【黒】チェックメイト・マジック





 とある豊かな国の片隅に、「魔法使い」と呼ばれる男がおりました。


 彼は非常にわがままで、意地悪で、気まぐれだったので、ある日思いつきに、自分の街から一切の「色」を消してしまうことにしました。


「スミレの花の紫も、イチゴの赤も、大空の青さえ俺には煩わしい」


 彼はそう言うと、ほんとうに世界から色を消してしまいました。

 あとに残ったのは、石灰の白と、烏羽の黒だけ。


「ああ、一体なんてことを!」


 街中の人が魔法使いを責め立てましたが、彼はどこ吹く風。要らぬことばかり見つめるその目から黒色さえ消し去って、たちまちみんなを黙らせてしまいます。


「しばらく黙っていろ。俺の気が済むまで」


 白と黒だけになった街は、ぞっとするほど美しく、奇妙な静けさに満ちていました。すべての色を奪われても、林檎の香りはかぐわしく、小鳥の歌は清廉で、太陽はあたたかく森を照らしています。魔法使いは、別にそれでいいじゃないかと思いました。どうして街の人たちがあんなに怒るのか、彼には本気でわからなかったのです。


「余計なものがあるから争う羽目になる」


 魔法使いが白黒の川に沿ってしばらく歩くと、街外れの集落にたどりつきました。そこには老人が多く住んでいて、ある家の窓辺には、うたた寝をする老人の姿が見えました。こんな時に呑気なものだ、と魔法使いはおどろきましたが、少し興味をそそられて、周りの者に尋ねました。


「ああ、彼はそんなこと気づいちゃないさ。どうせもう白と黒以外は、よく見えてやしないんだから」


 この集落の人たちは、作物の様子を見たり、家畜小屋の修理をしたり、そういう仕事のほうに気を取られていて、色がなくなったことに驚く暇もないようでした。なにしろ若い人がいないので、全てのことに時間がかかるのです。魔法使いはなんだか拍子抜けして、さっきのうたた寝していた老人のところを尋ねることにしました。


 家のドアを叩いても誰も出ないので、彼は勝手に鍵を開けて、中に入りました。老人は相変わらずうつらうつらと眠っていました。窓辺のテーブルには、チェスのセットと飲みかけのティーカップが置かれてあって、部屋の中には古い猟銃が飾られています。

 魔法使いは、チェス盤も消してしまおうかとも思いましたが、ふと思い直し、老人を叩き起こしてこう言いました。

「おい。チェスなら、私も腕に覚えがある。一戦、お手合わせ願おうか。もしもお前が勝てたなら、この世界を元に戻してやってもいいぞ」

「へえ。そうですか」

 老人は話をよくわかっていませんでしたが、とりあえず頷きました。新しい人と対戦してみたかったし、何よりまだ寝起きでぼーっとしていたので。

 かくして、チェスの試合が始まりました。



「聞けば、お前は白黒の世界で満足しているらしいじゃないか」



 チェスをしながら、魔法使いは物静かな老人に感心して、ため息をつきました。

「こんなにも謙虚で素晴らしい人間がほかにいるか? ほかの連中もこうなるべきだ。奴らは傲慢で、ないものねだりばかりして、そのくせ努力しようともしないのだから」

「わたしは白黒なんかじゃありませんよ。なんだって見えますよ。チェスを打ってる時だけはね。わたしの目は干しトマトみたいにしぼんで、今にもとれちまいそうですけど」

 へっへっ、と老人は笑いました。

「わたしも昔は目が良かったですよ。みんなといっしょに森で狩りをしたりね」

「その目は病か? それとも怪我か?」

 老人はそれには答えず、静かに笑って、こう話しました。


「鳥の中には、わたしどもより沢山の色を見ることができるやつがおります。わたしは昔、深い夜の森で、それはそれは美しい鳥を見ました。ずっと見ていたくなるような、言葉にできないほど多色の羽を持った鳥です。仲間たちは我先にとそいつを撃ちたがりました。夜闇の中でも、あの羽は目立ちましたからね」


 魔法使いはただじっと話を聞きました。


「わたしは途中で、木の根に躓いて転び、皆に遅れをとりました。やがて、遠くの方で銃の音がし、それから歓喜の声が聞こえてきた。しばらくして、仕留めた鳥を懐に収めた仲間たちが、わたしのところまで戻ってきました。それと同時に、隣町のほうから、駆けてくる足音も聞こえてきました」


 魔法使いはナイトの駒を前に進めました。


「そこに現れたのは、隣町の紋章をつけた一人の男でした。彼が言うには、『鳥が逃げた。息子が生まれた日に、占い師からもらった大事な鳥だ。あれは息子の守り神で、もし失えば、大いなる災いをもたらすと言われている。この辺りで見かけてはいないか? さっき撃ったのは、うちの鳥ではないか?』と」


 老人は白のポーンを動かし、クイーンを取られないよう守ります。


「哀れな男に、わたしたちは嘘を吐きました。そんな珍妙な鳥は知らないと。さっき撃ったのはただの大烏だと。幸か不幸か、わたしたちは全員銃を持っていましたし、男は慌てて出てきたのか丸腰でした。それなのに、男はしつこく追いすがり、『その袋の中身を見せてくれ』と懇願してきたのです。あまりにも縋りつく力が強かったので、わたしたちも終いにはぞっとしてきまして、畑仕事用に持っていた石灰を、男に向かって浴びせかけました」


 黒のナイトが後ろに下がると、白のポーンはまた一歩進みました。


「怖かった。ただ、怖かったのです——思えば、あの鳥を見た時から、なにかいつもと違っていた。異常だった。でもそれに気づいた時には、もう後には引けず、目の前の男はボロボロになっていました。石灰が目に入ったせいで何も見えなくなり、うめきながら、ふらふらと何処かへ消えてしまった。それから、仲間たちはなぜか互いに鳥の入った袋を奪い合い、殺し合いを始めました。わたしは一目散にその場から走って逃げたので、命は助かりましたが、翌日家のベットで目を開けると、ほとんど何も見えなくなっていました。そしていくら待っても、仲間たちのだれも、森から戻ってくることはありませんでした」


 魔法使いは最後の白のポーンを奪い去って、静かに言いました。


「なるほど。いわゆる一種の手詰まりステイルメイトだな。で? お前はそれからどうしたんだ?」


「それはもう、魔法使いさん。どうもこうもありませんよ。打つ手なんてありません。人間、自分の欲望のために道理を捻じ曲げることはいくらでもありますが、チェスではそんなことできません。あの鳥は、きっと千色も、千手先をも見えていたのでしょう。わたしどもが間違っていたんです。あんな美しいものを、手にかけるべきではなかったのです」


 そこまで聞くと、魔法使いは愉快そうに笑いました。


「本当に、本当にお前は素晴らしい人間だな。どうしてそこまで謙虚になれるのか、俺にも教えてほしいほどだ。俺がお前の立場なら、まずこう思うだろうよ。『そもそもなぜ鳥は逃げたんだ?』と。そもそもこいつが逃げさえしなければ、最初から何も起こりはしなかったのに、とね」


 忌々しい籠の鳥。


 子供の頃を思い出して、魔法使いはほんのわずか、憂鬱な気分になりました。家族より世間の目を気にして、他人と違う息子を家に閉じ込め続けた父のこと。占いにのめり込み、現実を見ない母のこと。

 ある新月の夜に、黒魔術の呪いをかけた、気色の悪い鳥のこと。


「申し訳ないが、人生はチェスではない。他の人間が道理を捻じ曲げるなら、こちらも万事を捻じ曲げて応えねばならない。己を省みるのは、立派なことだ。でもそれは同時に楽な道だ。その果ては手詰まり。それは人生への礼儀を欠く行いだ。そうだろう?」


 千手先など読めていたはずがない、と魔法使いは思いました。見た目ばかり派手で豪奢なあの鳥が、じつは占い師の使い魔で、仕事に使える情報を盗み聞くため、昔からあちこちの家に送り込まれていたということは、彼しか知らないことでした。


「それにたとえ何千手先が読めていようと、実際打てるのは一手だけだ。何千色持っていようが、色数が人より多かろうが、全部混ぜたら黒一色しか残らない。また命拾いしたな、ご老体。もしお前が勝っていたら、俺はお前を殺して、約束を反故にするつもりだったよ」


 チェックメイトと言うや否や、魔法使いは白のキングを取り去り、そのまま消えてしまいました。老人はしばらく呆けていましたが、他にできることもないので、またうたた寝を始めました。


 街はしばらく白黒のままでしたが、人々が色のない世界にようやく馴染み始めた頃、ある日突然にして、何事もなかったかのようにまた彩りを取り戻したということです。

 


 


 


 



 

 


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