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私は文学コーナーに戻り、まだ納得のいっていない真宮は、なぜか例のリクエストカードを富田さんから貰い、本をまた物色し始めた。
それから、大体二十分ほど過ぎただろうか。私と真宮は書店入り口近くで木原さんに向かい合って立っていた。
「今日はとりあえずこれで帰らせてもらいます」
「ありがとね」
頭を下げると、木原さんはひらひらと手を振ってくれた。それから思い出したように顔を上げて、ポケットからスマホを取り出す。
「そうだ、千尋ちゃん。交換しとこ?」
「あっ、連絡先ですね。はい」
リュックのポケットを探ってスマホを取り出す。私の無難な単色手帳型ケースと違い、木原さんのそれはさくらんぼが一面に散った華やかなものだった。
真宮がそれを見るなり、声を上げる。
「そう言えば、今年もそろそろですか」
「そうなんだよ〜。だから今年もケース変えちゃった」
えへっと木原さんが茶目っ気たっぷりに笑う。それに対して真宮も「今年ももうそんな時期かー」と感慨深そうにしている。つまりついていけていないのは私だけ。何のこっちゃ全然分からない。今年もそろそろ?
「何のこと?」
「え、知らないのか?」
こそっと耳打ちした甲斐もなく、真宮は馬鹿デカイ声を出しやがった。
「あれっ、《マグノリア》のメンバーなんだよね? 知らない?」
あ。
そう言えば、まだ説明してなかったか。
私はほんの少し時間を借りて、本は読まないこと、実は理系であることなどをかいつまんで説明した。
「あー、そうなんだ……」
木原さんは一瞬困惑の表情を見せたが、穏やかな笑顔で教えてくれた。
「桜桃忌がそろそろなんだよ」
「桜桃忌?」
「うん。命日のことをそう言うんだ。ちなみに誕生日でもあるんだよ」
こんなに嬉しそうにしているということは、太宰の話だろう。
「へえ、そうなんですか」
すると、真宮も後を引き継ぐように言う。
「『桜桃』は夫婦喧嘩を中心に描かれる家族の崩壊と、その苦悩を描いた作品なんだ」
「はあ」
「因みに桜桃はさくらんぼのことだ」
「それは知ってる。そろそろって、来週ぐらいですか?」
一応訊いてみると、
「うん?六月十九日だから後一ヶ月くらいだよ」
「……え?」
それはそろそろと言わないのではないだろうか……。まあ、あれか。小学生とかが遠足が楽しみすぎて、やたら早くに準備をし終える、あれと一緒か。
「あー、まー、そろそろですよね。そうだ、連絡先早く交換しちゃいましょう」
適当に誤魔化して、連絡先を交換する。
「ありがとうございます、木原さん」
「せっかくだし、下の名前で呼んでよ」
「じゃあ、香菜さん」
「うん、気をつけて帰ってね」
頭を下げて、出口に足を向けると、
「あ、そうだ」
香菜さんの声が追うように聞こえて来た。
「せっかくだし、読んでみる?」
「え」
「そうですね、それがいいですよ!」
言うが早いか、香菜さんは私の手に一冊の文庫本を押しつけるように持たせた。
「ゆっくりでいいからね」
****
四時五十四分発の電車は、中途半端な時間帯だからか、人は少なかった。本当はもっと早い時間に本屋に来ることもできたのだが、毎日統一した時間の方が香菜さんにも迷惑がかからないという真宮の判断により、この時間になったのだ。
座席に座って、リュックを前に持ってくる。そのままぼーっと長く連なる黄ばんだライトを見上げた。
何の気なしにリュックに目をやる。どうせ十分間の乗車時間、何もすることはない。せっかく渡されたんだから、読んでみようか。
ファスナーを開けて、中を見ずに手探りでさっきの文庫本を探す。出て来たそれは、白地に花柄の布製ブックカバーをつけていた。ところどころ綻びはあるが、保存状態はかなりいい。香菜さんがいかに太宰を好きかが、よく分かるような気がした。
香菜さんの顔を思い浮かべる。そう言えば、香菜さんの喋り方はどこか不思議な感じというか、掴み所がないように感じる。何でなんだろう。
表紙をめくってみる。そこには無表情且つ妖艶な明朝体で『桜桃』の文字。
桜桃、か……。
ふと、思い出したことがあった。
中学の時だったと思う。理科の先生がさくらんぼの花言葉を教えてくれたのだ。見た目がなかなかいかつい先生だったから、『花言葉なんて柄じゃないなあ』なんて失礼なことを思った覚えがある。実際さくらんぼの花言葉はその先生に似合わないほど可愛らしかった。
何だったっけな。何となくノスタルジーな気分になって、自然と笑みが零れた。
……
…………
………………本当に何だったっけ。えっと、えっと。喉元までは来てる、はず。あー、出てこない。何だったっけなあ。なんか凄い可愛かったやつ。
後で思えば、ノスタルジーぶち壊しだった。
****
翌日は最終の六限が終わって、少し地下書庫で時間を潰してから、森瑛堂に向かった。七限の日と時間を合わせるためだ。
「どうだった?」
着いて早々に満面の笑みの香菜さんに訊かれた。
「あー、あれですか」
「そうそう」
一応昨日の夜、読もうとはした。しかし、
「どう?」
香菜さんが少しずつ近づいてくる。まあ、不可抗力だ。
「すみません。やっぱり難しそうだし、時間がなくて読めませんでした」
それから、リュックの中の文庫本を取り出し、頭を下げるようにして香菜さんに渡した。
「本当にすみません」
「いやいや、気にしないで」
香菜さんは柔和な笑みを浮かべると、私から本を受け取った。
「貸してくださってありがとうございました」
「いえいえ。こちらこそありがとう」
香菜さんは穏やかに微笑んだ。しかし、その直後。
「でも……いつか好きになってくれるって信じてるから」
ふふっと恍惚とした笑みを浮かべた。
「あっ、私、もう行ってきますね!」
何とも言えない危険を感じて、私は一目散に逃げ出した。
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