刈谷の訓戒

 プルルルル。

 パソコンの画面と対峙したまま舟を漕ぎかけていた蟹江は、突然鳴り響いた携帯の着信音に叩き起こされた。

 はっとして画面に目を遣ると、表示画面は『MEMORY・GAME』を映したままだった。

 微睡んでからそれほど時間が経っていないのがわかると、蟹江は椅子から立ってテレビ台の上に無造作に置いたあった携帯電話を手に取る。

 電源を点けて着信を確認すると、数十秒前に着信のあったことが履歴として出ている。

 携帯電話を開いて送信者を確認。送信者が刈谷だった。

 師匠からの電話に礼を欠かぬため、蟹江の方から折り返しの電話をかける。

 刈谷はすぐに出た。


「やあ、蟹江君。元気かい?」

「ぼちぼちです」


 思うような記録が出せずに気を落としているけどな、と蟹江は内心自嘲的になる。


「そうかい。なら断る理由もないね」

「何の事です?」


 蟹江が尋ねると、急に口調を重々しくして刈谷が告げる。


「今からメモリークラブに来てくれ、大会について重要な話がある」

「それは今のこの電話口じゃダメですか?」


 すぐにも『MEMORY・GAME』の修練を再開したい蟹江は、露骨に七面倒さを口調に込めた。

 ダメだ、と刈谷は拒否した。


「何故ですか?」

「エントリーシートが届いてるから、そちらも渡したいと思っててね。だから来てくれないと渡せない」

「そんなもの、去年ありましたっけ?」


 聞き知らないという声で、蟹江は訝る。


「今年からだよ。エントリーシートの説明と記入もしてほしいから、こっちに来てくれ」

「わかりました。それじゃ、今からそっちに行きます」


 やけに熱心に誘うなあ、と師匠の口ぶりを不思議に感じつつも、蟹江は了承した。


 

 刈谷メモリークラブに着いた蟹江は、普段から所属するメンバーがトレーニングルームとして集まる部屋に足を踏み入れた。


「お、来たね」


 長机にパソコンを置き、そのパソコンを前にして席に座る刈谷が蟹江にニコニコとして椅子ごと振り向く。


「エントリーシートについて説明するっていうから、来ない訳にはいきませんよ。参加できなくなったら嫌ですからね」


 仕方なく来た、というニュアンスで蟹江は述べた。


「エントリーシートの説明は、二人が来てからするつもりだよ」

「二人って、弥冨と小牧のことですか?」

「そう。あの二人はまだ来てないからね」


 刈谷は窓の外に視線を移してそう答え、二人の到着を楽しみにしているような口ぶりで微笑む。


「先に俺にだけ説明してください」


 蟹江もつられて窓の外を見ながらも、今すぐにも帰宅して修練をしたい気持ちを隠し切れない。


「二人を待たなくても、先に俺にだけ説明してくてください」

「何回も説明するのは面倒だ」


 刈谷は言い聞かせる口調で言い放ち微笑した。

 そして微笑の口のまま、思いついたように提案する。


「二人を待っている間、久しぶりに『MEMORY・GAME』で対戦しよう」

「どうしたんですか、急に?」


 刈谷の口から出た想像せぬ申し出に、蟹江は訊き返す。


「どうしたもないよ。MGC本選前に蟹江君と対戦して、アドバイスできることがあればと思って」


 記録はとうに抜かれちゃったけど一応師匠だから、と付け加えて苦笑する。

 蟹江は正直、あまり対戦をしたい気分ではなかった。師匠に勝ってぬるま湯に浸っている場合ではない、と自分が日本一である自負がもたげた。


「いいだろう?」


 突然に黙った蟹江に、刈谷は申し出を重ねる。

 師匠の頼みゆえに断れない蟹江。


「わかりました、やりましょう。でも種目を絞ってもいいですか?」

「Cardsかい?」


 蟹江側が種目名を告げようとすると、途端に見透かしたような目になって刈谷が訊き返した。


「よくわかりますね」

「仮にも君の師匠だからね。弟子の考えてることぐらい分かる」


 微傷を湛えたまま誇る様子もなく刈谷は言った。


「それじゃ、やろうよ。パソコン持ってきてくれただろう?」

「はい。持って来るように、という通達だったので」

「うん。なら早速、僕の向かいで準備して」


 刈谷は促すと椅子ごと身体の向きをパソコン側に戻して、フレンド対戦でのマッチング用意を画面上で始める。

 師匠に勝って情報を引き出してエントリーシートをかっさらって帰ろう、という魂胆で、蟹江もマッチングの用意をした。

 相互にフレンド欄から対戦相手を指定すると、対戦種目にCardsを選択する。

 マッチングが完了すると、両者は画面内のトランプに意識を集中させた。

 六分後。



「嘘だろ」


 蟹江はYOU LOSEの表示が浮かぶ画面を、茫然と眺めていた。

 蟹江は、17秒18と好成績を出したが、六枚のミス。


「僕の勝ちだね」


 一方、刈谷は34秒33、と蟹江よりタイムでは下回っていたが、ミスが0枚で結果的に蟹江に勝利した。

 弟子がショックを受けたのを見て、刈谷は優越感を装って口を動かす。


「僕の勝ちだね」

「二回言わなくてもいいじゃないですか」


 悔しさにまみれた目で、蟹江は師匠を睨んだ。

 その目と相対した刈谷は、にこやかに人差し指を立てる。


「もう一回、やるかい?」

「やります」


 悩む必要もないばかりに瞬時に答えた。

 師弟は二回目の対戦をマッチングした。

 六分後。



「嘘だろ」


 蟹江はまたしてもショックの声を発した。

 刈谷はまたしても優越感を装っている。


「二回目も僕の勝ちだね」

「もう一回」


 蟹江は意地になって、再戦を申し出た。

 六分後。



「嘘だろっ!」


 蟹江先程よりショックを大きくした声を発した。

 刈谷は優越感の極みを装う。


「三回目も僕の勝ちだね」

「もう一回」


 執念さえ籠った表情で、再戦を申し出る。


「やらないよ」


 しかし四回目は、刈谷は再戦に応じなかった。

 再戦してくれると決めてかかっていた蟹江は、思わぬ対戦拒否にマッチングを始めようとして握ったマウスの手が固まった。


「えっ、やらないんですか?」

「うん、やらない」


 蟹江はパソコン越しで不満そうに眉を寄せる。


「勝ち逃げはナシですよ」

「勝ち逃げするつもりはないよ。ただね……」


 言葉を区切って、諭すような口調に切り替える。


「蟹江君が自身の敗因をしっかりと把握するまでは、対戦は受けない」

「俺自身の敗因ですか」


 蟹江は三回の対戦を省みた。

 ああ、そうかとすぐに敗因に行き当たる。

 気付いてないと思われてるのか、と蟹江は一矢報いるような気持ちで答える。


「簡単な話ですね。俺の敗因は記憶の定着力だ」

「あながち間違いではないよ」


 間違いではないと言いつつも、刈谷は間違っていると告げる時のような口調で弟子にそう返した。

 刈谷の微妙な言葉のニュアンスに、蟹江は純粋に疑問を覚える。


「正解じゃないんですか?」

「うん、そうだね」

「じゃあ、正解はなんなんですか?」

「疲労だよ」

「疲労?」


 刈谷は頷いた。

 そんな単純な、という目で蟹江は反問する。


「疲労を気に掛けてる余裕なんてありませんよ。休むのはトニーの記憶を抜けるようになってからにしますよ」

「それでは何時までたっても、トニーは超えられないと思う」

「そんなはずはない」

「ある。現に超えられていないじゃないか」

「練習を積めば、世界一にだって勝てますよ」


 蟹江の強い意思が口を衝いて出た。

 持論に凝り固まった人を哀れむように、刈谷は弟子を見つめ返した。


「記憶だとか順位だとかに執着して視野が狭窄した状態で、最高のパフォーマンスを引き出すことができると思ってるのかい?」

「執着しちゃ、いけまんせか?」


 信念を貫き通そうとする声で、蟹江は師匠に問う。

 いけないわけじゃない、と刈谷は継ぐ。


「でも今の蟹江君は苦しんでいる。万全の状態でやれてこそ最大限の力が引き出せるはず。そうだろう?」

「……」


 蟹江は師匠の言葉をかろうじて受け止めると同時に、ここ数日の猛練習を思い返した。

 ひたすらにイメージ変換練習、ルートの高速周回、そして記録狙いのスピードカード。

 ルートに貼り付けた数多のイメージの残影が、明瞭で雑多に蘇ってきてしまう。

 蟹江は残影の正体に思い当たり、左手を額に触れて今までその存在に気が付かなかった自分の愚かさを呪いたかった。


「刈谷さんが疲労って言った理由がわかりましたよ」

「わかったかい」

「ゴーストですね」


 ゴーストとは、連続で同じルートを使うことで生じる弊害だ。プレイスにイメージが残ったまま新しいイメージを貼り付ける際に、まさに幽霊のように前回に記憶したイメージが浮かび上がってきてしまう現象だ。

 蟹江は得意ルートを酷使する余り、ゴーストが記憶の邪魔していたのだ。


「ゴーストを取り除くには、しばらくそのルートを使わないでいるのが一番だよ」

「そうですね。わかりました。師匠が俺に伝えたかったのは、ゴーストのことだったんですね」

「いや、僕はゴーストの事を指して言ってたわけじゃないよ」

「そうなんですか?」


 蟹江が拍子抜けした顔になる。


「疲労の内にはゴーストも含まれてるから、あながち間違いではないけど」

「なるほど」

「納得できたかい?」

「はい」


 憑き物が落ちたような表情で蟹江は頷いた。

 ひとくさり話がついたところで、刈谷は話題を移る合図のように大きめに音を立ててパソコンを閉じる。

 パソコンを閉じる音の後、部屋のドアがゆっくりと開けられる。

 ドアの開いた隙間から、弥冨と小牧が顔を覗かせた。


「いつまで待たせる気よ」「待ち疲れました」


 弥冨と小牧は刈谷に非難するような目を向ける。

 刈谷は二人を振り返り、苦笑いする。


「思ったより話が長引いてね」

「師匠、弥冨と小牧と何の話をしてるんですか?」


 訳が分からないという顔つきで、蟹江が尋ねる。

 質問に答えるため、刈谷が蟹江に顔を戻す。


「大した話じゃないさ。蟹江君と二人きりで話をするために二人には待ってもらっていたんだよ」

「わざわざ?」

「そう、わざわざ」


 蟹江は待たせてしまったことに申し訳なさを感じて、二人に向って詫びた。


「ごめんな、俺のせいで時間を取らせちまって」

「ほんとに誰のせいで、迷惑被ってると思ってるのよ」


 不愉快丸出しの声で弥冨が言い返した。

 その隣で小牧が微笑んで、蟹江に質問を寄越す。


「差し入れの方は美味しかったですか?」


 差し入れ、と言われて蟹江は合点がいく。


「ああ、あのドアノブに掛かってたやつか」

「そうです。どうでしたお味は?」

「トランプの事ばっかり考えてたから、あんまり記憶がないんだよな」


 すまなさげにした顔を小牧に向けて、蟹江は正直に苦笑して答えた。

 別段怒るでもなく笑顔だけど不服っぽく小牧が語を継ぐ。


「そこは嘘でも、美味しかったって言ってくださいよ。作った人は喜びますよ」


 そう言って、ちらりと隣の弥冨に視線を投げる。

 弥冨は小牧の意味ありげな視線から、とぼけるようにして目を逸らした。


「蟹江君、二人に言わないといけないことがあるんじゃないかい?」


 含んだ笑みを浮かべて、刈谷が促す。

 蟹江は言葉を選ぶような間の後、少し照れ気味で二人を見つめた。


「心配かけてすみませんでした。それと心配してくれてありがとう……こんなんでいいんですか?」

「蟹江君の口から謝罪と感謝の言葉を聞いたけど、二人は蟹江君を許すかい?」


 仲持を担うように刈谷が、弥冨と小牧に尋ねる。


「許します。第一、こっちが勝手に心配して差し入れとかしていただけですから」


 はにかんだ微笑で小牧は言った。

 しかし一方の弥冨は、いかにも釈然としない顔つきで眉をしかめている。


「忠告したのに斥けるからよ。こっちはあんたのためを思って忠告をしてたんだから、少しくらい聞いてよ」

「あの時はごめん。俺も苛立ってて、つい意地悪いことしちまったな」

「……わかってるならいいのよ」


 先日の出来事が腑に落ちた様子で、弥冨も渋々という感じで蟹江を許した。

 一件落着の雰囲気になり、刈谷が満足げに呟く。


「いや、本選前に軋轢を埋められてよかったよ」


 呟いた刈谷に、蟹江が思い出したように問う。


「そうだ、刈谷さん」

「なんだい、蟹江君?」

「エントリーシートの説明をそろそろしてくださいよ。三人揃ってることだし」

「ああ、そうだったね」


 今まで忘れていた素振りで言うと、微笑んで黙した。


「説明は?」

「……蟹江君」

「はい?」

「大団円で終わろう」

「どういうことです?」

「察してくれ」


 刈谷は微笑のまま蟹江に解釈を委ねると、すっかり暮れた窓の外に目を向けた。

 蟹江はしばし考えた後、まさかという顔になる。


「エントリーシートのことは俺を呼びだすための口実ですか」

「明日は快晴らしいよ、弥冨君、小牧君」


 刈谷は窓の外に目を固定したまま、蟹江の声が聞こえていないかのように、事情が通じ合っている弥冨と小牧に話を振る。


「そうね」

「そうなんですか」


 話を振られた二人も窓の外に視線を据えて、情趣を口に乗せた。


「おい、誰か答えてくれ。誰でもいい、エントリーシートのことについての説明は、あるのかないのか」


 唯一事情を知らない蟹江は、未知の土地に取り残された気分で、三人の誰にともなく間抜けな問い掛けをしばし繰り返した。

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