第2話 第一部 義滋 第一章 騒擾の陰

          (一)


 その巫女みこは、よろめく足で山中をさまよい歩いていた。夏のこととて、山の頂近くとはいえ汗ばむほどの陽気のはずだが、体に覚える悪寒おかん倦怠けんたいはますます強まっていくばかりだった。

 ミャーォ、ミャーォ。

 どこかで、猫の啼く声がする。

 山狗やまいぬなればまだしも、このような山の奥で猫などいるはずもないと思えるのだが、その声はどこまで歩いても途絶えることがない。あるいは、自分の体の調子が悪いことからくる幻聴かもしれなかったが、それにしては身の奥底から湧き上がる不安がただごとではなかった。

 だから、巫女は体の不調を押してずっと歩き続けていた。足元が覚束おぼつかなく、石を踏んでよろめき、くずおれかけても、懸命に踏ん張って先へ、先へと体を進める。

 自分がどこかへ行こうというよりも、得体えたいの知れぬ何かから逃れようとしていたのだということに気づいたのは、とうとう力尽きて倒れた後だった。

〈ようやく、諦めたか〉

 巫女の耳に、今までとは違ってしっかりと意味をなす声が届いた。それは、れた媼のもののように聞こえた。

 ――誰じゃ。

 心の中で問うたが、相手は己の想いに浸っているばかりで、巫女に答えようとはしなかった。

〈これで、我が存念を果たすのにまた一歩近づける〉

 ――誰だ。わらわに、何をさせようとしている。

 ようやく、目に見えぬ何者かの意識が自分のほうへ向いたのを感じた。そのとたん、倒れた巫女は背筋をゾッとするものが走るのを覚えた。長い長い旅を続ける間、様々な生き霊、死霊にも出会ってきたが、かほどの憎悪と怨念を蓄えているモノに行き会ったのは初めてのことだった。

 ――そなた、どうしてそこまで変じた。

〈そんなことは、もうどうでもよい。今は、我が怨念の炎が向かうままに、全てを焼き尽くさんと欲するのみ〉

 ――そなた……今のそなたの有り様では、望みを果たさんとしても満たされることなく、どこまでもその憎悪の炎を大きくしていくだけぞ。無益なことはやめよ。

〈うるさい。ますます燃え上がるなれば、それが鎮まるまでどこまでも灼き尽くすだけよ〉

 ――そして、最後にはありとあらゆるものとともに、そなた自身も燃えさかることになる――そなたが焼いた物は燃え尽きれば火は消えるが、そなた自身は未来永劫、灼熱地獄の業火にあぶり続けられて苦しむことになろうぞ。

〈だからどうした。この身が憎悪の炎に焼かれて苦しいのは、今も変わらぬ。なれば、少しでも気が休まるように、怨念の炎が向かう先へ我が存念をぶつけるのみ〉

 ――いかぬ。そのようなことは、させぬ。

 心に届く声が、からかいを帯びた。

〈ほう。今のお前に、そのようなことができようか〉

 巫女は、クッと呻き声を上げる。

〈できぬな。死病に取り憑かれた今のお前に、もはやそのような力は残されていまい〉

 声の言うとおりであった。巫女は、己の死期を悟って旅を中断し、この山に単身踏み込んだ。そしてあまりにも間の悪いところで、最も忌むべきモノと出会ってしまったようだった。

 ――我の力が衰えたのを知り、その死を嘲弄ちょうろうせんとしてやってきたか。

〈我は、さほどに暇ではない。そなたに察知されぬようにずっと後を追ってきたは、そなたの力を我が宿願成就しゅくがんじょうじゅに使わせてもらうためだ〉

 ――無駄ぞ。妾は、そなたなどに力は貸さぬ。

 きっぱりと言ったつもりだったが、返されたのは哄笑こうしょうだった。

〈誰が借りると言うた。我は、そのように悠長なまねをするつもりなどない――助力など望まぬ。そなたの体と力を、乗っ取るのみ〉

「!」

 巫女は、ようやく悟った。自分がこの凶悪なモノと行き会ったのが、ただの偶然などではなく、ずっと狙われていたのだということを。そして、それを気づかせなかったこのモノが持つ力は、己が万全であったとしても勝てたとは思えないほど強力であったことを……。

 急速に薄れゆく意識の中で、巫女が最期に聞いたのは、見たこともない老婆の勝ち誇る笑い声だった。


 犬童いぬどう長広ながひろは己の館のえんに腰掛け、庭を眺めていた。嫡男の九介が死んで以来、何を行うにも今までのような意欲が湧かなくなっている。

 犬童の一族は、相良の家中でそこそこの地位を占めてはいたが、まだ重臣に補された者は出ていない。あるいはとの期待を込めて嫡男を若君の下へ送り出した長広にしてみれば、運よくちょうを得た九介こそ、一族最初の老職になるべき存在だった。

 ――それが、当人の軽率に端を発するとはいえ、あえなくついえた。

 相良の当主となった長祇ながまさから咎め立てがあったわけではなく、却って丁寧な弔意まで示してもらったが、跡継ぎを喪った長広には何の慰めにもなっていない。

 ――むしろ、責を問われて対応に奔走していたほうが、今のように余計なあれこれを考えなくて済んでいたかもしれぬ。

 などと、長広はらちもない思いを心に浮かべていた。

 遠くから、微かに、うたす声や鈴を鳴らす音が聞こえてきた。

 ――祭りの季節でもないのに、流れ者の唄いでもやってきたか。気散じに、呼んでみるのも一興かもしれぬ。

 長広は、いつものこの男らしくない気紛きまぐれを起こした。これも、息子を不意に喪った心のうつろのせいかもしれなかった。


 家来に命じ館に呼び込んだ女は、あまの格好をしていた。さすがに衣装は旅塵りょじんにまみれ、薄汚れているものの、放浪の中に暮らしを立てているとは思えぬほどの肌の白さをしているようだ。

 しかし、暗い屋内でのことでもあり、袖頭巾そでずきんで顔を隠しうつむく姿から、面立おもだちまではっきり見て取ることはできなかった。

「名は」

 長広が直々に問うと、女はぽつりとひと言で答えた。

槃妙尼はんみょうに

 か細い外見に似合わぬ、ぬめぬめとつやめいた声だった。長広は、何かがぞくりと背中を走る感覚を覚えた。

「ハンミョウニ……」

「死したる後に涅槃ねはんで聞く、たえなる調しらべとの意にござりますれば」

 鸚鵡返おうむがえしに繰り返した長広へ、俯いたままの女が言った。

「これ」

 女の不吉なもの言いに、脇に控えた家臣が眉をひそめながら咎めた。

「よい。尼御前あまごぜは、こちらのいたことに、そのまま素直に答えただけじゃ」

 家臣を制した長広に対し、女は無言で低頭した。かすかに芳香が漂った気がした。ほんの一瞬ですぐに掻き消えたが、くらい心の奥底を、くすぐるような香りであった。

 長広は、気を取り直して目の前の女を見つめた。

「その姿名前からすると、比丘尼びくに(放浪しながら布教する女宗教家)におわすか」

 館の主の問いに、女は初めて顔を上げた。

「比丘尼、歩き巫女、唄い女、あるいは他の何者にでも――それは、声を掛け呼び止められたお方の、お心次第」

 女を見る長広の眼に、驚くほどの美貌は映っていなかった。長広の心は、女と目が合ったその瞬間、黒々とした瞳の奥底へと、引きずり込まれていた。


          (二)


 山の朝。坊主頭の若い男が、ふんどし一丁の裸で川岸の大岩に腰掛けていた。

 肩で息をしており、全身から水滴をしたたらせているところからすると、今、目の前の流れから這い出したばかりのようだ。体には盛り上がるほどに肉が付き、肌は水滴を玉にして弾いている。

 両岸を岩に囲まれた緩やかな流れを見ながら、呼吸を整えるために、若者はホゥと大きく息をついた。

 夏の盛りとはいえ、その朝は、山には珍しいほど温気うんきが増していた。前の晩は、獣どももよく寝付けなかったであろうと思われるほどに、寝苦しい夜だった。

「やはり、ここにござったか」

 背中のほうから声が掛かった。

 これも僧侶の格好をした男が一人、足下の岩を確かめながら、それでも飛ぶように下りてくる。三十も半ばほどの、若者に劣らず筋骨たくましい男だ。

「こう暑うては、他に行くところもあるまい」

 一瞬だけ振り返り、また水面に眼を戻して若者が言った。腹の底から放たれた野太い声には、生を享受している者の張りがあった。

「自ら好んで仏門に入られたのじゃ。少しは大人しくなされ」

 ようやく若者のそばまで来た中年の僧侶は、たしなめるように言うと、腰帯から手拭てぬぐいを抜いて目の前の相手に差し出した。

「武家の窮屈さが嫌で逃げ出しただけじゃ。寺の住持も窮屈なれば、遊行ゆぎょう僧にでもなろうかの」

 受け取って体を拭きながら、屈託のない笑顔を見せて、若者は言った。

「何をおおせか。庶子とはいえ相良の御曹司おんぞうしに、そのようなことが許されるとお思いか」

「判っておる。言うてみたまでじゃ」

 若者は立ち上がり、濡れて重みが増した手拭を放って返すと、また流れへ向かい歩み始めた。

「何を――もうお上がりになるのではないのか」

「お主と話しておったら、また暑うなってきたわ」

 振り向かずに声だけ上げ、若者は水の中に入っていく。

「なれば、上がるときまで濡らさねばよいものを……」

 手許に残された布に目を落とし、僧侶は情けなさそうに呟いた。

 顔を上げ、抜き手を切って泳ぎ始めた若者を見やる。その目には、我が子を見守るようないつくしみがあった。


 若者は、この球磨くま人吉ひとよしを治める相良家当主、長祇ながまさの異母兄にあたる男だった。法名ほうみょうを、瑞堅ずいけんという。母の身分が低いため、家督は後で生まれた長祇によって継がれた。若者には実の兄もいて、そちらは相良の分家として家を立てている。

 表立って口に出す者こそいなかったが、周囲の目には、この瑞堅こそ武家の棟梁とうりょう相応ふさわしいと見えていた。そうした周囲の輿望よぼうを、若者はあっさりと振り捨てた。

 今でこそこのように好き勝手に振る舞っているが、十二歳の春に城下の名刹めいさつ得度とくどし、そこで見込まれて、ほどなく九州一之宮いちのみやである阿蘇あそへと修行に出された。

 阿蘇のお山で若者が積んだ修行は、名家の次、三男が格式の高い寺の門跡もんぜきとなるために行うような、形ばかりのお勤めとは全く違う、厳しいものであったようだ。

 しかし、何があったのか若者は、十年を超える修行を途中で切り上げると、そのまま山を降りてしまった。そのとき若者について下山したのが、この中年の僧侶、竜然りょうねんだった。

 竜然は自らの過去を語ろうとしない男だったが、やはり武家の出のようだ。何が気に入ったか、まるで昔からの家来のように若者の行くところにつき従い、なにかと面倒をみたがった。若者も、邪険にするでもなく、かといって家僕かぼくのように扱うわけでもなく、ただ当人の好きにさせていた。

 人吉に帰ってきた若者は、仏門の初年を過ごした古刹こさつでも他の由緒ある大寺でもなく、無住となっていた山間の古寺を選んで住み始めた。人もあまりおらぬような山の中、わずかな檀家だんかも貧しい者ばかりではあるが、食べるくらいは相良の家がなんとかしてくれる。

 以後、このように気儘きままな日々を送っているのだが、奇妙にも村人の評判は悪くない。

 瑞堅が住職のいなくなった寺に住み始めたばかりのころ、村人たちは、身分の高い変わり者が来たといううわさおそれ、道端で行きうことすら避ける有り様だった。そうした中、まず若者の人好きのする人柄に気づいたのは、子供たちである。

 最初は親に隠れて、そのうちに堂々と寺に遊びにいくようになった子供を、叱るばかりだった親たちの中へ、あるとき、誰から聞いたのか呼ばれもせぬのにこの若者がやってきた。それは、長患ながわずらいの老人が、ついに息を引き取った日であった。

 瑞堅は、身分もない老いた百姓の亡骸なきがらに丁寧に接し、家人が遠慮するのも構わずに湯灌ゆかんから夜を徹しての通夜つやまで全て自ら率先して行った。

 最後の読経どきょうを終えて家人に深々と頭を下げると、若者は何も求めず寺へと帰っていった。後は、何ごともなかったように、いつもの様子で過ごしている。

 同様のことが、その後二、三度続いた。そうしているうちにいつの間にか、若者は村の中に溶け込んでいたのである。

 このごろは、寺に足を向けると、本堂の濡れ縁に腰掛けて老人と世間話に興じたり、庭で子供と遊んでいる若者の姿をよく見掛ける。納所なっしょに回れば、毎日のように村人が持ってきた野菜や漬物のたぐいが置かれていた。


「瑞堅様。そろそろお勤めの刻限にござりまするぞ」

 迎えにきた竜然はついにしびれを切らし、水から上がろうとしない若者に向かって叫んだ。

「村の衆は、誰か来ておるか」

 呼び掛けへ、立ち泳ぎに変わった若者が大声で返す。

「いいえ、今日は誰も来てはおらぬようですが」

「なれば、お主が代わりにやっておいてくれ」

「またそのような……」

 呆れ声で呟いた竜然だが、相手はもうこちらのことは忘れて泳ぎに夢中になっている。竜然は、濡れた手拭いをげたまま溜息をついた。


          (三)


 その日の瑞堅は、珍しく本尊ほんぞんと向き合いお勤めをしていた。山江やまえの地頭が使いをよこしてきたのがわずらわしく、顔を合わせるときを少しでも短くしようとして取った行動だった。

 山江は、相良の主城がある人吉よりもわずかに北方、ご城下の話がすぐに伝わる位置にある。地頭本人も出世の願望が強いらしく、山中にある古寺の住持に成り下がった男のところまで、飽きもせずにたびたび秋波しゅうはを送ってくるのだ。

 無駄なことを、と思うばかりなのだが、先方にすれば瑞堅の世俗を捨てた態度が、雌伏しふくする間だけ仮の姿をよそおっているのだとしか見えないのかもしれない。

 ふと、背後に人の座す気配がした。竜然が「顔を出してくれ」と願いにきたのであろうが、いつもよりずいぶんと早い催促に不審を覚えた。

 構わず読経を続けているうちに、己の背後に黙したまま座る従僧から、常とは違うものを感じ取った。それは、冷徹な緊張、あるいは殺気と呼び替えてもよいような、宗教者に似つかわしくない殺伐とした感情に思えた。

 瑞堅は読経をやめた。それでもものを言わぬ相手に、ゆっくりと振り返る。

 竜然はこちらの目を見てから、ようやく言葉を発した。

「長定公、ご謀叛とのこと」

「何」

 返す瑞堅の目が見開かれた。

「子細は、使いの者より」

 そう言って竜然は自分から立ち上がり、いささか茫然としている瑞堅を促した。


 足音も荒く現れた瑞堅を、山江地頭の使者は右のこぶしを床につき体を折って迎えた。瑞堅は、僧衣のたもとをさっとひるがえし、無言のまま従者の前で胡座あぐらをかいた。

 ようやく口を開いたが、挨拶は抜きですぐに本題に入る。

「長定が謀反を起こしたというは、まことか」

 使者は、淀みなく答える。

「は、一昨日の払暁ふつぎょう、人吉のお城を襲いましてござります」

「して、ご当主の長祇様は」

「不意の来襲に城は持ちこたえられませなんだが、ご当主様は何とか難を逃れられたよし。確認まではできておりませぬが、西へ向かわれたとの話が聞こえてきておりまする」

 瑞堅は、ジロリと使いを見やった。

 ――その間、そなたの主を含む豪族どもは、いったい何をしておった。

 睨みつけたが、さすがに口には出さない。

 使者は感情を面に出さずに、ただこちらを見返していた。

 瑞堅は大きく息をついて気を静めた。思い直して、一番の疑問を口にする。

「犬童長広では、長定を抑えられなんだのか」

「長定公がお連れになった兵こそ、その二見ふたみの手勢」

「何と……」

 瑞堅は耳を疑った。

 犬童長広は、幼少時より今の相良家当主長祇に近侍した九介の父親で、二見の地頭である。九介を介して、長祇とも浅からぬ親交があった。

 叛意はんいいだく長定を長祇が二見へ放逐したのは、犬童長広の監視の目を信頼してのことだったのだ。その長広が謀叛の兵を挙げたのであれば、人吉城が不意をかれるような事態におちいったことも頷けた。

 瑞堅は目をつむった。山江地頭の使いがことの詳細を述べ始めていたが、ほとんど耳に入ってはいない。体の中を、熱くたぎるものが駆け回っていた。

 気がつくと、使者は言葉を終えていた。目を開けると、探るようにこちらを見ている。

 瑞堅は、脇に座す竜然へ目をやった。無言の竜然と目が合う。

「この球磨も、大変なことになりそうじゃの」

 心の内を押し隠し、瑞堅は竜然に淡々と呼び掛けた。見返す竜然は、それでも無言のままだった。


          (四)


 球磨の簒奪さんだつを狙う相良長定が入ったのは、ようやく城内が鎮まったひるを過ぎてからとなった。

 激しくあらがったのは一部の者だけで、大方の兵はさほどの抵抗もみせずに逃げ散った。果断は成功をみたが、残念ながら当主の長祇ながまさを捕らえることまではできなかった。

 後に、長祇は西の八代海沿岸近くを薩摩さつま方面へ逃れ、国境くにざかいを越えた出水いずみに腰を落ち着けたようだと報告が入ってきた。

 先主を放逐した長定は、すぐさま「家督が正統な血筋に戻った」むねを相良領全域にに宣した。が、領内には容易に服せぬ気配がある。

 こうした不満分子を抑える意味でも、後顧こうこうれいを取り除く意味でも、長祇がかくまわれている出水へ兵を差し向けたいのはやまやまだ。しかし、国境を侵して隣国とことを構えられるほどには、いまだ自陣営の体制が整っていないことは明らかだった。

 そこで長定は、甘言を用いて長祇を誘う策に出た。手紙を送っていわく、

「自分は悪臣にそそのかされて人吉の城を攻めたが、今は深く後悔している。長祇公がお戻りになれば、無論、家督も城も無条件でお返しする。

 すぐに人吉へ帰るのは危ういとお考えならば、まずはそこから国境を越えてすぐの水俣みなまたあたりまでお戻りになり、そこで様子をお確かめになってはいかがか。そのために、自分はもう、水俣の城を公へ明け渡す支度を始めさせている」

 長定は、決起に兵を貸した犬童長広を、二見へ返すことにした。そこには、長祇に自分の改心を信じさせるためという理由がある。しかし実際には別な目的――というか感情が、多分に入り込んでいた。

 長祇より二見での蟄居ちっきょを命ぜられたとき、自分の前途は閉ざされたと覚悟した。犬童長広の忠誠と実直は話に聞いていたとおりで、移った後の長定は、ずっと息を詰めて逼塞ひっそくしている態度を余儀なくされた。上辺うわべをいかに取り繕おうと、その実態は囚人と獄吏ごくりの関係であり、「どのように身をつつしんでみせても相手の警戒心が解けることはあるまい」という、己の予測したとおりの日々であった。

 それがある日、突然長広が訪ねてきたかと思うと、向こうのほうから挙兵を持ち掛けてきた。こちらの本音を探るための欺瞞ぎまんを疑うべきであったろうが、老いた地頭の黒々とした目に見据えられた長定は、なぜか躊躇ためらいもせずに頷いていた。

 後で思い返すと、そのときの相手の目の奥からは、何の感情も読み取ることができなかった。以降、今日に至るまで、同志の者として心を通わせるどころか、相手の心の内が全く判らぬままの状況が続いている。

 謀叛に協力することで犬童長広が得られるものは、新たな領主である自分と結託しての権力掌握か、前の国主長祇への報復であろう。長広が嫡子九介の死を長祇のせいだと考えているなら、いずれもあり得たし、その両方でもおかしくはなかった。

 しかし長広は、謀叛が成功した今となっても、あだを報じた喜びも、権力を得んとする欲望も、長定に見せてはこない。内心危ぶみながら口に出した「いったん二見へ戻れ」という長定の命にも、唯々諾々いいだくだくと従う態度を取った。長定には、そうした長広が不気味で仕方がなかった。

 今の長定は、犬童長広を二見に帰したことで、心が大いに軽くなっている。己の巻き起こした混乱がまだ続いている中、挙兵を支えた最大戦力の保持者を身辺から遠ざけるのが得策でないことぐらいは、十分判っている。しかし、それでも長定は、犬童長広を忌避きひする気持ちを抑えることができずにいたのだった。

「長定様」

 新たな領主が御座ござとして使う座敷に、近侍きんじの一人が入ってきた。かつての所領から二見の軟禁先までつき従ってきた、長定にとり数少ない股肱ここうしんである。

 長定の視線が自分へ向いたのを見て、言葉を続ける。

「使者が戻りましてござりまする。長祇公、水俣の城へ移られるご意向との由」

匡政くにまさには」

「かねてからの手筈てはずどおりに」

「急ぎすぎぬように、の」

「よく言い聞かせております。こたびは、逃がすようなまねは致しませぬ」

 長定は、ただ頷くと庭へ目をやった。

 犬童匡政は、水俣からわずかに北にある津奈木つなぎの地頭だった。長広個人にはいま一つ信が置けなくとも、犬童一族の協力は、今の長定にとって欠くべからざるものであった。

 長定の領主就任を歓迎していない者どもも、前領主の復帰があり得ない状況となれば、考えを変えていくだろう。それでも変わらぬ者は、潰せばよい。

 ――ときを掛け、少しずつ。

 そう、長定は自分に言い聞かせた。

 ――本来あるべき地位に就くまでに、これまで長いときを費やし、艱難かんなんを乗り越えてきた。それを思えば、この程度の辛抱など何ほどのこともない。

 長定は、積年の夢がついに叶った今の己が身を振り返り、口元に笑みを浮かべた。


 長定の命に従って自らの領地である二見に帰った犬童長広は、館へ入るとすぐに誰かを捜すように辺りを見回し、奥へ向かった。迎えに出たまま主につき従ってくる家宰かさいに声を掛ける。

「尼は、槃妙尼はどこじゃ」

「お館様が人吉へご出陣なされてほどなく、ここを出ましたが。お館様の命じゃと言っておりましたゆえ、人吉に参ったのかと思うておりました。向こうで行き会うてはおられませなんだか」

「そうか……」

 意外そうに答えた家臣へ、長広はただそれだけ返した。肩が落ちている。

 手伝いにきた奥向きのはしために促され、着替えを始めた。妻はすでになく、この数年は側室も置かぬ暮らしになっている。

 家宰は、ただ黙ってお館様である長広の姿を見ていた。

 ――会うているときはあれだけ執心していた尼がいなくなったと知ったのに、激することも捜させようともなされない。そういえば、お館様のご様子が普段と違って見えるようになったは、あの尼が来てからか……。

 婢の世話を受けるのに、まるで意思のない人形のようにされるがままになっている長広を、家宰は言葉も掛けられずに見ているだけだった。







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