第23話 病室と切り札

 




【水鳥 麗 八回目】


 その光景を見て、嫌な予感がした。

 白い壁に白い床、白い天井。薬品の匂い。ここは病院だ。病棟の狭い真っ直ぐな廊下と、せわしなく動いている看護師の姿が視界に映る。

 私は呆然とその光景を見ていた。


 ――なんで……病院……


 どっと嫌な汗が噴き出てくる。


 ――まさか……いや、ただの怪我……ただの……


 そう、思っていたのも束の間、精神科病棟であることを知り、半ば絶望的な気持ちになる。


 ――いや、きっと鬱病か何かだ。きっとそうだ。


 私は辺りを見回して事実を探す。探したくもない現実を探す。何かの間違いであってほしいと何度も瞬きをする。

 瞬きをしている間に、景色が変わってくれるのではないかと心の底から願っていた。

 先ほどまで感じていた彼の身体のぬくもりを思い出す。「行かないで」と縋った彼の言葉を思い出す。


「………………」


 いくつか見た病室の名札の中に『木村冬眞』とはっきり書かれているのを見つけた。

 私はその重苦しい扉を開けたくなかった。

 ここで終わりにしたい。扉を開く前のここでお終わりにすれば、少なくとも最悪の結末を知らずに済む。

 扉を開けるのが怖い。扉の取っ手を掴む手は震えていた。嫌な汗が噴き出してくるのを感じる。身体が熱い。

 それでも、私は覚悟を決めて開かなければならなかった。知らずに終わるなんてことはできない。

 息を整えて、私は扉をノックする。


 コンコンコン……


 扉を開けようとするが、手を動かせない。想像しうる最悪の結果が目の前にあるような気がして。


 ――やっぱり物語をここで終わりにしよう。何も知らないまま、終わりにすればきっと――――……


 そう、思いながらも私は止まりそうな心臓を抱え、扉を引いた。

 個室の部屋だ。奥に大きな窓が見える。その窓には鉄格子がついていた。

 鉄格子があるという時点で、私はそこが何の病院なのか、ここが何科の病棟なのかを再確認する。

 私が様々なことに思いを巡らせていると、以前よりも髪の毛が伸びている青年がこっちを向いた。

 紛れもない、木村君の姿だった。


「……どちらさまですか?」


 その言葉に、私は戦慄した。

 地獄とは、死後に無限に苦しむものなのではない、今まさに私が知覚している現実こそ、本当の地獄だ。

 まるで、鈍器で後頭部を殴打されたような。という表現があるが、そんなものではない。ダイナマイトを身体に括りつけられ、それが起爆し身体が全部バラバラになってしまったかのような衝撃が走る。


「日隈……弥生……」


 自分の名前すら、名乗れない苦痛が更に苦痛を増す要因となる。


「日隈さん? 確かに私の知人に日隈という方はいますが……同姓同名の方ですか? 彼女はもう死んでしまいましたから……」


 その返事に硬直する。

 時間が止まる。

 私の時間だけ、₋273.15℃に凍てつき固まる。少し触れたら粉々に砕け散りそうなほど。軋みながらもゆっくりと時間は過ぎていく。


「木村君……どうして入院しているの……?」

「解りません。医師に『統合失調症』と言われましたが……ここは頭のおかしいラジオ放送がうるさいので止めてもらいたいです。家に帰りたいですね」


 ラジオ放送など、私には聞こえない。

 幻聴だ。

 恐れていたことが起きてしまった。


 ――どうしてだ。白蛇がとりついていないのに。白蛇は私に憑いているのに。


 私が唖然として木村君を見つめていると、彼は不思議そうな顔をして私を見つめ返してくる。

 絶望のあまりに、なんと声をかけたらいいか、解らなった。

 こうなる運命だったとでも言うのか。木村君はこうなってしまうのだと。こうなってしまったらもう、明確な話を聞くことはできない。


「…………」


 ――受け容れるしかないのか? どうしてもこうなってしまうのか? どうしてこうなってしまったんだ。私はどこで間違えた? それとも、先天的に二十二番染色体に異常でもあるというのか? しかし、一卵性双生児の実験では……


 思考がぐちゃぐちゃにかき乱される。

 これを回避できる術が全く思いつかない。私は冷や汗と、動悸と、絶望感で経っていられなくなり、膝をついた。


 ――駄目だ、どうしよう……


 死刑。裁判。殺人。狂気は包丁。死刑。二人の男。チミン。染色体異常。毛質症候群。統合失調症。アデニン。死刑。精神疾患。殺人。死刑。殺人。心神喪失。シトシン。死刑。無罪。拘置所。グアニン。死刑。死刑。死刑。死刑。殺人。血。統合失調症。ゲノム解析。死刑。塩基配列。死刑。拘置所。手紙。死刑。モノアミン。死刑。死刑。殺人。殺人。死刑。裁判。死刑。別れ。死。

 死。死。

 死。


 死。


「はぁ……はぁ……」


 呼吸がうまくできない。苦しい。どうしたらいいか解らない。何も解らない。


「どうしたんですか?」


 私は壁に背をつけてそのまま膝を抱えた。この先の未来が過去の繰り返しなら、木村君は私に会わないまま実刑になる。

 なんの心の救いもないまま。

 最初よりももっと悪い。


「ごめん……ごめん…………」


 ――こんなの、あんまりじゃないか。やっとうまくいくと思ったのに。結局彼は地獄を見ることになってしまう。


 涙が溢れて苦しい。


 ――なら、これが避けられない未来なら、もう誰かに頼るしかない。彼のお母様では駄目だ。もっと詳しい人。もっと………………そうだ、関野教授ならきっとこの子を助けてくれる……


 私はフラフラと立ち上がって、もう一度彼を見た。弱々しい表情。不安げで辛そうな顔。整っている顔立ち。


「あの……大丈夫ですか?」

「大丈夫なわけ……ないよ……」


 私は涙を拭いながらもう一度、彼の姿を見つめる。


「ごめん……またくるから……」


 彼に背を向けて病室を出た。

 白蛇に問う。


「教授のいるところまで……すぐ行きたい。血液、使っていいから……すぐに……」

「100mlいただくが、それでもいいなら構わない」

「いいよ。使う」


 首に鋭い痛みが走り、教授の研究室の前の扉まで飛んだ。

 私は泣きながらノックをした。懐かしい研究室。中から「はーい」という声がして、私は扉を開けて入った。

 関野先生が本を片手にこちらを見て、驚いた表情をしていた。


「おぉ、水鳥さんどうしたの? なんで泣いているの?」


 いつも通りの優しい教授の声。私はなんて言って良いかも解らずに、頭を下げた。


「教授……助けてください……」

「どうしたの?」


 細かく説明している暇はない。


「今、京都の×××病院に入院している『木村冬眞』という人を助けてください……!」


 何の説明もできない私は、それでも必死に頼むしかなかった。


「私では……できないんです……っ……教授に……お願いするしか……なくて……重度の統合失調症なんです…………このままでは彼は助から……なくなってしまう……何を言っているか解らないかもしれませんが、お願いします……‼」


 教授は突然のことで訳が解らないという様子だった。混乱しているのが伝わってくる。


「水鳥さん、ごめん。どういうことか説明してくれるかな?」

「時間がないんです……どうしても、言えなくて……でも……教授にしかお願いできなくて……これ以上……彼が苦しむのは見ていられなくて……」


 堂々巡りの押し問答だ。

 私はその辺にあった紙に木村君の名前と、病院の名前と、統合失調症であることをメモして、無理やり渡した。


「私も……できればこんなこと……したくなかったんですけど……もう、これしかなくて…………ッ……」


 私はまた深々と頭を下げて、そして泣きながら研究室を飛び出した。

 もう駄目だ。傍にいられない私では、どうにもできない。


「木村君の病室に移動させて。血液は同じ量払うから」


 涙で顔面がぐちゃぐちゃだ。

 でもそんなこと気にしている場合ではない。結局こうなってしまったのだ。なら、きちんと治療をして絶対に人を殺さないようにすればいい。

 でももう私にはできない。

 統合失調症に詳しい教授ならなんとかしてくれる。私はどうなってもいい。

 私は再び木村君の病質の前に来た。再び相対する木村君は泣いている私を不思議そうな顔をして見ていた。明らかに戸惑っている。


「お願い……君を助けたいの……」


 真っ赤に泣き腫らした目を向け、私は必死に訴えた。


「……君を助けたい。でも私には……できなくて……ごめん……」


 伸びっぱなしの黒い髪に、飾り気のない黒ぶちの眼鏡と服装。

 泣いているせいで、声は酷く震えていた。


「この人なら、絶対に……君を……助けてくれるから……」


 そう言って、木村君に名刺を一枚渡す。

 なぜだろう。どうして君は私を忘れてしまったの? でも私の名前は日隈弥生じゃない。


「なんで泣いているんですか?」

「…………」

「なんであなたではできないんですか? あなたと話がしたいです」


 ――私だって、君ともっと話ていたかった……


「……私には、時間がないの……もっと、君と話がしたかった……」


 私は木村君に歩み寄り、涙で濡れた手で彼の頬に触れる。

 涙が止まらない。止まる訳がない。こんなに悲しいのだから。

 戸惑い、どう答えていいか解らずにいる木村君から手を離して、私は少しだけ離れた。


「もう、行くね…………」


 躊躇いと迷いが、木村君を見て窺える。


「最期にひとつ……憶えていてほしいことがある……」


 彼の目を見つめる。

 どうか、私の名前くらいは憶えていてほしい。


「私の名前は………水鳥 麗。私の本当の名前は水鳥麗って言うの。それだけは覚えておいて……」


 そう木村君に告げた瞬間、白蛇は大きな口を開けて冷たく言い放つ。


「契約違反だぞ、娘」


 白蛇は私の首元に深々と噛みついた。




 ◆◆◆




 蛇に咬みつかれた直後、私は自分の家に戻ってきた。蛇は私の首から牙を抜き私から離れる。白く、神々しい大きな蛇がとぐろを巻いて私の方を見据えた。

 赤い瞳は冷たく、私の方を正視している。


「愚かな……契約違反など……」

「構わない…………でも……ひとつ、聞いてもいいか……」

「なんだ」

「教授に会った時間軸の私は、普通に生活して今日にいたるのか?」

「そうなる」

「それじゃ駄目だ。私をあの日から今日まで消してくれ……」

「何故だ」

「教授が当時の私に会ったら話の辻褄が合わなくなるだろう……この世の理が歪むぞ……隠蔽に加担してやろうっていうんだから、いいだろ? 必要なら残りの血も全部くれてやる……」


 白蛇はしばし考えた後、私の提案を受け入れた。


「いいだろう。ではお前のあの『時』から今までの『時』をいただこう」


 その言葉を聞いて、安心した。白蛇は私の身体に巻き付いた。

 それと同時にゆっくりと私の身体に異変が起き始めた。

 何もしていないのにもかかわらず、身体がまるで包丁で刺されたかのように刺し傷がいくつもでき始めたのだ。

 鋭い痛みで私は魔法陣の上に倒れ込んだ。いくつもいくつも、何度も何度も刺される包丁を私は感じた。

 これが白蛇の言っていた私の死に様。当時木村君が人を刺殺したときの傷。これなら、私も受け入れられる。


 ――でも、まだすることが残っている。


「その血も気高さもすべて私がいただこう。煉獄で罪を焼かれ苦しむがいい」


 白蛇が舌を出し入れし、私の頬を撫でる。


「お前も……道連れだ……」

「……何を言っている?」

「ぐぁあっ……あっ……間抜け……だな……こ……の魔法陣は……魔を……捕え……あぁああっ……魔法陣……だ……っ……命を払……完……せ………………」


 寒い。

 酷く寒い。

 痛い。

 冷たい。

 身体が動かない。

 意識も遠くなっていく。


 ――でも、いいんだ。君が幸せになってくれるなら。これでよかったんだ……


 私は安らかに痛みに抱かれ、愛する君に殺された。



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