墨子について

1.墨子・墨家とは


 墨子は、孔子や孟子や荀子らと違って、その人となりについての詳しい記録が残っていない。司馬遷の『史記』に、わずかにその名前が見られるのみである。

 その思想は儒家のそれとは異なっていたが、墨家の思想は儒家に吸収合併され、消滅していったとされている。



2.非命説とは


 非命説とは、墨子が展開した定命論的な思惟である。

それまでの古代中国思想においては、<命>、すなわち「宿命」が存在しているとされていた。 たとえば、<寿夭貧富・安危治乱>等の現象の生起の可能性が、超越的・絶対的な原因によって<命>として決定されているという考え方である。それは<強勁>といえども逆らえない<極>なのだとした。つまり、「宿命論」である。

 墨子はこの意味の<命>を否定した。つまり、ここにおける<命>でいうところの「宿命論」を否定した。「宿命」などというものはなく、たとえば治乱興亡という結果は、為政者の善政か悪政かという原因によると唱えた。「宿命論」を否定したのである。

 墨子は、<命>と言われていたところの「宿命」を認めて、人生を傍観する態度を見過ごすことができなかったのである。

 しかしここで、「宿命」という絶対者Aを否定するならば、別の超越的な絶対者Bを立てなければいけない。なぜならば、「宿命」そのものが絶対的な必然性という意味をもつのであり、「宿命」を否定するならば、ほかの絶対的な必然性を立てなければならないからである。



3.墨子における<天>とは


 墨子における<天>とは、「定命論的思惟」である。言い換えれば、墨子のいう「それ自体が絶対的な必然性」という概念であり、一種の"無制約的存在"のことである。 「善因善果・悪因悪果の完全な応報」の根拠でもある。

 ここでいう<天>とは<天鬼>とも言い換えられ、周における<天>ではなく、殷の時代に守護神として崇拝された<上帝>に連なる存在でもあった。周の時代からは殷の時代の遺民のあいだで守られてきたのである。

 墨子は、それまで単なる<命>の主催者であるとされていた<天>に、人為的・意識的に「善因」「悪因」などを見出し、「善因」はぴたりと「善果」を、「悪因」もまたぴたりと「悪果」を生起させるという、人格神的性質を付与した。

 墨子が否定したかった<命>とは、孟子およびその一派が提唱したところの<命>,すなわち「宿命論」であると考えられる。

 つまり墨子は、孟子の「宿命論」に反対し、人格神的<天>を唱え、現実的かつ実践的な定命論を主張したのである。これにより、『詩経』や『論語』に由来する運命論の問題に、決着をつけようという試みだったのである。

『呂氏春秋』の「制楽篇」に、

 今、窒閉すれば戸牖動く。天地は一室なり。

という説話がある。この<天地>とは、まさしく墨家のいうところの<天>であったと考えられる。「人間の行為を媒介とする<天地>の統一的世界観」の考え方は、墨子の描いた人格神的な<天>であり、「善因」はぴたりと「善果」へ、「悪因」もまたぴたりと「悪果」へ、という「定命論的思惟」のきわめて現実的かつ実践的な解決の試みであった、ともいえよう。これこそが墨子一流の哲学の神髄ともいえる。

 だからこそ、『呂氏春秋』の「制楽篇」におけるこのような<天>の思想により、中国古代における運命論の流れは、いったん完成されてしまったともいえるのだ。そしてそれには、墨子の宗教的<天>の考え、またそこから導き出される理論が中心になっている。

 後に続く中国の思想家たちにも、墨子の運命論は大きな影響を及ぼすことになっていく。このことについては、今後さらに考察を深めていきたい。

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