第09話 今すぐにでもタイムマシーンを造り上げるだろうぜ

 びっくりした。

 そりゃあもうびっくりしたね。


「私、この猫育てるよ」


 いつの間にか隣を付いてきた猫を抱き上げるなり、陽妃が逡巡しゅんじゅんなくそう言ったからだ。


「この子、きっと捨てられたのね」


 陽妃ようひは猫の頭を撫ぜながら優しげに微笑んだ。


「どうしてそう思うんだ?」

「目が潰れているでしょう? かわいいかわいいってそれだけで猫を飼って、かわいくなくなったら捨てちゃうんだよ。かわいいのが猫の役目だからって。でもそれっておかしいって思わない? だって猫は生きているんだよ? 人間の都合で飼って捨てて、かわいそうだなって思わない?」

「ああ、思うよ、そりゃあ」


 そりゃあ思う、ああ。思うけれども、素直には頷けない。なぜなら俺はその猫を知っている。俺の目の前で鳥を捕食した猫だ。ブチ模様に足袋を履いたような毛色。こんな特徴的な猫がこの街に二匹以上居るとは思えない。


 それにしてもあのときは両目とも有ったはずだけど、鳥の最期の一撃を食らってしまったのだろうか。


 いずれにせよ、野良として誇り高く勇猛に生きてきたそいつを、捨てられたかわいそうな猫の一派に加えてやるのにはいささか違和感を覚える。かと言って今さら「その猫この前鳥食ってましたよ」って誰得だれとく情報を教えて水を差すのも悪い。


「今から獣医さんの所へ行って診てもらう」


 本格的に飼う気だ。この前散々俺に物を捨てろと言っていた陽妃が、一方では猫を拾う。


「そんな金、有るの?」

「バイトしてるもん」ああそうか実家暮らしか。「ちょうど今日バイトの給料日なんだ。これも運命かも知れない」


 彼女の猫を見る目は、いつくしみに満ち溢れていた。

 その瞳には、俺を見ていたときの色艶がない。なんだか妙にける。

 あの鳥は死んで、この猫は生きるのか。片眼を失い、野生では生きにくい体で。あいつとこいつの違いはなんだ。


 ——にゃぁん。


 かわいらしい声で鳴く。


「おー、よしよし」


 猫を抱いて撫ぜる陽妃。猫も陽妃も幸せそうだ。

 しかし、野生で狩りを行っていたときの勇ましさはどこへやら。


「本当に、どこへ行ったんだ?」


 猫に問う。猫は俺に一瞥いちべつをくれて、それから笑ったような気がした。

 野生で自活していた猫。陽妃の家で飼われる猫。この二つの自己同一性はどこにあるのだろうか。この猫にはアイデンティティが存在するのだろうか。或いは、捨てたのかも知れない。いよいよ野生では生きていけないとなって、野生で生きて行くための自己同一性を捨てて、人に飼われて生き永らえる道を選んだ。もっと言えば、新しいアイデンティティを手に入れたと言ってもいい。

 だとすればあの鳥が捕食されて死んでしまったのは、野生での自活に拘り過ぎたからなのか。あの鳥はアイデンティティを捨て去ることができれば——例えばあのとき俺の目の前を通り過ぎるのではなく、俺が思わず哀れみ救いたくなるような挙動を取っていれば、死なずに済んだのかも知れない。


 なぜそれを行わなかったのか。


 鳥は鳥として生き、鳥として死にたかった?


 わからない。けれどもしかし、あいつは最期の最期まで孤高だったし、自然界の倫理から乖離かいりすることは無かった。鮮やかに死ねた。そのように思う。


 スフィアはどうだ。あいつは蕁麻疹じんましんを起こして涙を流しながら、俺にオナニーさせようとしてきたが。どうだ。彼女は、まさに鳥のように在ろうとしているんじゃあないか?

 プラウやレッカたちは、この猫が野良猫で有ることを諦めたときと同様に、冷蔵庫であることも片手鍋であることも諦めて、あの部屋に居る。

 それ自体は悪いことではない。猫が飼われることにより安息を得ることが不正ではないのと同じく、彼女らの行いは間違いではないのだ。でもそれではいけないとスフィアは思い、それで身を委ねたんじゃあないか?


 俺はどうすればいい。


 あのとき猫が連れ去っていった茂みを思い浮かべる。


 鳥が鳥として、翼が折れようともテセウスの船で在ろうとしたように、スフィアがスフィアとして蕁麻疹が出ようともテセウスの船で在ろうとしたとき、俺はどうするのが正解だ。


 古代ギリシャの哲学者どもよ。そのかいを持っているというのなら、俺は今すぐにでもタイムマシーンを造り上げるだろうぜ。

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