第11話


 熱気を帯びた風が止んだ。そう思ったら鼻先に漂ってくる水の気に芙蓉は顔をあげた。地面から立ちのぼる独特の匂い。肌に纏う空気がねっとりと湿度を帯びはじめた。それは雨が降る前兆だと芙蓉の勘が告げる。


「雨が降ります」

「察知できるのですね」

「勘です。本降りにはならないとは思います」


 芙蓉は青峯の方をちらりとも見ず、ただ空を見上げていた。おぼろの様な薄雲が、砂金の様に輝いていた星の姿を隠している。この様子だと先程言った通り、本降りにはならないだろう。しかし、ここは山頂に近い。ほんの少しの雨量でも時に土砂滑りを起こすことがある。そうなる前に芙蓉は月娟を早く取り戻さねば、と両目を細めた。


「手当て、ありがとうございます。私は行きます」

「あまり無理に動かしてはいけませんよ。ただの応急処置です。私は負傷兵の手当てをしてから向かいます」


 再度、感謝を述べその場を立ち去ろうとした芙蓉は思い出したように「あ」と小さく、言葉を漏らした。


「山賊は、こちらの考えを全て読んでいる風に思えます」

「恐らく、頭が切れる者がいるのでしょう。正直、山賊風情がここまでの策を練れるとは思えません」


 青峯は片方の眉を持ち上げた。砂糖菓子の様な優しい瞳が鋭い物に変わる。


「素晴らしい手腕です。とても悔しいですが」


 先刻の敵襲の際、琰慈の命令で青峯は火中に残り、奏兵の指揮を取ろうとした。その時は正直にいうと簡単に騒ぎは収まると思っていた。山賊は気性が荒く、落ちぶれた者の集まりだから。

 けれど、山賊は最初に自分達が遠くに逃げない様にぐるりと円を描く様に火を放った後、その喧騒の中まず馬を殺した。その後は武器を調達できない様に軒車を壊した。それが終わると火消しに走り回る奏兵を少人数ごとに殺し回った。

 青峯が奏兵を集め終わる頃には半数が焼かれ、殺されていた。


「けれど、そんな頭が切れる人間が、清国と奏国を敵に回すとはとても思えません」

「やはり、彼らの目的は金銭ではない、ということですか?」


 芙蓉の問いに青峯は両目を細めると頷いた。


「明確なことは言えませんが、身代金を手に入れてもその後はどうするつもりでしょうね。ここは清国と奏国のちょうど中間。その周囲にあるのは殆どが同盟国です。同盟を結んでいない国に逃げても、大国に睨まれればその国は生き残る為に喜んで山賊共を差し出すでしょう」

「月娟様を攫うのではなく、最初から殺害をしようと? いえ、殺害でしたらその場で殺しますよね。奏への復讐か心中……?」

「考えたくはありませんが、その二つのうちどちらかな可能性の方が高いと思います」


 心中という言葉を口に出した時、芙蓉の顔が強張る。考えたくもないが青峯の話を聞くと納得ができた。


「攫ったのは恐らく公主殿の容姿を知っているのでしょうね」


 続いての言葉に確かに、と芙蓉は納得した。

 遠乗りの為に月娟は胡服に身を包んでいた。髪は結い上げておらず、髪を首元でくくった姿は一国の公主には見えない。それなのに山賊は月娟を攫った。

 その性格ゆえ、滅多におおやけに姿を現すことのない第一公主をなぜ知っているのだろうか、と疑問が過ぎる。奏でも珍しい銀の髪を目印にしたのだろうか。否、銀髪なら侍女と宦官にも数人いた。ならば月娟の美貌を知っている人物だ。


「芙蓉殿は幼い頃から共にいるんですよね。誰か心当たりはありますか?」

「少し。山賊が話していた男の名前を聞いたことがあります。確かジュダルという——」


 その名を口にした時、芙蓉ははっとした。異国の響きがある名前。月娟がいなくなった後に微かに残っていた異国の香り。その名に、一人、該当する人物がいた。


「ジュダル」


 もう一度、名を口にすると記憶が鮮明になった。顎に手を置き、考え込む仕草をする芙蓉を、青峯は横目で見つめた。

 なぜ、忘れていたのだろうか。

 その名を思い出すと同時にふつふつと湧き出てくる怒りに、芙蓉は握りしめる拳に力を込めた。芙蓉にとって、ジュダルという男は主人に害を及ぼす存在で、この世でもっとも許す事ができない人間だ。




***




 三年前、ジュダルは遙か西方にある砂漠の小国セルクから食客しょっかくとして奏に訪れた。

 セルクは砂漠のオアシスを中心に建国された貿易国で、その歴史はまだ百年と若い。しかし、その特異な立場から周囲の国々から着目されていた。

 水のある場所には命が集う。昼間は灼熱。夜は寒冷の砂漠の中継地として、貿易商人はセルクを経由する。そこで疲れた身体を癒す者。旅人相手にあきないをする者。移住する者達によって家が建てられた。そして道路を作り、用水路を引いた。

 オアシスは数年の月日をかけ、王政国家として急成長し、今では奏に次ぐ貿易国として名を馳せている。

 セルクの王は貿易国の先駆けとして名を轟かせる奏から、貿易とは何たるかを学ぶ為に第四から第六皇子を食客として送った。その第六皇子がジュダルだった。


 奏王は他国との交流を一に考える。それは貿易国の王としての考えなのかもしれない。息子達に貿易を学ばせて欲しい、というセルクの王の申し出に奏王——宗俊は快く承諾した。







 花海棠はなかいどうが咲き誇る夜の庭園で食客達の歓迎の小宴しょうえんを開き、月娟を含む三人の公主を同席させた。当時、侍女でも臣下でもなかった芙蓉はその宴に参加できず、後に月娟と皇后、護衛役としてその場にいた三番目の兄に話を聞いた。セルクの末の皇子が月娟を見初めた、と。

 その宴でジュダルは月娟を妻にと望んだ。それが月娟の美貌に惹かれたのか、継承権が低い自身が王になるためかは心中は測れない。

 そこまではいい。宗俊自身も、自分に男子がいないのを気にしていた。その小宴に公主達を招いたのもわば婿探しも兼ねていた。月娟に求婚をしたい、というジュダルの申し手に宗俊は快諾した。


 しかし、宗俊は後で頭を抱える事になる。





「綺麗な花です。貴女に似合いと思い摘んできました」


 ジュダルは花を贈った。


「これは我が国伝統の首飾りです。ぜひ公主様に」


 ある時には装飾品を贈った。


 咲き誇る花を見ようと散策に誘った。


 情熱的な詩を贈った。




 だが人見知りの月娟はそれを、彼を拒絶した。箱入り娘にはあの熱烈なアピールは恐ろしかったようだ。

 幼い頃の様に自室に引きこもった娘を心配した宗俊によってジュダルは謁見を禁止させられた。会う事もできず、手紙や贈り物さえ禁止にされて痺れを切らしたジュダルは、あろうことか自国に伝わる秘薬を月娟に飲ませようとした。その時は毒味係のお陰で事なき事を得たが、大国の姫に毒を持ったという罪で彼は奏国で鞭打ちに、その後に故郷をも追放されたと聞いている。




***




「芙蓉殿はジュダルという男の顔を知っていますか?」


 芙蓉は首を左右に振った。


「当時の事は月娟様は話したくないようなのです。なので顔は詳しくは……。けれど宴に出席した兄から末の皇子は宝石の様な翡翠の瞳を持っていたとは聞いております」


 それは見事な色だったと次兄が話していた。奏でも緑色の瞳は珍しい。宝石だ、と兄は鸚鵡おうむの様に繰り返した。

 その兄は占いで緑色が良運を呼び込むと言われたため、着物の色は勿論のこと、髪飾りや腕飾り、房室へやに飾るつぼも緑で統一している変わり者だ。他者が緑色を身につけると「見る目がある」と熱く語る男で、生まれつき緑を身に宿す末の皇子にえらく興奮していたのを覚えている。この様な状態なのに次兄のへらつく顔が出てきて、芙蓉は頭を振ってそれを忘れようとした。


「それに、香の匂いがセルクで使用されている香水に酷似していました」


 昔、セルクから来た商人が最近、自国で流行っている物だと香を紹介してきた。砂漠で取れた花と木を乾燥させて、その粉を混ぜたものだ。焚くと爽やかだが微かに甘い匂いがした。それは月娟が連れ去られた後に残った香りと同じように思える。


「ならばジュダルという男が主犯、と考えた方がいいですね。復讐の線が濃くなりました」


 青峯が頭を掻いた。何ともいえない表情だ。柔らかな面立ちに浮かぶ、冷徹な表情は怒りを通りこしている。主人の花嫁を拐われた事による怒りか、はたまた別の感情か。


 ——それよりも今は月娟様だ。


 その表情は気になるが、今、最前すべきことは月娟の奪還だっかんである。

 短く息を吐き出すと芙蓉は左肩を庇うように腕を組んだ。青峯の薬のお陰か先程より痛みや熱はない。だが満足に体を動かすのは難しいと判断する。

 早く月娟を迎えに行きたいという気持ちは強いが、今の状態だと恐らく芙蓉は足手まといになってしまう。


「彼は砂漠の人間です。確かに知恵はある。けれど、山脈なら私達の方が有利です」


 砂漠と山では地形が違う。王族として多少なりとも戦術を学べも、それは砂漠地帯のものだ。このような山奥は経験不足のはず。そして何よりも仲間である山賊の中にジェダルを信用していない者もいる。そこから切り抜ければ、助け出すことはできる。

 しかし。


 ——月娟様をかばいながらの戦闘は無理だ。


 酷い痛みはないといえど、左腕は動かせない。無理に動かそうとすると焼きごてを当てられてような痛みが走る。

 この様な状態の自分にできるのは月娟を見つけ出し、彼女を逃すことだ。片腕だけでも、相手が何人であれ、月娟を逃す時間は稼げるだろう。


「それでは私は行きます」


 芙蓉の表情からその心中を察したのか、その背中に青峯は声をかけた。


「この山は琰慈の庭のようなものです。遠くには逃げれませんし逃がしません」


 それが何を意味するのか芙蓉が問い正そうとした時、鼻息荒く、奏兵がかけてきた。奏兵は肩で息をつきながら、二人を見つめ口を開いた。

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