夏の終わり、時が止まる


 夏休みはひと眠りしたと思えばすぐに終わってしまって、先生に怒られて減点されない程度に手を抜いたやる気のなさそうな課題をリュックに詰めて学校へ向かった。

 この夏の思い出は、いつも通りあまりなくて、誕生日は家族でお祝いしてもらって、それからとにかく本を読んでいた気がする。いつもよりも紙に触れていた。電車の中で汗ばんだ肌が制服を湿らせる。結局あのワンピースはミチと遊んだ日と誕生日に着ただけだった。

 朝礼でのお祈りの言葉は少しだけあやふやになってしまっていて、忘れてしまった言葉を声にはできなくて、視線がどうしても下を向く。神様なんていないと思うよ。世の中ってすごく理不尽で、それも神様のせいにするのなら、私たちは罰されるべきだ。


 ミチと再会したのは始業式から二日後のことで、それまで私たちはお互いのことすら見ていなかったし、連絡もしていなかった。

「元気にしてた?」

「うーん、まぁまぁかな。ミチは?」

「まぁまぁ。」

 大量の本を抱えて図書室の前で鉢合わせしたミチの髪は記憶していたよりもやっぱり伸びていて、後ろでまとめてくくろうとしたのだろう、届かなかった髪の毛が束になって落ちて、首元を少し隠していた。

「そんなに読んだの?」

「実は半分しか読めてない」

 放つように笑うミチは、あのお出かけの日に会った人とは全くの別人のように見えた。何があったかなんて聞く権利もないから、押し込んで会話を続ける。どれだけ繕っても、ミチの読めなかった本たちのこともミチのことも、ほとんど何も知らない私がいることに今更ながらに気付いてしまう。

 借りていた本を返却している間、ミチも私も話さなかった。返すためだけに来ていた図書室を出ると、蒸し暑い空気が肌を撫でた。

「ミチ」

「なあに」

 国語資料室前の掲示板に貼られている誰かの講演会のパンフレットの束の前で足を止めた。

「みて、これ。八年前のパンフレット」

「ほんとだ」

 初めてみた六十は超えているであろう男の人の顔は、焼けて色が褪せている割にははっきりとしている。真っすぐにこちらを見る目は少し厳しそうで、学者の風格を漂わせていた。

「カレン、もう行こう」

 そう言ってミチは、パンフレットをもとに戻して先に歩き出した。出遅れた私は何故か理由もなくそのパンフレットを一枚取って、折りたたんでポケットに入れながら追いかける。

「なんであるんだろうね」

 追いついて隣に並んだとき、ミチは小さな声でそう呟いた。

「おかしいよね。八年前だってさ。」

「先生が忘れてるんだよきっと」

 そう言えば、階段の踊り場でミチの足が止まる。美術部の油絵の方に顔を向けて、ミチはなんの気持ちもこもっていなさそうな声で「かわいそうだね、あのひと」と言った。

「もうすぐ五限始まるよ。行かなきゃ。」

 何も言えないでいれば、ミチは腕時計を確認して私に笑いかけたあと、また階段を下りていく。後ろに飾られた真っ赤な水の中にいる鯨の目が、じっと私を見ていて、足がすくんだ。また、おいていかれてしまう。

 無理やり足を動かして階段を下りていく。ポニーテールが揺れるたびに苦しくなるのは、何が原因なのだろう。

 中学生の頃から伸ばし続けている髪を、突然切りたくなった。



 夏の暑さの種類が夏休み前のやけに水っぽい感じとは違って、少し気の抜けたコーラみたいな日が続いた。爽やかのさの字も見当たらないような生活に慣れていく。

 ミチとはまたほとんど毎日のように図書室で話すようになったけれど、あの日から国語資料室の前は通らないようにしていた。

 ミチが何か言ったわけではないけれど、私はあの場所を通りたくなくて、わざと私が先に歩くようになった。あの場所をもう一度通るときが来るのは、いつだろう、もう来ない気がする。

 だって、私たちはいつも一番大切なことを話せずにいる。


 いくつも、お互いに伏線を張り合って、綱渡りみたいな会話をしているのに、いつも要には触れられない。私も、ミチに触れさせない。そうやって築き上げてしまったから、こうしてなにもいえないまま、それでも一緒にいる。

 お願いだから離れて行かないでと、言う権利すら与えられないようなこの関係を、友達なんていう言葉に当てはめるのは虚しすぎる。

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