第14話


 大粒の雨は次第に小さくなり、一面が深い霧に覆われ始めた。


 冷たい風が濡れた体を包み込む。それに体温が奪われ始めると左肩がじくじくと痛み始めた。喉に迫り上がる異物感と額に鈍痛が走る。体は芯から冷えていくのに頭は熱が籠り始めた。

 それが矢傷によりもたらされたものだと理解しながら、芙蓉は前を行くジュダルを追いかける。

 濃さを増す霧はいっこうに晴れる気配はない。彼を見失えば月娟の元には辿り着けないだろう。そう思い、不調を訴える体に鞭を打つ。


 ——我慢しろ。耐えるんだ。


 内心、己を叱咤する。

 昔から我慢は得意だ。「暇だから鍛えてやるよ」と暇を持て余した兄達の立ち代わり休憩無しの稽古でも文句はいいつつ最後までやり遂げた。生傷が絶えないお転婆な芙蓉を心配した母による、刺繍と縫い物の特訓でも長時間、長椅子に座りながら耐え忍んだ。


 それに比べればこの様な傷など堪え忍べる。


 不調に顔を歪め、気をそらそうと別の事を考える芙蓉にジュダルは不意に話しかけてきた。


「芙蓉は月娟と仲がいいの?」


 そうだ、と芙蓉は首を縦に振った。


「ああ、幼い頃から一緒にいる」


 今まで一言も喋らなかったのに急に話しかけてきたのは少し気にはなるが、気を逸らすのにはうってつけだ。

 相手に気づかれないように浅く呼吸を繰り返しながら、いつもと変わらない口調で答えた。


「見たかったなぁ。きっと小さな月娟も可愛いんだろうね」


 その言葉に芙蓉は眉根を寄せた。

 砂糖を溶かした様な甘い囁きは、彼が復讐で動いているとは思えない。やはり、ジュダルは月娟と共に生きようとしている。推測でたてた仮説に現実味が帯びてきた。

 それを月娟は嫌がり、己を連れてこなければ死ぬとでも言ったのだろう。王族である彼女は矜持きょうじが高い。普段は怖がりで、泣き虫で、争いは苦手な癖にこの様な事態の際は芙蓉が驚きに言葉をなくす言動をする。

 まだ推測の域をでない、憶測だが月娟の目的は芙蓉と共に異国へ逃げる事ではない。芙蓉を呼んだのは合流し、脱出する事だ。武芸を叩き込まれた芙蓉がいれば打開できると判断したのだろう。清国へ嫁ぐと覚悟を決めたのだ、こんなことで意思を曲げるような軟弱な人間ではないのは芙蓉がよく知っていた。


「今と変わらず、可愛らしい人だよ」


 その為にはまずジェダルの事を知らなければならない。


「そっか、他にないの?」


 だからジュダルを知って、理解して、少しでも脱走の糸口を掴まなくては。足運び、癖、反応。少しでも知らなければならない。




***




 月娟が好きなのは優しい父と母。遠乗り。猫。甘酸っぱい果実で作られた菓子。南国から連れてこられた色鮮やかな羽を持つ大型の鳥。水麗宮から見る季節の移り変わり。刺繍を刺すこと。

 嫌いなものは蛞蝓なめくじや蛙などグネグネした生き物。雷。汚れているもの。初対面で馴れ馴れしい人。蜂。辛い食べ物。


 喋っていると痛みも忘れるため、つい饒舌になってしまう。芙蓉は必要以上に語りすぎたと反省しながらジュダルの相好を伺った。

 前方を歩くジュダルは話をよく聞くために歩幅を芙蓉に合わせてくれた。少年の様な面立ちは想い人の話で青くなったり、蕩けたりと忙しそうだ。


「やはり、しつこすぎたのがいけないのかな……」


 ジュダルは呟くと頭を抱えた。

 独り言のようなので芙蓉は返事をせず、無言で後を追った。


 連れてこられたのは反りだった崖。これは先程、琰慈が言っていたものだろう。下を覗くと深い闇が眼下に広がっている。夜の闇より濃い。風が吹くとおどろしい音と変わり果て、耳に届く。ここから落ちればひとたまりもないだろう。下に木々が生い茂っていても、助かることはない。


「こっち」


 顔を引きつらせた芙蓉をジュダルは呼ぶ。それに無言で従うと崖にできた道へと案内された。一人通れる広さだ。横の岩を掴めば通る事はできるだろう。


「早くきて」


 急かすジュダルの後を追う。

 横の岩を掴みながら、ゆっくりと歩みを進めるが崖下から吹く上がる風に煽られ、体の均衡を崩しそうになる。下を見れば、広がるのは予想もできない漆黒。ここから落ちたら、と思うと恐怖で足が竦みそうになる。


 ——こんな所を月娟様は歩いたのか。


 歩く事はできる。けれど、いつ崩れるかも分からない道を歩くなど恐らく月娟は怖かったに違いない。

 しばらくするとジュダルは足を止めた。

 ジュダルは自然にできた亀裂の前にくるとそれを指さした。

 亀裂は小柄なジュダルと芙蓉がギリギリ入れそうな大きさだ。覗いてみると先は続いているが暗く、明かりがなければ足元すら見えない。


「入って」


 背中を押されて押し込められた。それに対する文句を噛み締めて、芙蓉は亀裂に体をねじ込ませる。

 狭い通路だと思っていたが想像していたよりも中は広い。立って手を上に伸ばしても天井に触れるか触れないかの高さだ。明かりが欲しいな、と思った時、背後からジュダルも中に入ってきた。ごそごそと何かを探る音が聞こえ、しばらくすると質素な燭台に炎が灯り、洞窟の中を照らした。


「さあ、こっちだよ」


 燭台を手に持つジュダルが奥へと進んでいく。

 芙蓉は燭台の炎がゆらゆらと動いているのに気づく。空気は一方通行ではなく、通りがあり、それによって動いている風に見える。恐らく、洞窟の先に出口はある。けれど、ジュダルはそこを使わなかった。人が通れないものか、あるいは最後の手段に残しているのか。

 この炎の揺らめきから見るに、亀裂と同じぐらいの大きさではあるだろうと予想する。


 ——ここまで入り組んでいるのだから、他にも出口はありそうだな。


 芙蓉は周囲を見渡した。

 無数に広がる通路。人が二人並んで通れそうなものや鼠しか通れなさそうなものがいくつもある。その内にあるいくつかは人の手を加えられたと思えるものもあった。

 とても入り組んでいるが音を聞き分け、空気を察すれば出口を見つける事はできるだろう。

 洞窟内を歩くが山賊の気配はない。ざんばら頭と蛇男の他にも多数仲間はいるはずだ。ここはジェダルだけが知っている隠れ家なのだろうか。ここにジェダル一人しかいないのなら、彼の不意をついて、月娟を連れて先にある出口に向かおう。

 芙蓉は決意すると両拳を固く握りしめた。

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