2. 誇りと抑圧

 カーミラが踊りで身を立てたいと思ったのは八歳の時だ。当時住んでいた街でコンサートがあり、知人の紹介でチケットを譲り受けた一家が見に行こうという話になった。出演していたのは当時著名なソロアーティストで、澄んだ歌声が魅力だと評判の歌手だった。今はもう引退して表舞台には出ていない。

 さて、そのコンサートに来たのはいいものの、どちらかと言えばしっとりと歌い上げるバラードの多い歌手のセットリストは当時八歳の少女にはあまりに退屈だった。アップテンポなナンバーならまだきゃっきゃとわからないなりに飛び跳ねただろうが、歌が続くとそうもいかない。四曲目くらいでついに飽きてしまって、椅子から下りて歩き回ろうとするのを家族に押しとどめられたのは覚えている。


 カーミラの人生を変えたのは五曲目だ。正確には、五曲目で出てきたダンサー。


 あいかわらず心に沁みわたるメロウ・ナンバーが流れる中、カーミラの視線は歌手の横で踊る女性に釘付けになった。ひらひらした薄い衣を両腕に絡ませ、まるで蝶がひらりと舞うようにステージを回る。彼女がターンするたびに服の裾に飾られた銀の装飾が星のようにきらきらと輝き、胸元のスパンコールが煌めいた。

 カーミラには蝶の女性しか見えていなかった。

 青い照明が当てられた舞台は夜を彷彿とさせ、明かりの少ない夜空をわずかな星を頼りに飛んでいく。しなやかな動きにカーミラは魅了された。その人は柔らかい笑顔を浮かべて月の向こうに飛んで行った。


 あの人みたいになりたいと思った。夜に羽ばたく美しい蝶に。

 それからダンスについて猛勉強し、踊りで食っていきたいという娘と大喧嘩した両親に半ば追い出されるように独り暮らしをはじめた。運命の出会いからもう二十年近く経ってしまった。

 二十代後半というのは若さに翳りがみられる時期だ。美しくみずみずしい踊り子を求める娯楽の世界において、今カーミラが置かれている状況はけっして良好とはいえない。


「ショウってのはね、消耗品なんだよ」


 ショウだけに、と一人で笑い転げている痩せぎすの男の言葉を聞いても、カーミラは一切表情を変えなかった。カーミラが舞台に立たせてもらっているとある小劇場の支配人、それが対面に腰かけているこの男だ。

 細くと伸ばした髭を撫でつけながら支配人は言う。


「常に新しいものをお客様に提供するってこと。でないとお客様は飽きちゃうからね。だから」


 支配人の小さい瞳が無感情にカーミラを射抜く。


「君はもう用済みってこと。今度の舞台からもっと若くて元気な女の子を入れるから」

「ッ、待ってください……!」


 予想していた言葉だとはいえ、カーミラもおいそれと引き下がるわけにはいかない。踊りの仕事は安定したものであるとは言えない。ようやく舞台を手に入れてもいつまでも立てるわけではない。こうやって、雇用する側の様々な事情によって簡単に切り捨てられる。新しい風、芸風の刷新、経済的事情、その他さまざまな理由によって。

 踊ることを奪われるのは、カーミラにとって生きる意味を奪われることでもある。


「新しいラインナップを顧客が求めているというのなら、ダンスのナンバーを変えます。レパートリーはまだたくさんありますし、照明や演出で違う印象を与えることも」

「要らないって言ってるのがわからないかなあ!」


 支配人が声を荒げた。痩躯から出た予想外に大きな怒鳴り声にカーミラも息を呑む。そうして声を落とし放たれた一言に、今度こそカーミラは何も言えなかった。


「そんなに踊りたいなら裏通りでポールダンスでもやってればいい」


 ***


 侮辱だった。踊りを生業とするものへの侮辱だった。

 ポールダンスを貶める意図はない。カーミラが主とするのはエキゾチックな雰囲気を纏わせた舞だ。道具を用いた踊りはあまりやってこなかった。ただ、できない、という意味ではない。もし新しい踊りとして必要だというのなら、カーミラは生き残るために自分にはない要素も積極的に取り入れるつもりでいた。今まで培ってきた踊りへの誇りもあるが、それ以上にカーミラの原動力は「見ている人を虜にすること」だったから。

 だがしかし。あの支配人の言葉はそんなものではない。この裏通りにあるのは歓楽街だ。「用済みになった女」に対する尊厳のかけらも感じられない言葉に、カーミラの身体は行き場のない怒りをぐるぐると回している。見世物小屋にぶち込まれるのはごめんだ。


 こういう気分の時は一杯ひっかけたくなる。一杯では済まない。飲んで飲んで飲みまくって前後不覚になるまで脳をどろどろに溶かして、最悪だった記憶を夢幻のカテゴリーにぶち込んでしまいたくなるのだ。そういったときに行く店は仕事先デルフィネではない。ただの客として入り浸っているバー「銀の鈴」。


 カウンターに一人で腰かけて、メニューも水にバーテンダーに声を掛ける。度数の高いきつめの酒を。そう言っただけで向こうは事情を察してくれる。


「今日も荒れてるねえ」

「荒れてないときは来ないわよ、こんな店」

「それはそれは、参ったなあ」


 バーテンダーは大して参っていない口調でおどけてみせた。それもまたカーミラの神経を逆撫でする。気心の知れた相手というのは良い反面、わかっていて怒らせることをするから手に負えない。

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