氷はいずれ溶解する

 燈火ともか彩氷あやひを愛していたし、それは彩氷も同様だった。


 4歳の時に出会って以来、ずっと一緒。得意な教科や目指す将来の夢こそ異なっていたけれど、性格や趣味、物事の考え方は非常に気が合った。

 子どもの頃は互いの気持ちを友情だと解釈していたが、高校生になってからそれが愛情であることに気付き、より深い関係へと変化した。

 その思いはもちろん、大学生になってからも続いた。学部や将来目指す夢はバラバラだったが、二人の心は決して離れることはなかった。


 幸せに過ごしていた二年生の三月。


 彩氷はあっさり命を落とした。

 風呂場で転倒し、額を浴槽のヘリに強かに打ち付けて。




 あまりに突然すぎて、燈火には全てが理解不能だった。慌ただしく通夜や葬式が進められていく中、燈火だけが時間の流れに取り残されたように呆然としていた。


 二人で一緒に年を重ねて、一緒に百歳くらいまで生きて、同じくらいの時期に天寿を全うするものだと、それが確定された未来だと信じ込んでいた。他の未来があるとは思ってもみなかった。

 万が一そうでないとしても、死に際に相手に向かって最後の言葉や遺言を遺したりするものだと……

 全く予想外の理由で、いつも心に寄り添ってくれていた大切な人がいなくなった。早すぎるにも程があった。

 本当に悲しい時は涙も出ない、とよく言うが、事実なのだと知った。

 



 彩氷と燈火の関係を知る彩氷の家族や友人達は、自分達自身も悲しみに暮れつつも燈火の心配もした。あれほどの仲にあった存在を亡くしてしまったことで、壊れてしまわないか、と。

 けれど直後の約一週間こそ上の空だった後は、周囲の人々の予想に反し、燈火は普段通りであり続けた。頼りがいがあって、笑顔の絶えない燈火のままで。だから周囲は、燈火は強い人なんだ、と囁きあった。

 燈火がひた隠しに隠した胸の内など、誰も知らなかった。


 それでも、状況をようやく受け入れてからは、自分自身は今を生きなければ、と決意した。月並みな言葉だが、彩氷の分までたくさん生きなきゃ。いつか自分が死んだら、楽しい土産話をたくさん持っていけるように、と。

 彩氷がいなくなる前の自分を忘れず、努めて明るく振る舞い続け、生き続けた。




 平気なつもりだった。

 平気なふりをし続けた。

 実際、世界は彩氷がいなくなって少し悲しみはしたが、それ以外は何一つ変わらず、何事もなかったかのように回り続けていた。

 日々を忙しく過ごしながら、そんな世界に少しずつ慣れていきつつあった、はずだった。


 けれど二年ほど経ったある日、突然限界が来た。

 限界が近づいているという自覚すらなかったのに、急に。

 卒業式も間近の春の日、大学の食堂で期間限定のランチを食べていたら、何の前触れもなく、全身が悲しみの海に沈められたように感じた。何故そのタイミングだったのか分からないが、唐突に気付いてしまったのだ。

 彩氷がいないのに平気だなんて、異常だと。


 


 彩氷。彩氷。彩氷。

 会いたい。会いたいよ。今すぐ他愛ない話をしたいし、抱きしめたいし、キスだってしたい。

 一緒に外出だってしたいし、君が夢を叶えてあの仕事に就いて働く姿を見たかった。

 大学卒業したら、一緒に住みたいって話もしてただろう。どうして、どうしていなくなってしまったんだ。

 私の隣にはいつでも彩氷がいた。それなのに、君がいなくなった今でも、私は生きてて、生きることに忙しくて、君を忘れている時間が長くなった。

 君のために生きると言いながら、君がいなくても笑っている自分がいる。お昼に何を食べようかと悩んで、選んだランチを普通に食べている自分が、今ここにいる。


 もう一口だって喉を通らず、半分以上残したランチを下膳し、トイレに駆け込んだ。無我夢中で今食べた物を吐き出していたら、じわりじわりと涙が溢れてきた。彩氷を失って以来、初めての涙が。

 ダメだよ、涙は出たらダメだよ。悲しいんだ、本当に悲しいのに。

 一度崩壊した涙腺は、持ち主の言うことを聞かなかった。

 



 その日から、彩氷に会いたくて会いたくてたまらなくなった。

 表向きは昨日までと変わらず、笑顔の演技を続ける自身に激しい嫌悪感を覚えつつも、思考の中心を占めるのは常に彩氷のことだった。

 形見分けとして彩氷の家族にもらった彩氷の衣類や書籍、雑貨類を眺めては、もういない彩氷は、けれど本気で探せばこの世のどこかに存在しているのではないかと思い耽った。

 探しに行かなければ。彩氷を見つけ出して、生き返らせてあげなければ。と。




 暇さえあればネットを漁って、「亡くなった人 生き返らせる」などと検索するようになった。検索結果には端から目を通し、目ぼしい情報がなければワードを少しずつ変えながら検索した。まるで何かに取り憑かれたかのように、スマホに齧りついていた。

 そしてある晩。あと一時間ほどで日付が変わるという時間帯だったが、買い物の帰り道だった燈火は、遂にとてもいいと思われる方法にたどり着いた。

 「素人が行った場合は、時間が経つにつれて少しずつ綻びが出てきてしまう可能性が高い」という注意付きだったが、一読して喜びがこみ上げた。

 すごい。これなら「彩氷」にまた会える。確固たる確信が湧いた。


 興奮したまま家から徒歩五分ほどの場所に到着し、ふと電信柱に寄り掛かる人影を見て、燈火はひどく驚き…… 歓喜した。

 イヤホンを装着し、スマホの画面を睨むその人物が、彩氷にそっくりだったから。

 まるで生き写しのように。生き返ってきたかのように。


  きっと神様だ。神様が私をさっきネットで見た方法へと導いてくれて、しかも彩氷の代わりにしていいよってことで、あの人をここに連れてきてくれたんだ。そうに違いない。

 訝しむ思考回路など、残っていなかった。




 良かった。こんな近所にいたんだな。知らなかったよ。


 音もなく、その人物の背後に回り込む。相手は全く気付かない。


 寂しかっただろう。私もだ。


 買ってきたばかりのビール瓶を高々と振り上げる。


 大丈夫だ。もうすぐまた会えるからな。


 その人物の後頭部めがけて、力いっぱい振り下ろす。


 ずどんっ


 微かに漏れた「うっ」という呻き声まで彩氷の声にそっくりで、ああ、やっぱり彩氷だ、と嬉しかった。




 気絶させた「彩氷」を自宅まで引きずって連れ帰り、クローゼットに閉じ込めた。逃げないように手足を拘束して声も出せないようにした。

 教えてもらった方法を実行するための準備を終え、クローゼットの中を見たら、「彩氷」が目を覚ましていた。

 ひどく怯え、全身をガタガタと震わせている、「彩氷」。

 可哀想に。でも、もう怖がらなくていい。何故なら。


「やっと、また会えるな」


 右手を「彩氷」に伸ばし、

 自身の記憶にある限りのこれまでの彩氷との大切な日々を、

 嬉しかったことも、

 悲しかったことも、

 喧嘩したことも、

 思い出せる全てを思い出しながら、

 ネットで学んだ通りの動作をした。


 「彩氷」は一瞬動きを止めてから、怯えていたのを忘れたかのように、ゆっくりと瞼を閉じた。

 今にも踊りだしたくなるような気持ちで「彩氷」を凝視した。今か、今か、と目を覚ますのを待った。


 永久にも思える長い時をはさんで…… 遂に「彩氷」は、目を開けた。

 燈火と「彩氷」の目が合った。




 違う。

 彩氷じゃない。


 目があった瞬間、自分がとんでもないことをしでかしたのに気が付いた。今まで気付かなかったことが異常すぎた。


 ネットで見たのは、「ある人物の全ての記憶を消し去り、代わりに別人の記憶を植え付ける」という呪術のやり方だった。

 普段の自分ならばそもそも信じることすらしなかっただろう。けれど、藁をもすがる思いでいっぱいだった頭は、喜んで間違った藁に縋ってしまった。


 外見や声がそっくりで、彩氷の記憶を持った人間ならば、それは彩氷だと思った。

 もう一度会える。生き返らせてあげられる。そう思った。


 どうかしていた。彩氷という人間は一人しかいない。そしてその一人は、もうこの世にはいない。こんな方法、「生き返らせる」とは言わない。


 今自分が生み出してしまった「彩氷」と目が合って、ようやく我に返った。

 彩氷のような外見で、きっと彩氷と同じ記憶を持っていて、けれど、この人は彩氷じゃない。直感がそう告げた。


 なんてことを。自分は今、あれほど愛していた彩氷を侮辱した。彩氷以外の他人を「彩氷」として愛することで、自分を癒そうとしていた。彩氷ではなく、自分だけのために。


 彩氷はもうどこにもいない。手の届かないところに行ってしまった。二度と会えない。

 今やっと、その真の意味を理解した。


 それだけじゃない、自分はたった今、こんなことのために、彩氷に似ているだけの全く無関係な人の人生を破壊した。記憶を奪って、全然違う役割を押し付けた。

 この人の大切な人達も苦しめることになる。あの頃の私のように。


 何よりも、大切な人が頭を打って亡くなったのに、大切な人にする予定の人の頭を殴った。


 自身の行為を一瞬のうちに後悔し、もたらした結果に激しく動揺し…… 目の前が真っ暗になりそうになって……


 けれど。

 「彩氷」ではないその人物が、燈火と合わせたままの目を緩ませたから、燈火の感情はピタリと停止した。


 「彩氷」ではない。けれど、この子は、今自分を見て。

 かつて彩氷が自分にしてくれていたのと同じように微笑んだ。


 直後、再び眠りに落ちてしまった「彩氷」に巻きつけたガムテープを剥がしながら、燈火は決心した。




「君は彩氷ではない。だが、君本来の記憶を完全に失い、自分を彩氷だと思い込んでいるんだと分かった。

 だから、彩氷として接しなければと思った。君をさらった翌々日は、就職のために上京する日だった。他の誰にも秘密で君を連れ出して、かつての彩氷の所有物を持ち出して、怪しまれないように彩氷が持っていたのと同じスマホも買って、彩氷と約束していたように一緒に暮らすことにした。

 けれど、書いてあった通りに綻びが…… 君はいずれ、少しずつ自身の記憶を取り戻していくんだろうと思った」

 俯いたまま、続ける燈火。

「だから、君が全てを思い出したら、全部君に決めてもらおうと思った。私をどうするかを。

 私は君に意志があることを無視した。というより、意志があること自体に気が付かなかった。そうして、君という存在を消し去ろうとしたんだ。

 それなら、君には私の意志を無視する権利がある。君は私に人生を破壊されたのだから、私の人生を破壊し返す権利がある」

 燈火は、私と目を合わせないまま立ち上がり、隣の部屋へと歩き去った。一分もせずに戻ってきたその両手には、私があの家にいる時に使っていたスマホと財布が握られていた。

「これ、君の本当の…… いつか思い出した時に返さなければと取っておいたんだ。中身は一切見ていない。金も盗んでいない」

 差し出されたそれらを、無言で受け取った。

 財布の中身を確かめてみる。保険証には、私の本名が記載されていた。スマホのロックも、暗証番号を入力して外そうとして…… けれどやめた。

 世間体が大事なあいつらのことだ。警察には届け出ていないだろう。探すとしたら私に直接連絡をよこすだろう。でもそれは、どうせ私の稼ぐ金を目当てにしてのことだ。私を心配してのことじゃない。それに親だけじゃない、かつて関わりのあった人達の誰とも、もう繋がりたくなかった。


「全部思い出したんだな? なら、好きに罰を与えてくれ。頼む」

 こちらの心境を知ってか知らずか、燈火はゆっくりと床に腰を下ろした。かと思えば、額を床にぺたりとついてうずくまるような体勢になった。土下座だった。




 夢で見た光景なんだと思っていた。とにかく、現実の光景じゃないんだと思っていた。

 「あたし」が燈火を怖がることも、燈火が「あたし」を怖がることも、有り得ないから。

 

 あれは私の記憶と、彩氷の感情が混ざり合った、中途半端な状態の光景だったわけだな、とようやく合点がいった。

 彩氷の家族に連絡してはいけない気がしたのも、燈火が私が出かける際はできるだけ帽子をかぶせるなどして顔が分かりづらいようにしていたのも、燈火が行方不明者の情報が掲載されているサイトによく目を通していた理由も、やっと分かった。



 

 誤解してはならない。こいつも所詮、私の両親と変わらない。床にひれ伏す燈火を睨みつけながら思う。

 私に人格があることを理解しようとすらせず、全てを自分の支配下に置こうとした。私を無視して、あるべき姿を勝手に決めて押し付けた。

 燈火はあいつらと変わらない。何も、変わらない。

 両の拳を強く握りしめた。


 好きにしていいんだよね? なら。

 できるだけ冷酷な声で告げることにした。

「私は、彩氷の代わりにはならない。なれないし、なりたくもない。もう二度と、私を彩氷って呼ばないで」

 床に接する燈火の両の手も、ギュッと握りしめられたのが見えた。



 けれど。


 燈火はあいつらとは違う。

 初めは確かに、許しがたいことをした。けれどその後は、私が私になっていくことを、燈火は咎めなかった。彩氷の命を侮辱したことを自覚し、その上で自身が無理やり作り出した偽物の彩氷も徐々に消えていくのに恐怖しつつ、それでも私に彩氷と同じようにすることを強要することは二度となかった。

 心の距離を置きながらも、虐げることも無視することもなく、私を人間として扱った。


 私の中に埋め込まれた彩氷の記憶の中身は、燈火のことばかりだ。優しい燈火。喧嘩したこともあったけれど、それでもずっと一緒に過ごしてこれて幸せだった。そんな思い出ばかりだ。

 分かっている。これは彩氷の記憶であって私の記憶ではない。私は、燈火を心の底から信用してはならない。

 けれど、私のこの数ヶ月の記憶の中の燈火も、優しい存在だったのは確かだった。


 家にいても、ビクビクしなくて良かった。イライラすることもなかった。やっと家を「帰る場所」だと認識できた。

 「家族」って、こういうものなのかなって思えた。


 


 私の人生を破壊した? 確かにそうだ。けれど、私の人生はそれより前から破壊されていた。

 だから、燈火が犯した罪なんて、あいつらに比べれば小さなものだと。

 もしかしたら、いつか許せるかもしれないと。

 いつか燈火が自身の小さな罪の意識とサヨナラすることができるしれないと。

 そうして、今度こそはわだかまりのない「家族」になれる日が来るかもしれないと。

 信じてみたくなった。


 もしも、そんな日が来なかったら?

 簡単だ、その時はこの家を出ていけばいい。以前は自分は親に助けてもらわないと身の回りのこともできないんだと思っていたけれど、燈火に連れ出されて、家事をするようになって、もしかしたら一人でもなんとかなるかもしれないと思えてきたから。




「……」


水由みゆだよ」


「……え?」

 燈火は、ようやく顔を上げた。


「私の名前。水由っていうんだ」

 あいつらが付けた名前だけど、嫌いじゃない名前だから。


 呆けた顔の燈火は、少し目を見開いて……

 ふうー、と長い溜息をついてから、私をまっすぐに見据え、言った。




「水由」

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