過去の告白

「いたっ本間くん! 見つけた!」


 校門を抜ければすぐさま長い下り坂が始まる。バス停は坂を下りきったところにあるし、駅ともなればバス停から更に十分近く歩かなければならない。


 そのため私立芳凜高校の生徒たちは、朝夕とこの坂道を上り下りすることになるのだが――午後四時過ぎでは、まだまだ人影もまばら。生徒の多くは部活動にいそしみ、短い青春を謳歌しているのだろう。


 だが、そんな寂しい帰り道も帰宅部の圭介にとってはいつものこと。


 むしろ。

「はあ。はあ――っ、よかったぁ。追いついたわ。本間くん、気ぃ付いたら教室にいはらへんのやもん。焦って走ってしもたやないの」

 なんて、誰かに横に並ばれる方が珍しい。革製のスクールバッグを肩に担いだ女子は間違いなく初めてだ。小学校の頃までさかのぼっても、クラスの女子と一緒に下校した記憶はない。


 圭介は、走って追いついてきた舞魚を見て、「ふ、藤ノ井さん? どうしたの? そんな慌てて」いったい何事かと思う。原因が思い当たらなくて首を傾げるしかなかった。


 スクールバッグを担ぎ直した舞魚は吐息二つで荒れた呼吸を元に戻し、真顔で言った。

「あんな。うち、本間くんに謝らな思て。萌奈のこと」


「斎藤さんのこと?」

「うん。本間くん、もしかして昼休憩、萌奈に絡まれたんやない? その、なんていうか……うちのことで文句言われたり」

「あ――え、と……」

「五限目、ほとんど一緒に教室に走ってきはったやろ? ほんでぴんときて。あの子、うちのことやと、ほんま見境あらへんし」


 圭介は昼間のことを思い出し、苦笑いするしかない。人差し指で鼻筋を掻き、「まあ……気に食わなかったんだろうね。藤ノ井さんの相手が、僕なんかで」と気弱な言葉を漏らすのだ。


「やっぱり。あんの阿呆たれ」

 ため息を吐いた舞魚。圭介がどんな言葉をぶつけられたかも、だいたい見抜いたらしい。


「それで本間くんはなんて言い返さはったん?」

「え? あ、うん――申し訳ないけど、誰に何を言われようが引き下がるつもりはないって言った。斎藤さん、だいぶ怒ってたけどね」


 しかし、圭介のその返答は予測できていなかった。てっきり、愛想笑いでその場をやり過ごしたのだろうと思っていたのだ。「へぇ。そら男らしこと」と嬉しそうに微笑んだ。


 坂の下までを見通せる長い長い直線道路。

 そこを並んで下校する圭介と舞魚は、紛れもなく、初々しい高校生カップルだった。ぴったりとくっつくわけではなく、赤の他人のように距離を空けるわけでもない。肩と肩の間に広がった距離は三十センチだ。圭介にとっては、遠い遠い三十センチだ。


「ほんま堪忍え。本間くんを困らせとうて付き合うてもろてるわけやないのに」

「いやいや。大丈夫。めちゃくちゃ好かれてるんだなって思ったぐらいだよ。僕にゃあ、あんな仲いい友達はいないしさ」

「……あの子のひっつき虫には、正直、困ることも多いんよ」

「藤ノ井さんと斎藤さんって、高校からだよね?」

「うんまあ、うち、中学までは京都やったしね」

「一年の四月からあんな感じじゃなかった? 羨ましいというか――いったいどうやって、あんなに仲良く?」

「ふふふ。そらまぁ、電車ん中で少し」

「電車? 痴漢から助けたとか?」

「……ぶーぅ。一発で正解するんはエチケット違反やん。本間くん最低」

「あ。ご、ごめん」

「あはっ。冗談やって。そうそう、うちが萌奈を痴漢から助けたんよ。それがきっかけ」

「へえ。二人とも電車通学だもんね」

「あの子、えらいこまいやん? せやしかわからんけど、入学初日から標的にされてもて……。相手は大学生やったんやけど、二日目、気づいたら手が出とったん」

「顔面ぶん殴ったとか?」

「手首掴んで『ええかげんにしぃ』言うただけよ。まあ、かなり思いっきりやけど」

「ははは……藤ノ井さんの本気……それはそれで考えたくないな」

「ほんで、そのまま次の駅で駅員さんに引き渡して――それからやろね。萌奈がうちに懐くようなったんは」

「そっか。そりゃあ、あんな感じになるわけだ。ヒーローだもんな」

「あの子と友達なって、えらい早いこと友達でけて……面倒もぎょうさんあるんやけどね。ありがたいわ。京都には、友達、あんまりおらへんだし」

「そうなんだ、意外」

「いっぺん『あんた美人過ぎて近づきにくい』言われた事あるんよ。うちかて好きでこの顔に生まれたわけやないのにねぇ」


 舞魚の嘆息に圭介は乾いた笑い。なんとなく隣を見て、舞魚の横顔に跳び上がりたくなるぐらい嬉しくなるのである。にへらと顔が弛みそうになるのを、下唇を強く噛んで我慢した。


「本間くん?」


 しかし圭介のそんな葛藤を舞魚が知るはずもない。むしろ、いきなり隣で唇を噛みしめられたら、何事かしら? と不安に思うだろう。首を傾げて圭介の様子をうかがった。


「あ――っ。ごめん。なんか嬉しくなって」

「嬉しい? うちにお友達いやへんかったんが?」

「違う違う! 理由はどうあれ、初めて一緒に帰れてるのがさ!」

「ああ。そいえば、そやなぁ」

「……今日さ……ちょうど今日の昼、片桐さんに言われたんだ。恋人同士なんだから、もっと一緒にいなくてどうするって」

「それは……だって、恋人かっこ仮やもの」

「わかってる。今がお試し期間だってのは。でもさ、それでも嬉しいんだ」


 苦笑いで場を取り繕った圭介だが。

「寂しい思いしてはったん?」

 表情を変えずに聞いてきた舞魚の隣、組んだ両手を後頭部に当てて空を見上げるのだ。夕方が近づいて薄くなった青空。何の面白みもないちぎれ雲も、舞魚と一緒だと綺麗に思えた。


「でもまあ……藤ノ井さんの言う、大々的に付き合ってすぐに別れたら学校にいづらくなるっていうのも、一理あるからなぁ」


 ――せやけど学校じゃあうちらが付き合ってんのは隠しとかへん?

 舞魚にそう言われたのは、告白を受け入れてもらった直後のこと。あの屋上でだ。


「今でさえ居心地良いわけじゃないのに……そうなったら本当、針のむしろだもの……」


 そんじょそこらの高嶺の花じゃない、学校一の美少女と付き合うリスク。


 付き合っている間の嫉妬や悪口は無視していられるかもしれないが、スピード破局した後の嘲笑が怖い。学校中の笑い物となってしまえば、その後の学校生活は地獄となるだろう。


 対して、舞魚はうまくやっていける。クラスの女子たちも彼女の味方となり、一斉に『つまらない男のせいで舞魚が悲しい思いをした』と圭介を糾弾するはずだ。


「問題があんのは本間くんやなくて、うちの方やのにね」

「ははは。とはいえ、ぼっちの僕なんかより、藤ノ井さんの方が立派に高校生やってるよ」


 だからあの提案は決して舞魚自身のためなどではなく、圭介の学校生活を守るための優しさ。それがわかっているからこそ、圭介も舞魚との関係を学校で口外していないのである。


「本間くんはいつもまっすぐ家に帰らはるん? ぎりぎり歩きで通えはる距離やったよね?」

「うん。三十分ちょっとってところかな。バスで帰った方が早いけど」

「家に帰ったら空手?」

「飽きもせずね。今日は道場に出稽古行く日じゃないから、庭で型でも練るつもり」


 いつもより気持ち遅めに歩いて、坂を下りきったところにあるバス停に到着した。

 そして、高校生のいないバス停を通り過ぎたその時だ。不意に舞魚の唇から「ほな、本間くんのおうち付いてってもええ?」そんな言葉が出た。


 その瞬間、「え――?」圭介の足が止まる。咄嗟に思い浮かんだのは、ベッド下に隠してあるいかがわしい本のことだ。


「せっかく一緒に帰ってるんやし、このまま空手のお稽古、見てみたいんやけど」

「あっ、ああー……な、なるほど、そういう……」

「ふふふ。本間くんも思春期男子やねえ。そない不安そうな顔して。いったい、何を想像しはったん?」

「は、ははは……」

「前から気にはなっとったんよ。本間くんが、どんなとこで強ならはったか。ええでしょ?」


 嫌とは言えなかった。そもそも舞魚が家に来ることを嫌に思うわけがないし、町を回る路線バスだってタイミング良くやってきたからだ。ただ、一つ気になることと言えば――恭子の奴、なんて言うだろうな――妹の反応ぐらいなもの。


「じゃ、じゃあ、ちょうどバス来たし、乗ろっか。そっちの方が早いしさ」

「やった♪ おおきにね」


 そして、路線バスに乗って十分ちょっと。車内では二人掛けの席に並んで座ったため、舞魚の肩と太ももがちょくちょく触れてきて気が気じゃなかった。


 バスを降りて古い住宅街を五分も歩けば、見慣れたコンクリート塀が見えてくる。


「へえ。ここが本間くんの――」

「うん。庭を稽古場にしてるから塀を少し高くしてあってさ」


 門を開けて敷地に入れば、「すご。サンドバッグまでおいてはるん?」すぐ右手に広がる庭に気を取られた舞魚。呆然と庭に立ち入って土の地面を踏み、薄い線となって地面に残る『足運びの軌跡』に触れ、「ほんま……真面目に、空手家さんやっとんやね……」しみじみ呟いた。


 と、一度玄関に入った圭介が庭に出てくる。

「母さん買い物行ってるみたい。妹も帰ってないし。えっと、どうしよう。なにか飲む?」


 それで、庭の真ん中でしゃがんでいた舞魚もゆっくり立ち上がり、長い黒髪を揺らしながら振り向いて笑った。

「ええよええよ。それよりはよう、本間くんの型見てみたいわ」


 その言葉を受けて、ブレザーの上着を脱いでネクタイを外す圭介。それをそのまま地面を落とそうとしたものだから、「待ちぃ。砂が付く」と舞魚が慌てて駆け寄ってきてくれた。


 舞魚にブレザーを渡した後、スニーカーと靴下を脱ぎ捨て――裸足となった。


「それじゃあ、アーナンクーでも」

「アーナンクー?」

「基本っていうか、シンプルな型なんだけどね。いつもやってるから」


 そして、圭介が何気なく庭の中央へと進み出た瞬間――空気が変わった。舞魚は、五月下旬の風を冷たく感じて肩を震わせ、圭介の身体が一回り大きく見えたことにまばたきを打つ。


「……基本で、こんな……」


 琉球空手に伝わるアーナンクーなる型。


 両足を開いた肩幅に開いた自然立ちから始まり、斜め左、斜め右への手刀受けと続く。


 内受けからの中段突きが二発。しかし、衣擦れの音が舞魚に届くのは、圭介の拳が伸びきった後だ。動きに遅れて音が聞こえてくるものだから、どうにも気持ちが悪かった。


 手刀受け。内受け。二連突き。山受け。鉄槌あばら打ち。追い突き。逆突き前蹴り。肘打ち。

 九種類の技を組み合わせたアーナンクー。


 圭介の言葉どおり、確かに基本の型なのだろう。動きは前後左右を行ったり来たりするだけのシンプルなものだし、目を見張るほどにアクロバティックな動きは皆無。


 どんな風に相手の攻撃を受けて、どう相手を倒しているか、一目瞭然な型だった。

 才能に恵まれた人間――藤ノ井舞魚ならば、今の一回で型を覚えられるはずだ。始まりから終わりまで、動きをなぞることぐらいはできる。


 だが……動きの一つ一つに込められた真髄に辿り着くことはない。そしてそれこそが、琉球空手特有の表現で言うところの『チンクチのかかった拳』だったり、『ガマクの入った打突』だったりするのだ。受け技一つ取っても、『間の切り方』に熟練のたたずまいがあった。


 一分三十秒。

「す――ぅ」

 最後にまっすぐに姿勢を正して、アーナンクーが終わる。


 舞魚は圭介のブレザーとネクタイを抱きながら、半ば呆然と突っ立っていた。圭介が型を演じている間ほとんど呼吸していなかったのか、桃色の唇から深い吐息を漏れる。


 そしてその熱っぽい吐息のまま、「どうして空手やの?」と問いかけるのだ。


 圭介が首だけで振り返って聞いた。

「始めた理由?」


「そ」

 と、ブレザーを抱いたままの舞魚が圭介の隣を通り抜け、「男の子やし、ヒーローに憧れたはったん?」庭の奥にあるサンドバッグへとまっすぐ向かっていく。


 圭介は舞魚の背中に首を振った。


「何か目標があって始めたわけじゃない。いつの間にか……多分、父さんの真似をしてさ」

「本間くんのお父はん?」


 すると、舞魚がみっちり砂の詰まった固いサンドバッグにローキックを入れる。最初は感触を確かめるようにそっと触れるだけ。二発目はもう少し強く、ボスッとこもった音が鳴った。


「結構な空手家なんだ。普段は、ただの公務員だけどね」

「お父はん相当お強いんやろねぇ。子供の本間くんが、あんななんやし」

「母さんが言うには、五歳くらいから父さんに引っ付いてやってたって。稽古終わりにはアイスを買ってもらって――なんとなくそれは覚えてる」

「あはっ♪ お父はんに餌付けされたはったんや」

「今思えば、僕なりの甘え方だったのかもね。うちって妹の主張が強くてさ、どうしてもあいつが優先されるけど……空手やってる間は、父さんを独り占めできただろうし」

「ちょお待ってくれやす。本間くん、そんないじらしいお子様やったん?」


 舞魚の苦笑に照れ笑いを返した圭介。


 すると再びサンドバッグに向いた舞魚が、またローキックだ。今度は少し力が入っていた。


「せやけど。うち、わからへんのですけど」


 その言葉に圭介は首を傾げるが、舞魚はそれを見もせずにもう一度サンドバッグを蹴る。背中越しに言葉を伝えた。


「お父はんと一緒にいとうて空手始めはったて、そんなんで今の本間くんになりますやろか」

「どういうこと?」

「さっきの型見よったらだいたいわかります。素人のうちでも、本間くんの積み上げてきはったもんが少しは見えたえ。アーナンクーいうん? どれだけ練習しはったん? あの型」

「………………」

「十年って案外短いやろ。ええかげんに学校行ってゲームしとっても十年やし、こんな固いサンドバッグ殴り続けとっても十年。うちは適当に学校行った側の人間やけど……本間くんのは想像するだけでキツいもの。ゲロ吐きそうになる」


 その時、ゆっくりと歩き出した圭介。まっすぐ舞魚のそばまで行って。

「本間くん?」

「………………」 

 サンドバッグの前を譲ってもらうと――――全力の中段回し蹴り。深く鋭く蹴り込んだ。


「――っ」


 突如として巻き起こったつむじ風、空気を震わせた衝撃波に舞魚の長い黒髪が揺れる。


 しかし中段回し蹴りはただの一撃目。そこから圭介のラッシュが始まった。

 両拳を握り、七秒の間にサンドバッグに十もの痕跡を残す。最後に鋭い中段膝蹴りを一つ。


 キョトンとしている舞魚に苦笑いを向けた。


「僕だって小学生の時はそこまで熱心じゃなかったよ。普通にゲーム好き、アニメ好きで、父さんに『いつか俺の秘拳を教えてやる』とか言われなきゃあ、絶対にどこかでやめてた」

「秘拳? 空手にそんなのあるん?」

「口縄、雷、残月、蟷螂、羽衣――他にも幾つかあるけど。あの人、天才だからさ。いつ、どこで思い付いたかは知らないけど」

「格好ええねぇ。一子相伝いうの?」

「端から見たら、使い道のない曲芸みたいなのもあるけどね」


 それから圭介は、ドスン、ドスン、ドスン、ドスンと拳でサンドバッグを叩き始める。十分に会話ができるほどの一定ペースで、しかし舞魚の方は一瞥もしなかった。


 真面目な横顔を舞魚に見せながらボソリと言った。


「それで、まあ……中一の春、クラスメイトを怪我させたんだ」

「……本間くんが?」

「イキってたつもりはないけどさ、初日の自己紹介で空手のことを言ったら、ボクシングやってるって奴に絡まれて」

「ボクシング? それって凄腕?」

「いや。やり始めて三ヶ月だったか、四ヶ月だったか」

「えぇ? そんなんほぼ初心者やないの。それでよう本間くんに突っかかったもんや」

「気持ちはわからないでもないけどね。半端に技を覚えた頃って、やけに強くなった気がするから」

「気ぃするだけですやろ? 男ってほんま阿呆やね」

「そうだね。僕も含めてみんな馬鹿だった。相手ミウラって奴だったんだけど、向こうの自己紹介で果たし合いを挑まれて――それで、クラスの男子が盛り上がっちゃってね。その日の放課後に急遽タイトルマッチさ。一年五組最強決定戦って」

「本間くんらしゅうもないことを……」

「欲が出たんだ。中学デビューなんてガラじゃなかったのに」

「どこでしやはったん? まさか教室?」

「机並べて即席のリングをつくってね。一応、クラス全員いたと思う」

「こわ……そんなん、もう闘うしかないやない」

「今も覚えてる。初めはミウラくんの左ジャブ。みんなは『すげぇ』とか『速い』って言ったけど、なんてことはなかった。そもそも僕の顔に届いてなかったし」

「怖かったんかもしれへんね。しっかり踏み込まんと、人の顔は叩けへんもの」

「あとは、ワンツー。ワンツー。馬鹿の一つ覚えさ。それしかまともに練習してなかったのかもしれないけど。簡単な相手だと思ったよ。この程度なら僕の好きにできる、クラスのみんなに格好付けられる、って」

「あはは……」

「それで、相手のパンチの打ち終わりに踏み込んだら、左フックをもろに喰らってね。いきなり目の前に星が飛んで、ラッキーパンチとはいえ慌てたよ。慌てて――無性に腹が立った。『なんでこんなのが僕に』って、頭が真っ白になった」

「本間くんもうええ。もう話さんかてええから」

「……掌底で顎をカチ上げたあとに、顔面に正拳一発。完全にやり過ぎだ。女子なんて泣いちゃって……そりゃあそうだよね。目の前で人が動かなくなったんだから」

「……相手の子は?」

「鼻骨と眼底の骨折。意識はすぐに戻ったから先生が病院に連れていったんだけど――病院の待合室で、父さんと母さんがミウラくんの親に頭を下げてるのを見て……もう、ね……」

「正直、本間くんのご両親は大変やったんと違う?」

「今思い出しても罪悪感に吐きそうになるよ。ミウラくんのお母さんは『悪いのは吹っかけたこっちだから』なんて言ってくれたけど、治療費はほとんど出したはずだし」

「けど治療費だけで済んだんや。あんまり揉めんと」

「ミウラくん、ボクシング始めてから家でだいぶ暴れてたみたい。やめさせたかったからちょうどいい。馬鹿には良い薬だって」

「本間くんはひどう怒られはったん?」

「母さんからは何も。ただ、父さんには『お前はそんな安い空手で終わるのか?』って」


 その時ふと……圭介の動きが止まる。


 右拳を腰の奥まで引いた体勢で、「それで火が付いた」と小さく一言。


 ――――――――


 全身全霊の正拳突きで超重量級のサンドバッグを震わせると、舞魚に向いて気弱に笑うのだ。


「今度は遊び半分じゃない。極めれば、こんな僕でもそれなりの人間になれるかなってさ」


 すると舞魚はひどく納得したような顔で、こくりと小さく一つうなずいた。


「それからだよ。父さんの紹介で、片桐さんのいる道場に出稽古に行き始めたのは」

「あはっ。ほんま、えらいとこ行かはったねえ」

「毎度アザだらけで大変だけどね……今はただ、強くなりたいだけ。本当に闘わなきゃいけない時にだけ、使える力が欲しい」


 すると、一つ思い付いた舞魚が軽く問いかけた。

「空手したはること学校で言わはらへんの、そん時のことがあるから?」


 図星。

 圭介は頭を掻きつつ、「……」小さく小さくうなずくのだった。


「ゆーて、体育ん時、あんな下手なフリせんでもええのに」

「あ、いや。運動オンチはフリじゃなくて――」


 どう伝えるべきか一瞬惑う。とはいえ、即座にもっともらしい言い訳を思い付けるわけもなく、圭介は事実をそのまま言葉にするしかなかった


「……単に、空手しかできないんだ。足は遅いし、球技のセンスもからっきし。前にやったみたく『飛んできたボールをはたき落とす』ぐらいはできるけど、それはバレーに求められる動きじゃないしね」

「空手の反射神経あるんやったら、その辺うまいこと補えるんやない?」

「身体に染み付いた動きがあって。そういうのが咄嗟に出ないよう我慢してるから」

「反射神経あっても遅れはるん?」

「サッカーとか、向かってくる相手殴りそうになるんだよね。両手空いてるし」

「あかんて。そら、向こうのエース負傷退場させんのやったら、ええやり方かもしれへんけど」


 圭介がクラスメイトのサッカー部員を殴り倒す姿でも思い浮かべたのか、言葉の終わりに「あはははっ♪」と声を上げた舞魚。


 一方の圭介は、苦笑しながらしみじみと言うのである。

「まあ。僕みたいな空手家は、見くびられるぐらいがちょうどいいんだ」

「卑屈やねえ」

「卑屈というか卑怯なんだよ。意表を突いて一撃で倒す。警戒されてない方がやりやすいから」


 すると、舞魚が手にしていたブレザーとネクタイを圭介にまとめて返す。

「そっか。そういう意味やとうちも同類やな」


 圭介は彼女からそれを受け取りつつも、『同類』という単語に首を傾げるのだった。


「うちかて、『かいらしなぁ』て不用意に寄ってきた親戚の骨折ったし」


 目をパチクリさせる圭介。


「八歳のお正月や。もう覚えてへんのやけど、お酒臭かったんやろね。いきなり抱っこしてきた叔父さんの鎖骨叩いて、そのまま病院送り」

「ち、小さい時から力持ちで羨ましい……」

「人とちゃうなぁいう意識はあったんよ。そやかて同級生の女の子ら、気ぃ付いたらスマホ握り潰しとったなんてこと、誰も言うてへんかったし」


 舞魚は右手を腹の高さまで持ち上げて拳をつくった。


「あんまり困ったことはあらへんかったんやけどね。力が強いいうだけで、誰か叩きたいやら思うたこともなかったから」


 一見、女子らしい小さな拳。しかしそのまま力を入れていく。


「十一歳……? 事情が変わってしもたんは、十一歳の時やったかな」


 圭介が眉をひそめたのは、舞魚の右拳が一回り小さくなったような気がしたからだ。

 舞魚自身の強すぎる握力で血流が遮断され、拳全体が赤黒く染まりつつあった。


「兄様に彼女ができはってね。うちその頃、ちょいブラコン気味やったし、なんや変に兄様のこと意識してもうて――気ぃ付いたら家の廊下で兄様を襲ってしもてた」


 次の瞬間、自らの発言に勝手に慌てた舞魚が「ちゃうから。襲ったいうて、別に変な意味やないから」と圭介を見る。珍しく早口で言い訳を並べるのだ。

「普通に押し倒して、普通に顔ぶっただけやし。そんで普通に殴り返されただけやし」


 そして深いため息を一つ。


「まあ……端から見たら、あんまり普通やないんやろけど……」


 何気なく二、三歩進み出て、大型サンドバッグの正面を圭介から譲ってもらった。


「なんしか。うちがぶちとうなるんは、うちが気になった人だけえ。こんなサンドバッグで、気持ちよぉはならしません」


 せっかく握りしめた拳の行き着く先――――それは、スカートがひるがえるのも気にしない、ぶん投げるような右ストレートだった。


 ズドンッ!!

 舞魚の全体重、全瞬発力を乗せた、ヒグマでも倒せそうな重たい一撃。


「痛った」


 舞魚はそう口走ってすぐさま右拳を引っ込めたが、その一方で「…………っ」平静を装いつつも生唾を呑むしかない圭介である。

 ……威力だけなら軽く片桐さん超えてるな……。

 そう確信して、藤ノ井舞魚の格闘センスを認めるしかなかった。


 身体の使い方が上手いだけじゃない。

 野生動物並みの筋肉が可能にするスピード、どんな『不安定』すらも許容するバランス感覚の掛け合わせが、インパクトの瞬間、あの威力を生むのだろう。


「はーあ。骨折れたかて思たわ」


 右手首を軽く振りながら、苦笑で圭介に振り返った舞魚。しかし、「あら?」その視線が圭介を超えて彼の背後に飛んだために、「ん?」圭介も振り返って舞魚の視線を追いかけるのだ。


 ………………じぃぃ~~~………………。


 気付けば、門柱の影から庭を覗き見る警戒心たっぷりの顔がある。


 圭介が何のためらいもなく声を掛けた。

「どうした恭子?」


 すると舞魚が「妹さんなん? 中学生?」と圭介の隣に並ぶ。


 門柱の影から出てくることなく、セーラー服姿のショートカット女子が上擦った声を上げた。


「ふっ藤ノ井さんですか!? 兄ちゃんの、か、彼女って話のっ!」


 まるで威嚇するハムスターのような愛らしさ。


 思わず口元をゆるめた舞魚が小さく会釈した。他人行儀な丁寧語ではなく、甘く、優しげに聞こえる京都弁を返す。

「初めまして。本間さんに仲良ぉしてもろてます藤ノ井です。どうぞよろしゅうね」


 しかしそれでも圭介の妹――本間恭子が完全に警戒心を解くことはなく……。 

「お茶――お茶とか飲んでゆっくりしていってください! もらいものですけど、美味しいチョコもあるんで!」と、歓迎の言葉を贈る時もまだ物陰からだ。


 舞魚は諦めることなく、人好きのする苦笑いと共に柔らかい京都弁を返した。

「堪忍なぁ。うち、実はチョコいただけへんの。アレルギーいうんか、酔っ払って動けんようなってしもて――て、その顔は信じてへんね。ほんまよ? ほんま、えらいことになるんやから。一欠片でも口に入れてしもたら、もう全然ダメ」


 その時ふと――鮮やかな夕日が笑う舞魚の頬を照らし――誰だってその一瞬の光景に目を奪われるはずだ。

 警戒していた恭子でさえ、舞魚の魅力に囚われ、門柱の陰からおずおず出てくるのである。


 なんかいい人そうだし、もうちょっとだけ話してみようかな……と、いつの間にか心を許しているのであった。


「チョコやのうて、『おせん』やらあると嬉しいんやけど」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る