今まで歩んできた武の道、そして、どうしようもない初恋と向き合っている。


 鍛えに鍛え上げて。考えに考え続けて。


 答えはまだ出ない。

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