現代催眠学基礎論

牛屋鈴子

1.人格上書き

 俺、岩倉いわくら和真かずまには気になる女子が居る。名前は浅田あさだいずみ

 授業中、休み時間を問わず、彼女と目が合う瞬間が多い気がする。もしかして彼女は俺のことが好きなんじゃないだろうか。

 そんな浮かれたことを考えてみたりする。



・・・2・・・



 五月二十日、目が覚めると知らない天井だった。知らない部屋、知らない布団、知らない扉知らない廊下知らない階段知らない間取り知らない家具。

「あ、お姉ちゃんおはよう」

「泉、おはよう」

 知らない家族。

「……!?」

 妹らしき人物と母親らしき人物の挨拶あいさつを無視しながらどたどたと家の中を駆け回り、鏡を探す。

 知らない洗面所せんめんじょの鏡に映る顔だけは、知っている顔だった。……しかしこれは俺の顔ではない。

 クラスメイトの浅田泉さんの顔だった。

「な……なんだ、これ。泉さんの体に、俺の精神……?」

 ということは、今頃俺の体には……!?

 急いで部屋に戻り、泉さんのスマホを手に取る。幸い、ロックは指紋しもん認証式にんしょうしきで、パスワードなどがなくても電話の機能を使うことができた。

 そして、自分の電話番号を素早く打ち込み、自分のスマホに通話をかける。

『もしもし……岩倉和真です』

 聞きなれたえない声の男が出る。岩倉和真。俺の名前だ。

「……つくろわなくていい。俺だ。本物の岩倉和真だよ。今、泉さんのスマホからかけてる。今俺の体に入ってるのは……泉さん、だろう?」

『何言ってんの?』

 長い沈黙が流れる。

「い、いやだから。今、俺達入れ替わってるよねって……ことなんだけど」

『……何言ってんの?』

 帰ってきたのは同じ台詞せりふだった。

「今、泉さんの体の中身は俺だ。岩倉和真だ。だから今、岩倉和真の中身は泉さんだ。そうだろう?」

『いや……岩倉和真の体の中身は岩倉和真だけど……』

「……は?」

 じゃあ俺は一体……何なんだ?

『えっと、俺、そろそろ家出るから。それじゃ』

 ぷつっと通話が切れる。不穏ふおん静寂せいじゃくが、知らない部屋に流れた。

「もしかして……入れ替わってない!?」



・・・1・・・



 朝、教室に入ると泉さんが俺を見つめて目を見開いた。

「お、俺が居る……」

 そしてって来た。

「おいお前!本当に俺なのか?岩倉和真なのか!?」

 さっき、電話でんわしに聞いた声と同じ声だ。やはり今朝の電話は泉さんだったのか。

「そうだけど……?」

 俺がそう答えると、浅田さんは頭を抱えてしゃがみこんだ。

「……どういうことなんだ?」

 こっちの台詞だ。

「……話がある。どこか別の場所に行くぞ」

 泉さんは立ち上がりながら、俺の腕を引っ張った。女子との触れあいに少しドキッとするが、何だかみょうな展開だ。

「話って……さっきの体の中身がどうこうって話?」

「そうだ。お前の方になんら変化がないっていうのは置いておくにしてもだな……今泉さんの体に俺の精神……つまり岩倉和真の精神が入ってる!これはまぎれもない事実で、俺達にはそれについて話し合う必要がある!」

 泉さんが熱を入れて話す。しかしやっぱり俺には信じられず、比較的ひかくてき冷徹れいてつ態度たいどになってしまう。

「……岩倉和真の精神はここだよ。何で同じ人間の精神が二つあるんだ」

 自分の胸を軽く叩く。

「だから!それについても話し合おうって言ってるんだ!」

「……ごめん。ちょっと、その冗談にはついていけない」

「冗談なんかじゃない!証拠だってあるんだぞ!?」

「証拠?言っておくけど、俺の電話番号を知ってたことは証拠にならないよ。それくらいちょっと調べればすぐに……」

「俺は……お前は小学三年生の頃、担任の先生が好きだった」

 泉さんが俺の台詞をさえぎって食い気味に喋った。さっきとは打って変わって、意を決したように冷静な……それでいて教室に居る全員に聞こえる大きさの声だった。

 たしかに、俺は小学三年生の頃、担任の先生が好きだった。……それは事実だ。しかし、誰にも話したことはない。

「それをどこで……」

「まだまだあるぞ。中学の頃に一度だけカンニングしたことがある。昨日学校近くの自動販売機からいちごオレがなくなっててショックだった。昨日のおかずのウィンナーを一回床に落としたけど拾って食べた」

 泉さんが俺の情報を羅列られつする。それらは間違いなく俺自身しか知りえない情報ばかりだった。

「パソコンに『新しいフォルダ』って名前のフォルダがあるけどあれ実は」

「ストーップ!」

 それ以上はいけない。あわてて泉さんの口に手を当ててせいする。

「へへ……止めてくれて助かった。あれ以上は、俺自身にもダメージがあったからな……」

 どうやら、認めざるを得ないらしい。

 ……こいつは、俺だ。



・・・1・・・



 何故こうなったのか、どうすれば治るのか。二人で一時間いちじかん話合って出た答えは『なーんも分からん』だった。

「……だからって図書室なんか来るか?夏休みの自由じゆう研究けんきゅうじゃないんだぞ。普通先に病院とか行くだろ」

 俺と俺(二号にごう)は放課後ほうかごの図書室におとずれていた。二号が本棚の、精神とかについて関係する本をあさりながら答える。

「仕方ないだろ……こんなの絶対普通じゃない。病院なんかに行ったら余計にこじれる気がする。この体はいずれ泉さんに返すんだ。その時イカれた奴扱いされてたら可哀想かわいそうだろ」

「うーん、まぁ……そうか……?」

「ほら、分かったらお前もそれっぽい本を探してくれ」

 二号にせっつかれながら、本棚を眺めてみる。とはいえ、やはりどんな本を選べばいいか分からない。人格についてだけ考えるなら、心理学の本なんかが良さそうだが……俺しか知りえない記憶を保有ほゆうしているという不思議な状態も、心理学で説明できるのだろうか?

 二号はそんなこと気にしていないのか、目に付いた本をかたぱしから抱えている。……いや、同じ俺だ。気にしてはいるのだろうが、それでもこれしかないと必死にすがっているのだろう。

 俺も無関係ではないのだ(おそらく)。少し気合を入れて本を探すと、ほこりっぽい隅の本棚で、さおな背表紙の本が目に付いた。ハードカバーの、目がめるような青。奇妙な存在感を放っていた。

 タイトルは、『現代げんだい催眠学さいみんがく基礎論きそろん』。

「その本に興味があるの?」

 手に取ろうとすると、唐突とうとつに喋りかけられた。身をこわばらせながら振り向くと、そこには美女が居た。

 腰までかかった長い黒髪。天然てんねんの長いまつ毛。あでやかな唇。そのどれもが、整った美をたたえていた。

「私の名前は狐塚こづか透子とうこ。図書委員長なの」

「俺は……岩倉和真。えっと、ただの二年生です」

 名乗られたので、名乗なのり返す。透子さんが本棚の『現代催眠学基礎論』を指差した。

「そう、和真君。……その本、読むの?」

「あ、はい……」

「どうして?」

 透子さんが俺の顔をのぞむ。真実をそのまま伝えてよいものかどうか考えていると、二号がその場にやってきた。

「おい、こんな緊急きんきゅうに何他の女と喋ってるんだ」

「……君、名前は?緊急時って?良かったら、教えてくれないかしら」

 透子さんが二号に少し身を寄せる。二号は少し考えた後、問題ないと判断したのか事情をそのまま伝えた。

「この体は、浅田泉って女子の物なんだけど……今はなんでか俺、岩倉和真の精神が入ってる。けど、岩倉和真の体の方にも変わらず岩倉和真の精神が入ってる。この状態を解決する方法を探すために、二人で図書室に来たんだ」

 あらためて不思議な状態だなぁと思う。

 透子さんは事情を聴き終えると、あごに手を当て神妙しんみょうおもちになった。

「なるほど……おそらくそれは催眠術さいみんじゅつね」

「催眠術ぅ?」

 放たれたその言葉はどうにも胡散うさんくさかった。

「こいつは……浅田泉は、自分を岩倉和真だって思い込んでるってことか?でもこいつは、本物の岩倉和真じゃないと知りえない記憶を持ってる。催眠術じゃ説明がつかない」

「催眠術という物は、あなた達が思っているよりずっとふところが広いわ。やりようによっては、誰かの精神を記憶ごと丸々まるまる誰かにコピーする……そんな『人格じんかく上書うわがき』だって可能よ」

 透子さんの話を聞いて、二号が身を乗り出す。

「……くわしい話を聞かせて欲しい」

「お、おい。信じるのかよ。催眠術だぞ?催眠術」

「……しょうがないだろ。他に手掛てがかりがあるわけでもないし、別に聞くだけ聞いて、怪しかったら無視でいいじゃん」

 二号が透子さんを期待の眼差まなざしで見つめる。問題解決に躍起やっきになるあまり、冷静さをいているように思える。

「いやぁ……時間の無駄だと思うぞ?催眠術なんてあるわけないし……」

「あら。あなたも一度はこの本を手に取ろうとしたでしょう」

 透子さんが『現代催眠学基礎論』の背表紙を指でトントンと叩く。

「それは、そうだけど……」

「何だお前さっきから、否定ばっかりだな。実際にこんなことが起きてるんだから催眠術の一つや二つ、あっても不思議じゃないだろ」

 二号が手を広げて自分という不思議存在をアピールする。……そう言われても、やっぱり素直すなおには頷けない。

「……多分、君は二号君と違って実際に体験していないから、催眠術の存在を信じられないのね」

 透子さんが俺の前で指を立てる。

「なら、実際に体験してもらいましょう……『苛烈かれつ幻覚げんかく』」

 立てた指を下に振る。

 すると、図書室は燃え上がった。

「……えっ」

 本や棚を炭にしながら、れて燃えさかる炎が見える。

 木の繊維せんいを焼き割る、パチッという音が聞こえる。

 大量の紙片しへんを焼く、くさい匂いがする。

 呼吸に混じる、灰の味がする。

 肌をぐような、熱気がする。

 俺の五感全てが、図書室をおおう炎をとらえていた。

「うわあっ!?」

 たまらず倒れて手を床に着くと、手が焼ける感覚がした。

「うっ……ぐぅ……!」

「お、おい、どうしたんだよ」

 隣の火達磨ひだるまが何かうめきながら、こちらを向く。それが先ほどまで隣に立っていた二号だと気付くのに、すうしゅんかかった。

 炎は全てを飲み込んで、いきおいを増していく。机も本棚もめちゃくちゃになって、もうここが図書室だったかどうかも分からないほどだ。そして、その全てには俺も含まれている。手が燃える、足が燃える。眼球が燃える。指一本から臓器ぞうきに至るまで、燃えているのが分かった。

「あ……ああ……」

 視界が炎でいっぱいになる。まぶたは焼け落ちておろせない。上を向いているのか下を向いているのか分からなくなる。体がなくなる。燃えてなくなる。世界との分け目が燃えてなくなる。溶ける。俺が炎になる。なくなる、なくなる。燃えてなくなる。

「うわあああああっ!!」

 次の瞬間、図書室は元通りになっていて、透子さんの指は立っていた。ただ俺のおびただしい脂汗あぶらあせだけが、その場に更新こうしんされた。

 透子さんが立てた指を口元に持っていく。

「図書室ではお静かに」

 どうやら、認めざるを得ないらしい。

 ……催眠術は、ある。



・・・1・・・



 場所を移して、図書準備室。普段ふだん誰も立ち入らないそこには、本がなかった。元々本が収納しゅうのうされていたであろう本棚には、ティーセットやらスナックパンやら寝袋ねぶくろやら、生活感せいかつかんあふれる物が置いてあった。

「なんで寝袋……?」

「私、ここに住んでるの」

 透子さんは何でもないような声でそう言った。

「……は?いやなんで、っていうか無理でしょ」

 この図書準備室が使用率最下位の教室と言われても驚きはしないが、それでも使用する人間は確実に存在するだろうし、定期的ていきてきに見回り、点検てんけんも行われるはずだ。その中で誰にもバレずに生活を続けるなど不可能なはず。

「いいえできるわ。催眠術があれば」

 透子さんが指を右に左に振る。その一往ひとおうふくで本棚の生活用品がぎっしり詰まった本達に変わり、そして元に戻った。一瞬の出来事できごとだった。

「……聞きたいのはそれです。何なんですか、催眠術って」

 透子さんが俺達に向き直り、口を開いた。

「言語、あるいは五感にて把握はあくしうる情報とは、無限むげんひとしいと言えど全て画一的かくいつてきなパターンに変換へんかんすることができる。そして無限とはちり隙間すきまにも生まれる物であり、すなわち風にった塵の動きで宇宙を表現することもできる。それを潜在せんざい意識いしき反映はんえいすることでられる圧縮あっしゅく情報じょうほう、あるいは膨張ぼうちょう情報じょうほうを生じさせる物を超信号ちょうしんごうと呼ぶ。この本で扱う『催眠術』とは、超信号の意図的いとてきな発信と受信を目的とした技術なの」

 どうやら透子さんは説明があまり得意ではないらしい。

「……よく分かんなかったので、その本貸してください」

 透子さんが手に持つ『現代催眠学基礎論』を受け取り、開いてみると一ページ目にさっきと一言いちごん一句いっくたがわぬ文章が書かれていたので俺は読むのをやめた。

「言っておくけど、その本は時間をかければ読み解けるという物でもないわよ。一ページ目はまだ日本語として認識できるでしょうけど……催眠術師としての能力がなければ、ページが奥に行くにつれてどんどん認識できなくなる。そういう催眠術がかけられている本なの。私ですらまだ読破どくはできていない」

 その説明を聞いて余計によく分からなくなってくる。

「……結局、催眠術ってなんなんですか?」

「脳をなんやかんやする技術……今は、それくらいの解釈かいしゃくでいいわ」

 透子さんの理知的りちてき物言ものいいが急に馬鹿ばかっぽくなる。

「なんやかんや……」

 眼前でピンと指が立つ。さっきのトラウマがよみがえって、身構みがまえてしまう。これが振られる所を見ると、俺の脳はまたさっきと同じように業火ごうかさっかくしてしまうということか?

 ならば逆に言えば、振られる指さえ見なければ大丈夫なはず。俺はぎゅっと固く瞼を閉じた。暗闇くらやみの中で透子さんの声が届く。

「人間が情報を得るときに使う感覚は視覚だけではないわよ。聴覚、触覚……」

 そこまで聞こえた時点で、耳をふさいだ。

 だが、すぐにこれだけでは不十分ふじゅうぶんであろうことを察する。おそらく透子さんの台詞は、五感の羅列に続いたはずだ。嗅覚、味覚……。その思考がよぎった瞬間、口の中に指をまれた。

「ひっ……」

 反射的はんしゃてきに目を開いてしまう。けれど、透子さんも二号もその場から動いていなかった。口の中の感触も消えている。……あれも錯覚、だったのか。

「ま、また催眠術使ったな、透子さん」

「理解の手助てだすけのためよ……」

 そう言う透子さんの口元は少し笑っていた。俺はこの人が苦手かも知れない。

「まぁ、催眠術がどういう物かは分かっ……てないけど。それで、結局この状況は何が原因で、どうすれば元に戻るんですか?」

「原因は……十中八九じっちゅうはっく、他の術師じゅつしからの攻撃。でしょうね」

「攻撃……」

 さっきの幻覚はまだいたずらに収まるレベルだけど、もしこんな力を誰かが悪意を持って使ったら。そう考えると、体がふるえる。

「大丈夫よ。私ぐらいの術師はそうそう居ないから……とはいえ、和真君の人生十七年分の情報を取得しゅとくしてコピー。そして浅田泉さんの精神に丸々上書き……これを誰にも気づかれず行えたのなら、かじった程度の術師ではないでしょうけどね」

 透子さんが催眠学の本を眺める。

「……そんな嫌がらせを受ける覚えはないんですけど」

「じゃあ和真君じゃなくて泉さんがターゲットだったのかもね。彼女の精神を抹消まっしょうしたい人間が居たのかも」

「だとしたら、俺の精神に上書きする意味は……」

「さぁ?一番コピーしやすかったとか。何にせよ、君のことをジロジロ見てた人間が居るはずなんだけど……心当たりはない?」

 一瞬、泉さんの視線が脳裏のうりをよぎる。

「ない……です」

 何故か、咄嗟とっさに嘘をついてしまった。

「その、俺達に攻撃した術師を見つけて、術を解かせればいいんですか?」

「それでも良かったけど、犯人が分からないんじゃ無理ね。そもそも素直に解いてくれるとも限らないし、下手な接触せっしょくは危険だわ。別の作戦で行きましょう」

「別の作戦?」

 透子さんがびしっと、俺の顔を指差す。

「和真君。君には催眠術師さいみんじゅつしになってもらいます」



・・・1・・・



 それから一週間。俺と二号は図書準備室に通い詰めた。

「……来たわね。それじゃ、今日の特訓とっくんを始めましょう」

 向かい合った椅子に、二号と一緒に座る。そして、二号の目を見つめる。透子さんが持つタイマーの、機械的きかいてき号砲ごうほうがなる。

「スタート」


 目の前には二号が居る。こいつは今、思考している。他人の脳を借りて電気でんき信号しんごうを走らせている。それをなくせば、泉さんの精神は復活する。俺はそれをしなくてはならない。泉さんの体から、こいつの精神を取り出すイメージ。俺がこいつの手に触れば、それは具現化ぐげんかする。俺にならできる。

 俺にならできる。俺にならできる。俺にならできる。


 上記の思考をたっぷり十五分間続けた後、ようやくタイマー停止ていしの音が鳴る。

「……終了。今日の特訓はここまでよ」

 二号と二人で大きく息を吐く。思考を強制された俺はもちろん、ずっと見つめ続けられていた二号もそれなりに疲れるらしい。

「……透子さん。本当にこんなので催眠術を覚えられるんですか?」

 俺は今、とある催眠術を覚えるための特訓をしている。催眠術を解除かいじょする催眠術。その名も『解除術かいじょじゅつ』。

「例えば異国の言語を覚える時、『いつか喋れるようになる』というイメージがあるかないかで習得しゅうとく速度そくどは大きく変わる。催眠術も同じよ。催眠術の習得に必要なのは、強い目的もくてき意識いしきと『可能である』という確固かっこたるイメージ。この二つさえそろえば、どんな催眠術だって習得できる」

 そんな風に言われても、俺はただ毎日十五分間、二号を見つめながらうんうん考え込んでいるだけだ。本当にこんなことでいいのか不安にもなる。

「その不安が、習得をさまたげているのよ。もっと自信にあふれなさい。絶対にできると強く信じるのよ。成功した後のことを明確にイメージするの」

「胡散臭い……」

 二号がもどかしそうに透子さんの顔を見る。

「えっと……強い目的意識っていうのは、ようは『やらなきゃ』って気持ちですよね。その気持ちなら、実害じつがいが出てる俺の方が強いと思うんですけど……俺が催眠術覚えるんじゃ駄目なんですか?」

 透子さんは目を伏せて首を横に振った。

「……ダメよ。君が覚えるより、一号君が覚えた方が効率的だから」

「……いや、透子さんが解除術をやってくれるのが一番効率的なんじゃ?」

「私は解除術を習得していないし、これから習得することも不可能なの。催眠術は一つ覚えるごとに脳の容量ようりょうを大きく喰らう。私の頭はこの『苛烈幻覚』だけでいっぱいいっぱいなのよ」

 透子さんがピンと指をはじく。それを見ただけで何故かひたいに痛みが走る。

「いったぁ……またかけましたね、催眠術」

 うらめしい視線を向けても、当の本人はけろりすずしい顔をしている。

「催眠術が可能と信じるには、催眠術が存在することをもっと自然しぜんに理解しなければならない。そのためにこれからもちょくちょく軽めの奴かけるから。そのつもりで」

 透子さんがもっともらしいことを言う。

「……とにかく。全部お前の頑張がんばりにかかってるってことだな。……特訓ならいくらでも付き合うから、早いとこ習得してくれよ」

 二号はそう言って席を立った。何かあせっているように見える。



・・・2・・・



 俺が泉さんの体を間借まがりしてから、八日目の朝。俺は変わらず彼女の部屋で目を覚ました。

 本当は、事が解決するまで自分の家で寝泊ねとまりしたい所だけど……知らぬ間に同級生男子の部屋に連日れんじつ寝泊まりしていた。なんてことがあれば泉さんはきっとこころよく思わないはずだ。

 それに、家族や友達に対する上手うまい言い訳も思いつかない。結局、俺が泉さんらしく振舞ふるまうのが一番混乱いちばんこんらんが少なく済むだろう。という結論で落ち着いた(知らぬ間に同級生男子の精神に間借りされているというのも十分不快だろうけど)。

 こうして、俺は浅田泉にりきって生活しているのだが……これが中々にストレスの溜まること。

 例えば、着替きがえ。

 女子の体に入って着替えなんぞ役得やくとくではないかと、俺も最初は思っていたが、いざそのあられもない肢体したいながめてみると、罪悪感ざいあくかん違和感いわかんの方が勝って、素直にそういう気持ちにはなれない。そういう気持ちになったらなったではげしい自己じこ嫌悪けんおさいなまれる。これは俺が自分で思うより堅物かたぶつ小心者しょうしんものだったのか、それとも誰でもこうなるのか。分からないがどちらにせよストレス。

 そして、泉さんの家族と交流こうりゅうするのも気をつかう。

「あ、お姉ちゃんおはよう」

「泉、おはよう」

「うん……おはよう」

 おはよう。この言葉は、俺に向けられた物じゃない。この体の持ち主、浅田泉さんに向けられた言葉。その言葉を聞くたびに、自分が場違ばちがいであることを確認する。他人の人生をわりに送るというのは、どうにも気持ち悪くて落ち着かない。

 あたたかな家族に優しい感情を向けられる度に、俺はひどむなしくなる。その感情の受け取り手はここには居ない。ただただ浪費ろうひされているのだと思うと、早くこの体を泉さんに返さなくてはという思いにられる。泉さんの家族と、泉さん本人のために。

 また、朝食などの家族かぞく団欒だんらんの時間は特に気を遣う。教室内での泉さんの振舞い。どんな時に、どんなことを、どんな顔で話していたか。必死に思い出しながら会話を進める。さいわい泉さんは元々もともと口下手くちべたな方らしく、たどたどしいしゃべりでも今のところ怪しまれてはいない。が、それもいつ限界がくるか分からない。

「ご、ごちそうさま。美味おいしかった……」

 朝食を終え、そう言って席を立とうとすると、泉さんのお母さんが少しおどろいたような顔をしていた。

「……泉がご飯の感想言ってくれるなんてめずらしいねぇ」

 やってしまった。これ以上ボロを出さないよう早めに切り上げねば。

「い、いってきますっ」

 毎朝、こんな風に逃げるように家を出る。

「はぁ……」

 家から離れ、一息つく。逃げ出した先の通学は、睡眠すいみんと同じくらいこころやすまる時間だ。この道を一人で歩いている時だけは、浅田泉であることを強制されない。

 けれど通学はすぐに終わり、俺は次に教室の扉を開けることになる。ここではもちろん浅田泉をえんじなければならない。

 扉を開くと、さきに一号と目が合った。しかし、別段べつだん話すこともないので怪しまれない内に軽い会釈えしゃくだけませて自分の席に着く。仕方がないとはいえ、あいつはいつも通り気楽きらくに自分の人生をあゆんでいるのが少し腹立はらだたしい。

「……ね、泉。今和真君の方見てなかった?」

 隣の席の女子生徒が話しかけて来る。彼女の名前は横江よこえ美和みわ。どうやら泉さんの一番の友達……らしい。

 それが今では、俺が学校で泉さんを演じるにあたって最も多く、そして上手くあざむかねばならない障壁しょうへきの一つだ。

「何かあったの?」

「……う、ううん。たまたま目が合ったから、会釈ぐらいしないと不自然ふしぜんかな~って、そう思った……だけ」

 美和さんが俺を見つめる。まずい、何かボロを出したか。額から嫌な汗がにじむのを感じる。

 美和さんが口を開く。

「……そっかー。最近よく和真君の方見てるし、泉にもようやく春が来たかなって思ったのに」

「あ、あはは……」

 ……どうやらセーフだったらしい。滲んだ汗をぬぐいながら安堵あんどの息を吐く。彼女との会話、万事ばんじが万事こんな調子だ。寿命じゅみょうが減る。

 もう嫌だ。もう一号が解除術を習得するのなんか待ってられない。透子さんは『下手な接触は危険』と言っていたが……もうこれ以上、勝手に泉さんの寿命を縮めるわけにはいかない。

 探してみるか……泉さんに『人格上書き』をほどこした催眠術師、犯人を。

 まず、泉さんはいつ催眠術にかかったのか?俺が二号としての記憶があるのは八日前の朝から。つまり、泉さんが術にかかったのは九日前の就寝中しゅうしんちゅう。あるいはその直前であると推理すいりできる。

 泉さんのプライバシーを侵害しんがいするようで気が引けていたがスマホの使用を解禁かいきんする。SNS系統けいとうのアプリを立ち上げ、九日前、泉さんが最後に何をしていたか探る。そして出てきた最新の記録は……九日前の零時前後、横江美和との数十分の通話だった。

 隣の席に視線を送る。

「ん?どうかした?」

 この情報だけで考えれば、彼女が最もうたがわしい。もし犯人ではなかったとしても、何かの手掛かりは得られそうだ。俺は意を決して彼女に話しかけた。

「ね、ねぇ……美和ちゃん」

「うん」

「九日前の夜……通話したよね。えっと、私達は何を……話してたん、だっけ」

「あぁ、催眠術の話でしょ?」

 催眠術。核心かくしんに迫るそのワードは、驚くほどあっさりと彼女の口から出た。やっぱり、美和さんが犯人だということか。

 俺の推理をよそに、美和さんはこう続けた。

「驚いたなぁ、泉が夜中に『催眠術について教えてほしい』なんて言ってくるんだからさ」

「……え?」

 泉さんから催眠術の話を出したのか……?

「ついに泉もオカルトに興味持ってくれたのかと思うと、嬉しかったねー私は!そういえば……心なしか泉、変わったよね。あの日から……もしかして、本当に自己じこ暗示あんじ成功しちゃった?」

「えぇっ!?そ、そんなわけないでしょ……?」

「本当にー?何か喋り方とか、雰囲気ふんいきとかさー。違くない?」

 美和さんが試すようなひとみでこちらを見つめる。

「ち、違くないってばー……あはは……」

 自己暗示?一体どういう内容の話をしたのか、もっとさぐりたい所だが……少し怪しまれてきている。これ以上はまずいか。

 はぐらかすように笑うと、美和さんはそれ以上に追求ついきゅうしてくることはなかった。

「ふーん……ま、どっちでもいいけどね。私は今の泉も好きだし」

「えっ?」

 今の泉さん……とは、俺のことなのだが。

「どうして?」

「どうして、って……普通に?」

 美和さんはなんともなしにそう言った。俺は、岩倉和真であることを許されたような気がした。

 心休まる時間が、一つ増えた。



・・・1・・・



 図書準備室でタイマー停止の音がなる。特訓を始めて二週間。これで十四回目だ。

 そんなどうでもいいことを考えてしまうくらい、俺の頭は集中できていなかった。

「一号君……集中できてなかったでしょ」

 それは、透子さんにも見抜かれてしまっていた。

「はい……」

「焦りやら疲れやらあるのでしょうけど、この精神集中は催眠術においてかなり重要なの。あんまり連続でやっても逆効果ぎゃくこうかだから、今日はこれ以上やらないけど……明日はもっと集中してね」

 しかられてしまった。とある日を境に、俺の解除術の習得はとどこおっている。こんな調子じゃ二号にもにらまれてしまうな……と考え、二号の方を見てみると、暢気のんきな顔で図書室の本を漁っていた。以前漁った心理学等の本棚ではない。普通の小説コーナーだ。

「その本……借りるのか?」

「あぁ。折角せっかく図書室にかよってるんだ。利用しないと損だろ」

 ……ちなみに『俺』は、そんなに小説を読む方ではない。嫌いというわけでもないが、精々せいぜい半年に一冊に読むか読まないかといった程度の物だ。その内、読むジャンルは固定されていて、ほとんどが推理小説だ。

 しかし今、二号が抱えている本は二、三冊。全て恋愛物だった。

「……なんでその本を選んだんだ?」

「この前、友達の美和さんが恋愛物を勧めてきてさ。読んでみたら面白かったから、他のにも興味が出て来た」

 ……何で今、『友達の美和さん』の前に『泉さんの』を付けなかった?

「何か……同じ俺じゃないみたいだ」

「そうか?趣味が少し変わったくらいで、大袈裟おおげさだろ」

 二号がしの手続てつづきを済ませていく。この前のような焦りの表情は見られなかった。

駄目だめか?」

 カウンターの上に本を積んで、二号が俺に問いかける。

「俺が俺の意思で本を借りちゃ、駄目か」

「……なんて、答えて欲しいんだ?」

 質問に質問で返す。お互い答えず、沈黙ちんもくが流れる。

「すいませーん、泉居ますかー?」

 唐突に図書準備室の扉が開き、女子生徒がひょっこりと顔をのぞかせる。一瞬、冷や汗が出る。この特訓は他の人間には秘密だからだ。しかし、冷や汗をかいたのは俺だけだったらしい。

「あっ、美和ちゃん」

「泉居た。ここに居るって聞いたんだけど、何してたの?」

「透子先輩に、図書委員の話聴いてたの。丁度終わったし、一緒に帰ろ」

 二号は、自然に美和さんと話していた。それは泉さんとして振舞うことにった証なのか、もっと別の理由があるのか。俺には分からない。

 ただ一つ確かなことは、二号があんな楽しそうな顔を見せるのは美和さんの前だけだということだ。

 二人が、さっき借りた本を手に取ってかたらい合いながら帰っていく。

 透子さんから聞いたアドバイスを思い出す。『成功した後のことを明確にイメージする』……。

 俺が解除術を成功させれば、取り戻せる物がある。その一方で、失われる物がある。

 一度失われれば、『俺』では二度と取り戻せない物。



・・・2・・・



 帰り道。夕焼けが、世界をオレンジにめる。ずっとこの時間が続いて欲しいと願うほど、美しい光景こうけいの中に二人でむ。

 美和さんと一緒に下校する。一日の中で、一番楽しい時間だ。

「そこでさぁ、主人公が泣くじゃん?もう私すっごい感情かんじょう移入いにゅうしてたから、一緒に泣いちゃってさぁー」

「分かる。それ私もー」

 思ったままに、勧められた本の感想や、生活のことについて話す。泉さんなら、こんな時どんなことを話すだろうかとか一切気を遣わずに、ただじゅんに。俺、岩倉和真として思ったことを喋る。

 それでも美和さんは何も怪しまない。何も探らない。変化に気づいていないわけではないだろう。ただ、俺のことを受け入れてくれているのだ。そのことが、この上なく嬉しかった。

 家族も、学校も、もう一人の俺でさえ、俺が浅田泉であることを求める。彼女だけだ。世界で彼女だけは、俺が岩倉和真であることを許してくれる。彼女の側は、心地ここちいい。

「それじゃあ、また明日ね」

 でも、そういう時間ほどすぐ過ぎる。いつの間にか俺は浅田家の前に立っていて、美和さんは手を振って俺の側から立ち去ろうとしていた。

 ……嫌だ。こんな窮屈きゅうくつな家、帰りたくない。彼女のそばに居たい。ずっとこの時間が続いてほしい。

「待って」

 そう手を伸ばすと、彼女は容易たやすく振り向いた。

「今日……美和ちゃんの家、とまっても、いい?」

 彼女は、まるで俺がそう言うのを分かっていたような笑みを浮かべた。

「いいよ。おいで……もっと、二人で居ようね」



・・・2・・・



 美和さんと共に過ごす一日は、本当に幸せだった。美和さんと一緒にご飯を食べて、テレビを見て、風呂に入って……。

浅田泉として生きてきたこの二週間はもちろん、岩倉和真として生きてきた中でも一番幸せな時間だった。

 美和さんが部屋の扉を開ける。

「ごめんね……私の部屋へやせまいから、布団ふとんく所がなくってさ。二人で一つのベッド使うことになるんだけど……いい?」

「う、うん……」

 俺は一応、中身は男なんだけど……まぁ、いいか。そういうことするわけじゃないし。

 そう思ってベッドに腰掛こしかけようとした時、携帯が鳴った。『お母さん』から着信が来ている。そういえば泊る連絡を忘れていた。

「後でいいんじゃない?」

 美和さんはそう言ったけれど、流石さすがに無視するのは浅田泉としてまずいだろうと思い、着信に出た。

『泉、あなた今ど……お姉ちゃん、今どこ?』

 通話の声が途中とちゅうで母から妹の物に変わる。

「えっと……友達の、美和ちゃんのお家。今日、泊らせてもらうことにしたの」

『帰ってこないの?……なんで?なんで何も言ってくれなかったの?』

「ご、ごめんね?忘れてて……」

 精一杯せいいっぱいもうわけなさそうな声を出す。しかし、この二週間の違和感がつのりきったのか、妹は私に問いかけた。

『なんか、最近のお姉ちゃん変だよ……本当に私のお姉ちゃん?』

「……」

 肯定こうていして、上げられなかった。

『ねぇ、私の誕生日、覚えてる?』

「……ごめん。忘れちゃった」

『……今日、だよ!』

 小さなスピーカーから、世界をかき回すような泣き声が聞こえた。その切れ間に、妹をなぐさめる母の声が聞こえた。

 怖くなった。妹の泣き声をどれだけ聞いても、『俺』は何も感じないのだ。こんな自分が、平然へいぜんと浅田泉をかたっているのが、怖かった。



・・・2・・・



 図書準備室で『現代催眠学基礎論』を読む。一人きりでページをめくっていた所に、透子さんがやってきた。

「あら、今日は早いのね。でも、一号君は一緒じゃ……」

「透子さん。何で俺じゃなくて一号に解除術を覚えさせたんですか」

 室内を見回すのをやめて、透子さんが俺の手元を見た。

「……読めたのね。そのページが」

「実際に催眠術を喰らって……それが一か月も続いてるからですかね。俺も大分だいぶ、術師の才能が開いてきてるみたいです。基礎の基礎くらいは読めるようになりましたよ」

 ページをめくる。

「『自分にかける催眠術……自己暗示は、一人で完結しているものだから他の術と比べて習得、開発しやすい』……そうですよね?」

「……ええ、その通りよ」

「じゃあ、なんで俺に解除術を教えなかったんですか」

 透子さんが身構える。

「それは……」

「……いや、やっぱいいです」

 聞かずとも分かっている。俺では、『やらなきゃ』という気持ちになれない。それが、俺が解除術を習得できない理由だ。

「それでも……覚悟は、できてますから」

「そう……ごめんね」

 透子さんはそう言って、少しさびしそうな顔をした。ほんの少しでも寂しさを感じてくれたことが、俺には嬉しかった。

 そこで再度、図書準備室の扉が開く。そこに立っていたのは、一号だった。

「……さぁ、始めましょうか」



・・・1・・・



 図書準備室の扉を開く。そこに居たのは透子さんと、二号だった。

 あれから更に二週間……事件の始まりから合計約一か月。昨日、俺の解除術はついに実用可能に至った。至ってしまった。

 そしてその昨日から更に一晩ひとばんて、気力十分な今日。ついに解除術を二号に使用する段取だんどりになっている。

「さぁ……始めましょうか」

 透子さんが二号の向かいに椅子を引く。そこに座って、二号と向かい合う。

 これから行うことはいつもの特訓と同じだ。精神を集中させて、術を成功させるイメージをする……けれど、いつもと違う所がある。

 これが終わったら、二号は……。

「なぁ、やっぱりやめないか」

「何言ってんの?」

 長い沈黙が流れる。

「……だって!今、泉さんにかかってる『人格上書き』を解いたら……お前の精神が消えちゃうだろ……?」

「……何言ってんの?」

 帰ってきたのは同じ台詞だった。

「お前は!もう俺じゃない……一か月も別の人生を過ごして、価値観かちかんとか好みとかがズレてきてる……お前はもう、別の個人の精神なんだ……それを全部消すっていうのはもう、人殺しと一緒だろ……?そんなの、俺にはできない」

 俺がそう言っても、二号は涼しい顔をくずさない。

「……そんな気負きおう物じゃないって。元々存在しないはずの精神なんだ。ニキビつぶすぐらいの感覚で気軽にやれよ。それに、俺が乗っ取ったままじゃ困る奴も居るだろ」

 二号が自分の、あるいは泉さんの手のひらを見つめながらそう言った。

「違う。泉さんは困らない。お前は気付いてないかも知れないけど……多分、この『人格上書き』を発動したのは泉さん自身なんだ。ほら、最近泉さんによく見られてただろ?きっと、あの時に俺の情報を読み取ってたんだ。だから……」

「いや、気付いてたよ……薄々うすうす。それでも、今の俺に居場所がないのは確かだ」

「居場所ならあるだろ!美和さんとあんなに、楽しそうにしてた!」

「……それでも!俺を拒絶きょぜつする人間が居る!浅田泉を望む人間が居る!」

 二号がうつむきながら、声を張り上げる。いつも静かな図書準備室の静寂が、破られた。

「俺は、ここに居ちゃいけないんだよ……」

「……お前が何と言おうと、俺はやらないぞ。解除術なんて……どうしても死にたいんなら、自分で解除しろ」

「……っ、できるわけないだろ……」

 二号の顔が、崩れる。

「俺だってっ、死にたくない……!」

 そこで再度、図書準備室の扉が開く。そこに立っていたのは、横江美和だった。

「んー?まだお話中?」

 二号が声をふるわせながら、扉の方へ向き直る。

「美和、ちゃん……」

「泉、早く一緒にかーえろ」

 美和さんはそう言って泉さんを、あるいは二号を抱きしめようとした。そうだ。今のこいつを求めてくれる人間はちゃんと……。

「待ちなさい。横江美和」

 その前に、透子さんが口を開いた。

「……何ですか?えっと、狐塚先輩」

「あなた。何でここに入ってこれたの?この本と同じ形式の、軽い結界けっかいを張っておいたのだけど……」

 透子さんが『現代催眠学基礎論』の背表紙を指でトントンと叩く。

「結……界?すいません。何の話ですか?」

 美和さんは何かの冗談だと思っているようだ。

「……あなたをためすわ。たまたま才能があってここに来れたのか、それとも能力ある催眠術師なのか……」

 透子さんが『現代催眠学基礎論』の中盤ちゅうばんを開いて、ページを破った。紙のける音が反響はんきょうする。そしてそれを美和さんに突き出した。

「これ、読める?」

 美和さんはそれをしばらく見つめた。その後、こてんと首をかしげた。

「いやぁ、読めないです。何ですかこれ?」

「……ダウト」

 突き出された紙が、ふっと消えた。

「……!?」

「さっきの紙は何の変哲もないただの幻覚よ。うつした内容も普通の日本語。なのにあなたは読めないフリをした……あなた、この本が何か知ってるわね?……改めて、質問に答えてもらうわ。横江美和。返答によっては、地獄を見てもらう」

「み、美和さん……?」

 透子さんがするどい目で、二号が困惑こんわくした目で美和さんを見つめる。

「……いやぁ~。折角上手くやってきたのに、ここでバレちゃうかぁ……」

 美和さんがそう答えた瞬間、彼女の腕が一瞬燃えた。透子さんはただ指を振っただけ。すでにこの図書準備室が、透子さんの手のひらの上である証拠だった。

「……ここからは、気を付けて喋ることね」

「……!私に自由はないってわけ……怖いなぁ~、『苛烈幻覚』の狐塚透子!」

 燃やされた腕を押さえ、冷や汗をかきながらも美和さんが透子さんを睨み返す。透子さんはそんな視線をにもかいさず淡々たんたんと喋った。

「質問。あなたの催眠術は何?」

「くだらない質問。確かめるまでもないでしょ?『人格上書き』。効果は見ての通り」

 美和さんは、二号を指差してそう言った。

「そんな……『人格上書き』は泉さんが自分で……」

「楽観視しすぎ。まぁそうさせるようにしたの私なんだけど……あの電話の話は全部嘘うそっぱち。『人格上書き』をやったのは私。私が泉の人格を和真君の人格に上書きしたの」

「……どうして、そんなこと!」

 二号が椅子を蹴飛けとばして立ち上がり、美和さんに向かって吠える。そのまなじりにはうっすら涙さえ浮かんでいた。

「……和真君。私ね、和真君のことが大好き。大大大好きなの!」

「はぁ……!?」

 美和さんがこちらを見る。その瞳は焦点しょうてんが合っていなくて、俺を見ているのか二号を見ているのか分からなかった。もしくは、俺達のことなんか見ていなかったのかも知れない。

「ず~……っと片想いしてたんだけどね?友達が急に『和真君のことが気になるの』なんてムカつくこと言い出しちゃってさぁ?どうしよう。泉のことは嫌いたくないし、和真君も取られたくない……いっぱい悩んだ。悩んで悩んで悩んで……ひらめいたの!そうだ。『泉を和真君にしちゃえばいいんだ』って」

「な、なんだよ、それ……まともじゃないよ、美和さん……」

「まともじゃない?こんな私は嫌い~?……じゃあ、忘れちゃおっか」

 美和さんが俺達の前で指を構える。

「狐塚透子……!私のこと、追い詰めたと思った?残念、術の仕込しこみは今終わった!和真君達の時間じかんかせぎのおかげでね!……あんたのことも気に入らなかったんだぁ……。混乱こんらんしてる二人に『何をすればいいのか』教えるのは私のポジションだったのにさぁ……!あんたも、私のこと嫌いになっちゃった和真君も!全員一か月前の和真君に『上書き』してあげる!」

「ちょ、ちょっと待ってくれ……美和さん、君が好きなのはどっちなんだっ、一号のこいつか!二号の俺か!」

 二号が縋るような瞳で叫ぶ。その叫びに対して、美和さんはきょとんとした顔で答えた。

「え?どっちも同じ和真君なんだから、どっちもに決まってるじゃん……っていうかその質問要る?どうせ今から全部同じに戻すんだし」

 その答えは、この一か月間の否定だった。二号が、ひざをつく。

「そんな……」

「さぁっ!皆行くよ!この一か月の記憶は無くして、今度は四人で仲良くしよ……」

 美和さんが指を鳴らそうとした瞬間、彼女の手首から先が消し飛んだ。床から生えた太く長く鋭い針に、鮮血せんけつが流れる。

「え……」

 その針が更に十本、二十本、百本と生える。

「あっ、う、うあっ」

 彼女は新しい針が体に刺さる度に体を震わせ、短い悲鳴をつらねる。最後の一本は悲鳴を遮るように口内をえぐった。体中から血を流し、針に浮く姿。不気味ぶきみなオブジェの完成と共に、一瞬の沈黙が流れた。

 その静寂を破るように透子さんが指を鳴らす。そうして幻覚を解く頃には、既に彼女の意識はなかった。現実にもどされた彼女の体は倒れ、図書準備室の埃を舞い上がらせた。

「……こっちの処理しょりは終わったわ」

 その言葉には、言外に『次はそっちだ』という意味が込められていた。

「一号……『人格上書き』を解いてくれ」

 二号は体を起こしながら、椅子に座り直した。

「い、嫌だ。そんなことしたら、お前は……」

「お願いだから!……俺の居場所なんか、本当にこれっぽっちもなかった……もうこれ以上、俺に、産まれてきたことを後悔こうかいさせないでくれ……」

 床に二号の涙がぽたぽたと滲む。俺は、彼ののぞとおりにしてやるしかなかった。二号の手のひらに手を伸ばす。


 目の前には二号が居る。こいつは今、思考している。他人の脳を借りて電気信号を走らせている。それをなくせば、泉さんの精神は復活する。俺はそれをしなくてはならない。泉さんの体から、こいつの精神を取り出すイメージ。俺がこいつの手に触れば、それは具現化する。



・・・・・・



 今回の事件を思い返す。

 次の日から、元に戻った浅田泉さんは俺の方を全く見なくなった。おそらく、かかわりたくない、といった心理だろう。納得しかない。

 そんなこんなで、俺は今回の事件で片想かたおもびとおよびプチモテ期を失った。

 それにえ手に入れたのはやり場のない罪悪感と、気持ちばかりの解除術と、怖い師匠ししょうだけだった。

「いやなんでおれ弟子でしになってるんですか……?」

「……本当はね。あなたが解除術を実用可能レベルで習得するのは一年後だと思ってたわ」

「一年!?」

「でもあなたは一か月でそれを習得した……要は才能あるのよ、あなた。才ある者はそれを世のために行使こうしすべし。その能力をきたえて、私と一緒に困っている人を助けましょう。拒否するなら了承りょうしょうするまで地獄を見てもらうわ。和真君」

 透子さんが俺の前で指を立てる。

「……透子さんに和真君って呼ばれるの、新鮮ですね」

「……そうね。この一か月、最初以外はずっと、一号君。だったものね……でも今は、和真君。そうでしょう?」

 今回の事件を思い返す。

 正直……俺もこれ以上、催眠術などには関わりたくないのだが……もし、まだまだ横江美和のような悪い催眠術師が居て、そのせいで二号のような存在が生まれるのなら。

「……分かりました。俺も守ります、この町の平和……約束します。もうこれ以上、二号のような存在を生ませない」

「そう。これからよろしくね」

 そう言って透子さんは俺の尻を燃やした。

「分かりましたって言ってるのに!」

「術師として鍛えるにあたって、これからもちょくちょく軽めの奴かけるって言ったでしょう」

「じゃあどっちにしろ燃やすつもりだったんじゃないですか!」

 ひりひりする尻をさする。こんないたずらを日に何回されるようになるのかと思うと、早速さっそく気が思いやられた。

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