第24話


 雨は全てを洗い流してくれる。

 足跡も、足音も、呼吸すらも——。




 雨に混じり、遠くから聞こえる蹄の音に芙蓉は顔を持ち上げた。


 ——馬、か?


 夜明けが近づき、白んだ空のお陰で足元の確認がしやすいためかそれは軽快な足音をあげ、一直線にこちらに向かっている。隠れる素振りは一切ない。何かに追われているような足音だ。


「誰かくる」


 小さく呟けばジュダルとウィルドが顔を上げた。


「どこ?」

「あっちだ」


 音のする方向を指さした。


「恐らく、馬の蹄だ。音からして馬は一頭。この速さなら騎手は一人。こっちの方向に向かっている」

「……早すぎるな」


 ジュダルが「移動しよう」と立ち上がるのと同時に水が張った桶を反対にしたような豪雨の奥から灰色の影が走ってきた。

 芦毛あしげの馬にまたがるのはひょろりとした印象を与える痩せこけた男だ。腕や首、顔などに無数の刀傷や火傷を負っている。纏う衣装は獣の毛皮を縫い合わせたようなちぐはぐな代物。風体からして奏兵にも清兵でもなさそうだ。

 怪しい男の登場に芙蓉は震える月娟を抱きしめた。

 男は芙蓉達を一瞥すると肩で大きく息をしながら馬上からするりと降りるとジュダルの前で跪く。


「はっ、……はあ、……す、みません……」


 荒れた呼吸の合間合間、男は喋り始める。

 芙蓉は驚き、


 ——なんて無茶をするんだ。


 男を寄越したであろう琰慈の考えを悟った。

 男は天幕を襲撃した夜、ザンバラ髪とともに逃げた公主を探しにきた蛇男だ。どうやって琰慈が懐柔したのか不明だが、恐らく山賊の根城を襲撃した際に接触したのだと考えられる。


「琰慈、と名乗る男に……根城を、……はあ、潰されました……」

「君はたんだったよね」

「はい、覚えていて、くれたんですね」

「……あの男は根城を潰し、俺を探している。君はあの男から逃げるためにここまできた」


 男——丹は深く頷いた。


「どうやってここが分かった?」

「最初は逃げつつ手探りで探し回っていました。ジュダル様が以前、清国が増援を派遣したと言っていたのを思い出し、奴らを警戒するならこの道を通ると考えました」


 薬の知識に長けてはいても砂漠の国出身のジュダルは山に詳しくはない。そこを突いたのだと丹は言った。


「君一人?」

「仲間は奴らに……」


 当時のことを思い出したのか丹は震える声を絞りだした。


「奴らは強すぎます。俺達では勝てません」

「だろうね」


 淡々としたやり取りを見守りつつ、芙蓉は周囲の音に耳を澄ました。木の影に数人……五、六人が潜んでいる。奏兵か清兵かは判断はできないが装備が奏でる小さな金属音と極限にまで抑えられた呼吸音から味方だと判断する。


「どうか、力を貸してください! 敵討ちを!」

「貸さない」

「な、なぜ!?」

「君達はもういらないんだ」


 冷たくそう告げるとウィルドの名を呼ぶ。

 ウィルドは剣を抜くと狙い振りかぶる。狙いは丹の首筋だ。


「待て!」

「止めて!」


 振り下ろされた切先が頚動脈を断裂させることはなかった。

 芙蓉と月娟の叫びにウィルドは手を止め、主人の意見を伺うような視線を送る。


「月娟、これはね仕方のないことなんだよ」

「だからって殺すことはないわ」

「いや、えっと、そうなんだけど……」


 月娟は丹を庇うように前に進み出た。その後を芙蓉は月娟の頭上に皮革を広げながら追従する。皮革のおかげで月娟の上半身は無事だが、跳ねた雨水のせいで裾は濡れていた。月娟の体調を慮った芙蓉は「元の場所に戻りましょう」と声をかけようと口を開く。が、すぐに口を閉ざした。


 ——声をかけるのは無理だな。


 真っ直ぐジュダルを睨みつける月娟に、かつての脆弱な公主の面影はない。元々曲がったことは大嫌いな人だったがこの清国への旅路のおかげか、野蛮王の伴侶になることの覚悟かは分からないが強くなった。


 ——やはり、貴女は素晴らしい人だ。


 目尻を下げると芙蓉は月娟の手を優しく包み込んだ。恐怖に手は震えていたが芙蓉と触れると安心したらしく、震えはやがて収まった。


「彼も連れて行きましょう」

「しかし……」

「貴方は利用するだけして、放っておくの?!」


 激しい非難の声に、ジュダルは意気消沈した様子で「分かった」と頷いた。


「なら、すぐ移動しようか。こいつのせいでこの場所はすぐ知られるだろうし」


 踵を返したジュダルはウィルドに出立の準備を命じた。

 その時、芙蓉と月娟の隣を灰色の影が素早く通り過ぎた。


「お前が死ねッ!」


 丹は隠し持っていた短刀で迷わずジュダルの背を刺した。

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