クロネコと私3

 地獄のような景色だった。

 突然、クロネコの頭に槍で穿たれたような穴が空いていた。目も口もドロドロと溶け出して、形を失った闇の泥が私の肌に向けてボタボタと雫を垂らしている。

 精子。

 見たことも触れたこともないけれど、その言葉を思い浮かべた。

 血。

 黒々と混じり合って、私を浸していく。

「いやああああっ!!!!」あまりの不快感と恐怖にクロネコを払い除けた。除けようとした。長い指がピクピクと震えて私の服を掴み、逃げようとした私にのしかかる。

 重たい。

 熱い。

 臭い。

 苦しい……っ。

 きっと私の倍以上は体重のあるクロネコに潰されながら、半狂乱でなんとか体をねじり出す。顔と手がベトベトして最悪だ。シャツの裾を掴んだままのクロネコの手を振り払おうとしたとき、不意にその体がガクンと起き上がり、私を壁に押し付けて抱きついた。

 悲鳴。

 多分、お互いの。

 びしゃびしゃと液体の跳ねる音と意味のわからない言語を叫び続けていたクロネコの体に、再び火花が走る。

 爆散。

 ビシャっと泥が弾けた。全身に熱い泥を浴びせられた私は、変なショック症状でピクリとも動けなくなってしまった。

 泣いている。

 子どもみたいに、クシャクシャに。

 目を閉じて、鼻だけでなんとか深呼吸。自分の体が自分じゃないみたいに遠く感じる。震える手がゆっくりと持ち上がり、雑巾みたいに強く顔を拭ってる。

 その手を、動かす。

 意識して、なんとか自分の体に心を戻して……。

 やがて声が聞こえてきた。

「殺ったか? 殺ったな? クロネコは死んだな?」

「死んだろう。そうだろう」

「もう一発撃つべきか?」

「今は危ない。女を巻き込みかねない。さっきのは危なかった。女は殺すべきでない」

「女は連れ帰るべきだ」

「そうとも、我らが王に捧げるのだ」

 しゃくりあげる喉をおさえ、ゆっくりと目を開く。

 そこにはまたしても、異形の悪魔たちが武器を構えて並んでいた。二足で立つけた狼たちが弓や槍を持ち、10体ほどの群れで私とクロネコの死体を囲い込んでいる。みな体が細長くて異様に脚が長くて骨が剥き出しで、生気がない。どことなくおぞましい雰囲気が漂った、不気味な野獣の兵隊たちだった。

 目を逸らすように、倒れ伏すクロネコの胴体に視線が吸い寄せられる。

 クロネコが……死んでいる。

 吐き気がこみ上げてきた。

「見ろ、女の体だ」

「白い肌だ」

 耳障りな声。私は反射的にはだけていた服を引っ張って体を覆ってしまった。すると狼たちが皆低い声でおーっと叫び、私を眺めながらガラガラと笑った。とても不愉快で意地の悪い空気に喉が詰まり、私はまた大の字に伸びたクロネコの死体に視線を落とした。

 クロネコは……クロネコは、私を犯そうとした。

 それだけだった。

 それがこの世界ではどれだけ親切なことだったのか、わかっていなかったわけじゃないだろうに……。

 あぁ、やっぱり状況が悪くなるばかりだ。今更にクロネコを受け入れて保護されてた方がマシだったと思うなんて、本当に、弱くて卑怯で浅ましくて、そして普通な私だ。

「見ろ、女が服を着ている」狼が何か言う。

「あれはクロネコの服か?」別の一体。

「違うだろう。いや、わからない」

「脱がそう、裸にしよう」

「そうとも、裸で運ぼう」

 顔を上げる。狼たちのおぞましい笑顔が私を睨んだまま、手を伸ばし、ゆったりと迫ってきていた。

「っ……」ゾッと震える体。同時に、右手に幻のような銃の感触。ザラザラの引き金を指が撫でる。

 この銃で……たたかうしかないの?

 私が?

 できない。絶対できない。

 じゃあもしかして、自分を撃てばいい?

 それしかない気がする。

 でも、今?

 私が今、この場所で死ぬの?

 どうして?

 曖昧に揺れる心と体。早回しのように言葉が頭を巡っても、判断するための時間はあまりに短く、だけど咄嗟に引き金に指がかけるには、狼の動きはあまりにも長く緩慢だった。

 どうしよう……どうすれば……。

 そもそも銃ってどうやって扱えばいいの?

 考えがまとまらないまま持ち上げた手の中に、ストンと銃が現れた。唐突だったその重さに、私はツルっと銃を取りこぼす。

 あっ……。

 拾おうとした私の腕を、狼の冷たい手が掴んだ。脚も掴まれ、首を押さえられ、硬いたくさんの腕が次々と伸びてくる。

 ゆっくりと乱暴に押さえつけられ、私はズルズルと、自分で何かを選ぶ権利を失った。

 ……なんて、お似合いなザマだろう。

 後ろ手をキツく縛られながら、私は砂を噛み、呆けたように笑っていた。

 裾を掴まれ、狼の手が服の間に伸びてくる。毛むくじゃらの指先が肌を撫でている。

 今更すぎる恐怖が、胸を刺した。

 叫ぶ。

 叫んで、暴れる。

 弱々しく。

「見ろ!! 女が暴れてる! 抵抗している!」

「危険か? 黙らせるか!?」

「大丈夫だ! 女は弱い!! 女は雑魚だ!」

「そうとも、愉快だ!」

「ハハハハハハ!!」

 ……違う。

 弱いのは、女じゃない。

 私だ。

 太い手が脚の間に挟まり、強引に股を開かされる。その意味も理由も何も考えたくなかった私は顎で顔を起こし、落とした銃の銃口を見つめていた。真っ暗闇。そこから火花が散って、何もかもを壊してくれる妄想。撃って、撃って、私も何もかも穴だらけになって消えちゃえばいい。

 でもきっと……やっぱり死ぬのは怖いんだろうな。

「おかあさん……」

 我知らず、つぶやきがこぼれた。

 銃口の黒い一点が持ち上がり、軌跡を描き、見えなくなって……。

 そして本当に、火花が散った。

 映画やアニメで聞いたのと同じ……だけど音量がぜんぜん違う、あまりにもうるさくて暴力的な炸薬の音に全身が強ばる。

 同時に私の背にまたがっていた狼の一体が、バチンと背後に吹っ飛んだ。

 2発、3発……銃声が更に続く。そのたび化け物たちの悲鳴が上がり、青黒い血の飛沫がビチャビチャと跳ね回った。

 降りしきる血の雨。

 叫びと銃声。

 煙。

 硝煙の向こうで銃を撃っていたのは……クロネコだった。

 クロネコだったもの、だった。

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