また、また、心臓が痛む



 ぼんやりと眺め続けていると近くにいた子ども達は立ち上がって家族の元へ走っていく。自分の子どもの手を握って次のフロアへと歩いていく親子がガラスに反射して見えた。少し腰を折って歩くその姿の奥で、一匹、鱗が剥がれ落ちた魚がこちら側へ向かってくる。

 少し肌寒い。二の腕を手のひらで擦れば鳥肌が立っているのがわかった。

「カレン、そろそろ行こう」

 もうずっと隣にはいなかったミチの声に反射的に後ろを向いた。

「あ、うん。ごめん」

 クラゲの展示されている水槽が並ぶ、ほんの少し紫がかった淡い照明に照らされるフロアは、さっきの大水槽とはまた違う雰囲気だった。フロアを歩いていくミチの黒のジャケットは歩くと軽やかにふわりと浮いて、点状に光を通している。

 私とは違う白のサンダルに黒のフレアパンツ。少しかがんでクラゲに焦点を当てるミチはそこにいて当たり前かのように溶け込んでいた。クラゲだけを追うミチの眼は、クラゲが動くのと一緒にくるくると動く。

 スマホのカメラを起動させて、浮き上がった黄色の点線をミチに合わせる。1枚とればシャッター音が鳴って、ミチは私の方を見た。さっきまでの視線はもうない。少し笑っているような顔よりも、真剣そうなあの表情を見たかったのにと思った。

「撮った?」

「ごめん、嫌だった?」

「いや、不細工に映ってない?不安なんだけど」

 嫌な顔せず、それどころか不安げな顔をして聞いてくる。

「大丈夫、ミチはずっと素敵だよ」

「あはは、ありがとう」

 私らしくないなと思いながら撮った写真を見せれば、うわ、フォトジェニックしてる。カレンカメラマンのおかげだなぁ。なんて言ってまた笑って、着ていたジャケットを脱いで腕に掛けると、また歩いていく。

 水槽の中で見えないくらいの赤ちゃんクラゲが水流に追われて回転する。洗濯機の中みたいって呟けば、ミチは隣で笑う。カレンは面白いね。そう言ってからミチが折っていた膝を伸ばしたのがわかった。それでも私はここを立ち去ろうとは思わなかった。

 混ぜられていくエフィラは死んでしまわないのだろうか。かき回されながらも自ら泳いでいるエフィラはまだ幼くて、きっと海にいても見つけられないくらいに小さい。

「カレン、これエフィラ?」

「どうだろ、勝手にそうだと思ってるんだけど」

「調べる?」

 勧められた気がしてスマホを持ち上げる。画面が明るくなった瞬間、でもまぁ調べなくてもいいかとスマホを片付けた。

「調べないの?」

「後で調べようと思って。」

 あとで、なんて来るはずがないってずっと前に学校で話したこと、ミチは覚えているのだろうか。いつも上澄みみたいな会話ばかりで、大切な話はどうでもいいことの中に隠れてしまう。

 ガラスの向こうで生き物がくるくると旋回しては流される。擦れる音がして、肩に重みを感じた。

「ごめん、寒そうだったから」

 肩にかけられたミチのジャケットは、効きすぎな冷房を適温にしようとしはじめる。暑がり、寒がりの面倒な身体のせいだ。それを考慮して七分丈のシャツを着たのに、予想以上に館内の温度は低い。

「ミチは寒くない?」

 ミチの体温を微かに残したままのジャケットを、私の体温で染めていく。柔軟剤とは違う重い甘さがそこからは広がっていく。ミチってこんな香水もつけるんだ。

「寒くないよ、大丈夫。だから着てて。」

「ミチが恋人みたいだ」

 冗談でもなんでもなく、今、私とミチの間にある雰囲気は恋人のそれに少しだけ似ている気がした。とはいえ私とミチはただの同学年の知り合いで、それ以上でもそれ以下でもない。

「馬鹿だなぁ。優しさだよ。」

「うん、ありがたく着させてもらう」

 そう言ってまたうろうろと魚たちを見る。可愛い。可哀想。全部他人事みたいなフレーズだなと思いながら「かわいいね」と言った。


 気がつけばお土産コーナーの手前で、辺りは子供連れの家族で混雑していた。物を買うにしても買わないにしても出口はこの向こうなのだ。人混みの前で立ち止まってぼんやりと眺める。

「何か買いたいものある?」

「あるっちゃあるけど、別にいいかなぁ。混んでるし」

「今度来た時に買えたらいいね」

「そうだね」

「また来ようね、あの赤ちゃんクラゲが大きくなった頃とかに」

「うん」

 ミチのいう「また」がいつ来るのだろうと思っていれば、上書きされるように指定された境目のない柔らかな約束が降ってくる。ミチが私と一緒に何かをすることを望んでいる証みたいで、照れてしまった。私とミチの中で、「また」ができる感情を持てているその事実が、どうしようもなくくすぐったく思えた。

 小さな子が抱きしめているクラゲのぬいぐるみのスパンコールが光る。今度、もう一度、ここにミチと来た時にあれを買おうと決めた。

 家族同士の暖かそうな会話が響いている。

 ミチの視線はさっきの私みたいで、知らない家族にだけ真っすぐ向いていた。声をかけようにも、どう声をかけるべきなのか、何一つ思いつかない。

 行き場のない手で肩にかかったままのジャケットの裾を握れば、肩でこすれた布から甘い匂いがした。涙が出そうになってミチの手を握った。ミチの手は冷えていて、ジャケットはミチの思いやりだったことに気づいた。

「カレン?」

「あ、いや、ごめん」

「や、このままでいて」

 掠れたミチの声はいつもより低く聞こえた。握り返された手は微かに震えていて、握った手に力を込めた。

「また来よう」

「そうだね、今度は平日にしよっか」

 人混みを眺めながら私とミチはフロアの端で手を繋いだ。私もミチも何かを隠すみたいにたわいもない話を始めた。大水槽のガラスがどうやって作られてあの場所に設置されたのかを勝手に考えてみたけれど、一向にわからないままで笑ってしまった。 

 それでも私たちはお互いの手を離せなかった。何も知らないふりをして、手を繋ぎ続けた。少し心臓が早く鼓動を打っているような気がしたけれど、ミチをひとりぼっちにすることだけはしたくなかった。

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