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 その後、西岡さんは全てを語ってくれた。


 事の始まりは三月初旬の暖かい日だったという。漫画好きだった西岡さんは三井書店では漫画を取り扱っていなかったため、元々遠い森瑛堂までわざわざ来ていた。とは言っても三週間に一回ぐらいの頻度だ。


 そんなある日、本の陳列をしていた香菜さんを見かけたのだと言う。『桜桃』を手に穏やかに微笑む香菜さんを見て、思わず心が惹かれたらしい。


 それから二週間後。たまたま並んだレジの担当が偶然にも香菜さんだったらしいのだが、西岡さんはあろうことか財布の中身をばら撒いてしまった。あたふたと謝る西岡さんに香菜さんは「全然気にしないでください」的なことを言い、微笑んでくれたのだという。それがトドメとなり、完全に恋に落ちたらしい。


 それ以降、西岡さんは頻繁に森瑛堂に通うようになった。

 しかし、そのうち香菜さんの話に男の影が見えるようになる。


 諦めよう。そう思ったのだそうだ。

 が、さらに事態は動く。香菜さんの話に心中という言葉が出た。いくら愛し合っていたとしても、心中は良くない。もしかしたら、男の方に騙されていることもあるのではないか。そう考えた西岡さんは、結果リクエストカードを出した。


 最初は香菜さん宛だと分かるように名前を書いていたのだが、怪しまれると思い、名前の部分は切り落としたのだそうだ。


 「なるほど」と、真宮が息を吐いたその時。

「あれ? 何してるの? え、チェックさんも?」

 店の外に香菜さんが立っていた。



 さすがにこの距離で会話し続ける訳にもいかない。香菜さんにも中に入ってもらうことにした。

「香菜さん、どうしたんですか?」

 真宮が問う。香菜さんは緑のエプロンを外していた。

「ちょっと、用事があってね。まあ、急ぎじゃないから大丈夫」

 それから、香菜さんはミルクティを注文すると、私たちの席を見た。今はソファ席に西岡さん、向かいの椅子に私と真宮が座っている。いきなり西岡さんと香菜さんを並べて座らせるのは、両者においてハードルが高いだろう。だから真宮を小突いてみると、素直に立ち上がり席を空けてくれた。


 香菜さんは空いた真宮の席に座るやいなや、

「で、これはどういうこと?」

「あー、それなら、痛っ」

 下から真宮の足を蹴っておいた。今この場で真相を語るということは、西岡さんの恋情をバラすことになるのだ。何か良い伝え方を考えないといけない。


 とは言え、西岡さんの想いをバラす以外に上手く説明する方法が思いつかない。

 どうしたものかと考えていると、急に西岡さんが立ち上がった。え、と思った時には、さっきまでとは違うよく通る声がまっすぐに響いた。


「リクエストカードのこと、すみませんでした。本当にすみませんでした‼︎」

 そして勢い良く頭を下げた。店内の視線が一気にこちらを向く。


「え?」

 そう言えば、香菜さんには西岡さんの話をしただけで、リクエストカードの話はしていなかった。そっと耳打ちすると、

「……何でそんなことしたんですか?」

 香菜さんは静かに、そう切り出した。


「何か理由があるんですよね」

 西岡さんはどう応えるのだろうか。思わず息を飲む。

 西岡さんは一度深呼吸するように大きく息を吐くと、途切れ途切れに呟いた。


「……あなたを、気にかけていたんです」

「私を?」

「はい。『桜桃』の陳列をしていた時から気になっていたんです」

 きつく握られた手は、小さく震えていた。上手くいけば良いのに、と柄にもなくそんなことを思った。


 西岡さんはついに腹を決めたように、香菜さんの目を見つめた。

「好きなんです」

 店内の喧騒が一気に遠のく。その時、確かにこのテーブルだけ時が止まっていた。


「そう、なんですか」

 香菜さんが呆けたように言った。

「はい」

 まだ西岡さんは震えていた。けれど、その声はしっかりとした強い声だった。


「そうなんだ……」

 香菜さんは天井を仰ぐ。その顔は私には見えない。

 ふいに香菜さんが西岡さんを見据えた。その目にはらんらんと狂気が光っていた……あれ?


「やっぱ太宰いいよね! いや〜、同士が見つかって嬉しい!」

「「「え?」」」

 香菜さんの以外の三人の声が重なったのは、言うまでもなかった。


「私が陳列してた『桜桃』で興味を持って、好きなったんじゃないの。太宰のこと」

「「「………」」」


 要は西岡さんの言った「(香菜さんのことが)気になっていた」を「(『桜桃』のことが)気になっていた」に、「(香菜さんのことが)好きなんです」を「(太宰のことが)好きなんです」に意味を取り違えた、ということらしい。


 思わず真宮と顔を見合わせた。その間にも香菜さんは西岡さんに迫りつつ、どの作品が好きか、とかどの文が好きかと訊き続けている。


 どうする? どうするも何も、どうもできない。目線だけで真宮と会話してみたけれど、特に解決策はなかった。



 結局、香菜さんはその後三十分語り倒した。それはもう凄まじい勢いで、ミルクティを置きに来た店員が一度フリーズしたほどだった。


 私たちはただじっと待ち続けた。その時に飲んだ冷めた紅茶は、今までにないほど苦かった。


 そして香菜さんが満足したのを機に店を出た。

 お会計は西岡さんが持ってくれた。何でも迷惑を掛けたお詫びらしい。


 その後、香菜さんと真宮は森瑛堂へと帰って行き、西岡さんと私は一階へと向かうエスカレーターに乗っていた。


「西岡さん、あの、誤解解かなくて良いんですか?」

 二つ前の段に乗る西岡さんの背中に訊いてみた。すると西岡さんは振り返って、少しはにかんだ。


「別に良いんです。会話して連絡先交換できただけで大きな進歩です」

 知らぬ間に連絡先まで交換していたらしい。香菜さん、相当仲間に飢えていたんだなあ……。


「いつかちゃんと誤解は解きます」

 西岡さんがぽつりと零した。

「今まで手をつけたことはなかったけど、太宰、読んでみようと思います」

 あの人の世界を少しでも知りたいので、と西岡さんは顔を真っ赤にして言った。


「誤解を解くのはそれからです」

 恋とはそういうものなんだろうか。そんなことを思いながら、私はさくらんぼの花言葉を思い出していた。


 今日はやたらとエスカレーターが長く感じた。

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