ミョウジョウと私

ミョウジョウと私1

 走る。

 ひたすら、走って逃げる。

 結局この世界で私にできることって、それ以外にできることなんてないのだ。

 草地を抜け、叫びながら私は、いつの間にか迷い込んだ廃墟のビル街を走っていた。

「探せ!! 探せ!! 急いで探せ!!」

「女だ!! 見つけろ!! まだ遠くない!!」

「近くにいる!!」

「きっとそうだ!!」

 ガミガミと唸るガーゴイルたちの騒ぐ声に追い立てられていた私は不意に足をもつれさせ、濡れた砂に頭から倒れ込んでしまった。立ち上がろうと無様にもがいて失敗し、焦り過ぎて体が硬直していた私は目を閉じて、きっと20秒ほどはそのままだっただろう。

 荒い呼吸を落ち着けて、目を開く。

 まだ雨に紛れて石の悪魔たちの声は聞こえるが、さっきよりも随分と遠くなったように感じる。辺りに生き物の気配はない。

 逃げ切れた……のだろうか。

 そんなはずない気がするのだけれど、でも、辺りには確かに何もいない。あいつらは私を追いかけていたはずなのに、不思議だ。顔についた砂を払い、ゆっくりと立ち上がる。暗い、誰もいない……怖い。私は、左右に巨大なビルが並ぶ砂漠の道の隅を、怯えながら一人でトボトボと歩き出した。灯りのない街灯が枯れ木のように影を落として並んでいて、表面に手を這わせるとザラッと生々しい錆の感触がする。やっぱり、この世界が夢だとはとても思えない。廃ビルの群れはどれも空から逆さに降ってきたみたいに傾いていて、真っ平らな表面には曇った窓ガラスが虫の目のように並んでいる。割れた窓から中を覗くと、煤けたフロアは黒い水で満たされていて、ムカデのような黒い影がサラサラと泡を立てながら中をゆっくりと泳ぎ回っていた。

 仕方なく砂の道を歩きながら、私は、改めて怖いなって思っていた。とても純粋な感情だ。ここは本当に恐ろしい世界だと思う。どうして私がこんなところにいるのか、まだ答えになりそうなものは見つからない。ここはどこなんだろう。私は家に帰ることができるんだろうか……。

 石の悪魔たちの声は、もうだいぶ遠のいた気がする。

 ガラガラと、何かが崩れる音。

 雷のような何かの鳴き声。

 突然足元がぐらついて、立っているのが難しいくらいに揺れが走った。

 なんとか耐えたと思ったのもつかの間、立て続けに起こった揺れに耐えられず尻もちをつく。

 地震……?

 フッと、世界が暗くなる。

 見上げた空を覆うように、倒壊したビルが、私に向けてギイギイと音を立てて迫ってきていた。

 時間をゆっくりに感じる。

 ああ、死ぬんだなって思った。

 事故死、病死、無差別殺人……何もわからないまま呆気なく迎える死を、心の底からリアルに感じる。

 本当に、なんて呆気ない。

 これで終わりか。

 風圧に息が詰まる。

 巨大な質量が迫ってくる。

 砂塵を撒き散らしながら根こそぎに倒れたビルが、頭上5メートルほどのところで背後のビルにぶつかり、ガリガリと音を鳴らして減速し……。

 やがて、コンクリートを軋ませながら緩やかに停止した。

 降り注ぐ石の欠片と、泥のような飛沫。

 バキッと何かが折れる音。

 ひび割れて、ガコン、ガコンとだるま落としのように崩れ落ちてくる。

 その都度降り注ぐ石の破片。

 へたり込んだまま首を沈めて、じわりと這い上がる恐怖に耐える。

 ガコッ……ガガ……。

 コッ。

 頭上1メートルもないところ、コンクリートの表面の渦のような縞が見えるくらいの距離で、どうやら止まったらしい。

 ザアザアと雨の音。

 鼓動がまだ痛いくらいに胸を叩き続けている。どこかで山が崩れるような轟音が幾つも鳴り響き、笑い声にも似た不気味な震動が反響していた。

 やっぱり、怖いな。本当に怖い。

 肩で息をしながら、首を左右に回し、わずかに光の差してくる方向を見つける。崩れ落ちた瓦礫の狭間はざまに、ギリギリ這って出られる程度の隙間が空いていた。生き埋めになっていなくて、本当に良かった。瓦礫の下で身じろぎできず一人ぼっちで死ぬなんて、考えるだけでも身の毛がよだつ。

 私は瓦礫の隙間を這うように進みながら外を目指した。

 が、すぐに息を止める。

 頭上、きっとこの倒れたビルの上と思われるほどの近くで、何かの声がしたからだ。

「女だ!! 女がいたぞ!!!」

「いないぞ!! どこだ!?」

「北だ!」

「いや南だ!!」

「クロネコもいるぞ!!」

「狼に遅れを取るな!!」

 ジィーンと全身に緊張が走り、目をつむる。

 でもまだ息を潜めて……。

 ドタドタと足音や羽音が近づき、そしてすぐに遠くなっていった。ささやかな安心感にハーっと息を吐いたが、同時に掴みどころのない寒気も覚える。あいつらは、女を見つけたと言っていた。でも私はまだここにいる。一体何が……。

 ドンッと、空気が震える。

 一瞬遅れて、雷鳴のような銃声が遥か遠くで響き渡った。

 反響。

 残響と予感が空気をゆっくりと伝播していく。

 いつの間にか止めていた息を吐こうとして、吸ってないことに気がついて、鼻から空気を呑んだ。

 今のは、雷鳴?

 それとも、銃……?

 わからない。

 気のせいだったかもしれない。そもそも音なんて鳴らなかったのかもしれない。

 相も変わらず振り続ける雨の音と共に、瓦礫の下にも冷気が充満してきた。凍えるまま、何もできない時間だけがいたずらに過ぎ去っていく。耳を澄ましても次の銃声も何もない。やかましいばかりの石の悪魔たちの騒ぐ声が、いっそう不機嫌で恐ろしげに私の心をおびやかすばかりである。私は横になったまま膝を抱え、ボタボタとしたたってきた雨水の流れが小さな瓦礫にぶつかっては曲がりとどこおっていくのを、ただじっと眺めていた。

 ……辛いな。

 何より、寒い。

 今はただうちに帰って、自分のベッドで眠りたい。

 それ以外の思考は雨に溶けた。

 そして、そのときは突然訪れた。

ども、俺の可愛くもない臣下どもよ」

 神か悪魔のように尊大な声が、メガホンを通したみたいにくぐもった迫力で天から降り注いだ。気絶するような眠りに落ちかけていた頭が一気に冴え渡る。

「貴様ら、一体そこで何をしている?」声は続ける。

「ミョウジョウ様!!」

「ミョウジョウ様だ!!!」

「ミョウジョウ様のおなりだ!!!」

 それまで雑多にあちらこちらに飛び交っていた石の悪魔たちの声が突如重なり、そして思わず耳をふさぎたくなるほどにおぞましい何かの合唱が始まった。気持ちの悪い声。死にたくなる。

「黙れ」

 鶴の一声に、シンと静まり返る。

「貴様らは逃げた女を捕まえたと俺に言った。俺はそれから二刻待った。なぜ俺のもとに未だ女が届かない?」

「ミョウジョウ様!! 女は消えました!! ホムラの手に落ちたのです!!」

「奪われた!! 奪われた!!」

「ミョウジョウ様、お力を!!」

 再び起こりかけていた馬鹿騒ぎが。「黙れ!!」の一声でまた静まる。

「石けらども……手を合わせろ。祈るのだ」

「おお、ミョウジョウ様!!」

「ミョウジョウ様がお力を使われるぞ!!!」

「我が身を捧げよ!!」

 カンっと、硬い石同士がぶつかる音が河原のようにカラカラと重なる。

 雷光。

 叫び声。何かが弾けとぶ音。

 同時に何か風のようなものが闇を駆け抜け、鳥肌が立つ。

「……見つけた」

 ミョウジョウと呼ばれるものの声。

「感じるぞ……その近くにまだいる。やはり石けらどもの報告など当てにならねえな……おい女!! いるのはわかっている、姿を現せ!! 俺は明星ミョウジョウ、砂塵の僧正、輝ける石のミョウジョウである!!」

 私は……。

 私は多分、瓦礫の隙間から這い出て投降しようとはしてたと思う。でも駄目だった。無理だった。頭ではまずいってわかってても、体がまるで言うことを聞かなかった。

「……いいだろう」

 また、石が砕ける音。

 再び風を感じる。だけど今度のそれは幻覚ではない。もっと明らかに物理的な、空気の流れが生んだ圧の変化だった。

 空を覆っていた頭上の瓦礫が、突然ズルっと横滑りした。潰されることを予感して頭をかばった私の上で、巨大な塊が宙へと浮かび上がる。砂煙を巻き込んだ気流に髪が巻き込まれ、闇に慣れた目に暗いはずの外界の光が襲いかかった。

 顔を覆い、薄目を開く。

 念動力のように不可思議な、だけど圧倒的な力で、あたりの瓦礫が根こそぎ持ち上げられていた。向こうの空でガーゴイルたちが輪になって祈りを捧げている。

 その中心に、一体の白い悪魔が翼を広げて浮かんでいた。

 赤い両目が光を放ち、私の方をまっすぐに、見据えている。

「女……俺は言うことを聞かない女が、大嫌いだ」

 ガチガチと、信じられない震え方をする私に、声が迫る。

「今度俺を無視したら……殺すからな」

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