第2話 逃走と闘争

 私が放った矢は緩やかな放物線を描き、ヒトの胸に向かって飛んでいく。

 よく砥がれた鉄の矢じりがヒトの心臓を射ぬかんとしたその時、ヒトが腕を振った。矢はヒトの右手の中にあった。

 まずい。私は一目散に逃げ出した。不意打ちが失敗したのなら、もうヒトに勝つ見込みはない。なにしろ相手は世界を焼き尽くした獣だ。機獣のように口から火でも吹かれたらひとたまりもない。

 茂みの中を走る。ちらりと後ろを振り返ってみると、ヒトは追ってきてはいないようだ。それでも、私は念を入れてさらに距離を取った。

 それにしても、信じられないことだ。飛んでくる矢を掴むなど。そのような知性と能力がヒトに備わっているとは思わなかった。


 しばらく走り、とにかく距離を取る。私はとりあえず丘の上の広場まで走った。そこで、先ほどのように耳を澄ませる。ヒトの足音と思われるものは聞こえない。

「はあ」

 思わずため息をつく、深呼吸をして荒れた息を整える。

 木陰まで移動し、木の根元にしゃがみ込んだ。背負っていた背嚢や矢筒、弓も地面に下す。

 ヒトへの奇襲、あれはまったくの失敗だった。功を焦りすぎて、冷静さを失っていた。もし本当にヒトを狩ろうとするならば、綿密な準備と計画が必要だったはずだ。私はそう思い返した。

 いや、そもそもあの奇妙な獣が本当にヒトだったかすら怪しい。皮膚を病んだオカザルや大きくなりすぎた小鬼だったのかも。

 どちらにせよ、大失敗だった。水源の確保をなによりも優先しなければならなかったのに、それを怠ってしまった。

「バカだったな」

 しかし、いつまでも悔やんでもいられない。こういう時は切り替えが重要だ。とにかく、川が流れている場所はわかったのだ。奇妙な獣が水浴びをしていた場所にはもういけないが、少し休憩してから、もっと上流に行ってみよう。


 気配を感じて目を開けると、目の前にヒトの顔があった。

「!!」

 思わず横っ飛びに前転して距離を取り、素早く立ち上がった。いつの間にか眠っていたことを心の底から後悔する。腰のベルトに付けた鞘からナイフを抜いて、逆手に構える。

 その間、ヒトはただ突っ立ってこちらの様子を見ているだけだった。対面して初めて気が付いたが、ヒトはこちらより頭一つ半ほど背が高い。体格も私よりがっしりしていて、かなりの差がある。これだけでも、相当に不利だ。

 また、さっきとは格好が違うことにも気が付いた。あの毛のない白い肌がほとんど露わになっていない。ヒトは服を着ていた。身体に張り付くような不思議な服で、黒く光沢を帯びている。革なのか布なのか、それすら私にはわからなかった。

 ヒトはまだこちらをじっと見つめている。

 なぜ襲ってこない。なぜここがバレた。追跡してきたのか……どうやって。また、逃げようか。いや、ここまで追跡されてしまっている。逃げてもまた追われるだけだ。戦うしかないか。

 まとまらない考えが頭の中をぐるぐると巡る。額から汗が滴る。

 そして、ヒトが動いた。

 私の身体が半ば反射的に動き、大きく踏み込んでナイフをヒトの首筋目がけて振った。

 白い石でできたナイフ。代々わが家に伝わる遺物アーティファクト。折れず、曲がらず、こぼれない。いかな、伝説の獣であろうと、あの柔らかそうな首筋であるなら、切り裂いて致命傷を与えることができるはずだ。

 しかし、私の一撃は空を切った。ヒトが素早く身体を沈みこませたのだ。胸に衝撃。だが、痛みはない。ヒトの右手のひらで軽く押されたのだと気付く。思わぬ行動に不意を突かれ、押されるがまま後退してしまった。ヒトとの間に距離ができる。

 ヒトが吼えた。威嚇か。さっき、隙を晒した私に攻撃しなかったのはなぜだろう。なぜさっさと火を吹いて終わりにしないのか。わからない。調子が狂う。

 ナイフを順手に持ち替え、ヒトの胸目がけて突いた。ヒトがナイフの腹を右手で叩き、軌道が逸れる。そこから、横なぎにナイフを振るい、また喉元を狙う。

 ヒトが上体を前に屈めつつ、身体を振り子のように振った。ナイフがヒトの頭の上を通り過ぎていく。わき腹に衝撃。鈍い痛みが私を襲う。ヒトの拳が私のわき腹を強く打ったのだ。先ほどのような手加減はない。息が詰まる。

「ぐうっ……!」

 思わず一歩後ろに下がってしまった。間髪入れずに、ヒトが左足を踏み込みながら、右手で突きを打ってくる。私の顎を狙ってきたそれを、首を振って躱す。

 体勢を建てなおし、手首を返して、もう一度横なぎにナイフを振った。しかし、ヒトにナイフを持つ右手首を掴まれ、止められる。読まれていたのだ。

「しまっ……」

 ヒトが右手首を捻りあげた。痛みのあまり、ナイフを取り落としてしまう。ヒトはさらに右手首を捻りあげてくる。

「……!」

 声にならない呻きが漏れる。痛みに歯を食いしばりながら、ヒトの腹目がけて膝蹴りを飛ばすと、三回目でやっとこちらの手首を離した。

「くそっ」

 右手首がじんじんと痛んでいる。筋を痛めたかもしれない。だが、それを気にするのはあとだ。

 ヒトが身を捻りながら右足で回し蹴りを打ってくる。肩と畳んだ左腕で受ける。重い。防御していても、顎を引いていなくては脳が揺らされてしまうほどだ。

 たたみかけるように前蹴りがくる。それを左手で払い、踏み込んだ。相手はまだ足を引き戻せていない。片足立ちになり、不安定な体勢となったヒトに、私は全力で殴りかかった。

 次の瞬間、天地がひっくり返る。一瞬、ふわりと身体が浮いたと思ったら、青い空が見えて、いつの間にか私は地面に叩きつけられていた。自分の身になにが起こったのかわからない。勢いよく叩きつけられたらしい背の痛みよりも先に、驚きがあった。

 唖然として隙を見せている私に対して、ヒトは背後を取り、腕を私の首に巻き付けてきた。一瞬で息ができなくなる。

「くぁ」

 頭に血を送る血管も塞がれ、顔が真っ赤になってこめかみの血管が浮き出てくるのがわかる。私は何とかして首絞めから脱出しようともがいた。

 さらに、ヒトはこちらの胴に足を絡ませてくる。必死になって暴れるが、どうしてもヒトから逃れることができない。

 顔面が冷えてきた。目の前が暗くなり、身体が動かなくなる。闇。冷たさ。


 やがて、なにも聞こえず、なにも感じなくなった。

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