Flag4. フラグ・クラッシャーの力

「遅い」

少し黒み掛かった金髪をたなびかせた冷酷な美女は、眉間にシワを寄せて俺を睨んだ。

「えー!十二秒遅れただけじゃねーアルか!?そんぐらい許してヨ!」

ぼさぼさになった髪を直そうともせず、僅かに霜焼けして赤くなった頬を膨らませ、抗議の声を上げた。

「十二秒だろうと遅刻は遅刻。フラグ・クラッシャーたる者、約束した刻限は巌に守らなければなりません」

相変わらずの鉄仮面で、審判の女神のように俺を見下ろす。

「勝一、貴方には後で罰を与えます」

命懸けのフライトを終え、しわくちゃの新聞紙のような風体になった俺に向かって、マリアは一切の慈悲も見せず宣告した。俺は最早、反論する気力すら失っていた。

「さあ諸君、反省会はその位にしたまえ」

野太い声で十田は俺達に呼び掛けた。

「これから敵地に突入する。作戦会議といこうじゃあないか」

ニカリといつもの快活な笑い顔を見せるが、その声色には緊張感が多分に含まれていた。

「先ずはこれを見てくれたまえ。施設内の見取り図だ」

十田は、草むらの上に広げた見取り図を指差した。

「地上十二階建ての娯楽・商業施設を兼ね備えた複合施設、『ミューズ』。昨年オープンしたばかりの建物だ。ご覧の通り、かなりの広さがある」

「敵の数、装備は?」

「確認されている者で十五人、この規模の施設を制圧するには少し人数不足だ。四、五人の誤差はあると考えるべきだろう。装備はGM、TTマシンガン、バイバル等のハンドガン、旧式の物だが暗視ゴーグルも所持しているようだ」

「古くせー武器だけど、田舎のヤンキーが持てる代物じゃねーアルな」

「茶化さないで下さい伊凛。人質の人数は?」

「老若男女、五十人以上だ。人質は纏めて、最上階の遊技施設に収容されている」

「敵の要求は?」

「それはまだ定かではない」

十田は渋面を作って唸った。

「通常、このようなテロリストは何かしらの要求を突き付けてくるものだ。それがないとすると…」

「FPの差し金であると?」

すかさずそう口にしたマリアに対し、十田は苦笑いを浮かべた。

「あくまで可能性の話だがね。だが、今回のキャリコの件を踏まえれば、そう考えるのが妥当だろう」

そう言うと、十田は鋭い視線をマリアと伊凛に送った。

「我々の任務は、人質の救出と武装集団の制圧、この二つである。いつもの事ではあるが警察等の協力は一切得られない。FPの襲撃も考慮して、決して油断しないように」

「了解」

「明白了ー!」

すると十田は、マリアと伊凛の後ろで倒れこむ俺に対して、白々しく声を掛けた。

「勝一君、そんな所で何を寝そべっているんだね?」

答える代わりに、俺は憎々しい思いで十田を睨んだ。全ての元凶はこの男なのだ。

「隊長、この男は使い物になりません。ここに放っておきましょう」

「そうはいかん」

俺の方を見ようともせず冷たく言い放つマリアに、十田は力強く首を振った。

「我々は圧倒的少数、人質の数を考えれば猫の手も借りたい位なのだ」

「この男など精々、ネズミの手が関の山です」

マリアは俺を一瞥すると、冷たく断言した。

「何の役にも立ちません」

突然、十田が大口を開けて笑い始めた。マリアと伊凛は呆気に取られてその様子を見ている。

「ネズミの手、大いに結構!ネズミと言う生物はな、どんなに踏みつけられても決して諦めないものだ」

マリアの目を見ながらそう言う十田の顔を、彼女は唇を固く結んで真っ直ぐに見据えていた。

「そして如何なる過酷な状況でも生き延びる、凄まじい生命力を持った諦めの悪い生き物なのだ。きっと我々の役に立ってくれるだろう」

褒められてるんだか、貶されているんだか、微妙に良く分からない事を言う十田。

しかし今回ばかりは俺もマリアの意見に同意していた。今の俺はどう考えても、肉体的にも精神的にも、テロリストが立て籠る施設に突入出来るコンディションではない。まともな状態でも絶対嫌だけど。とにかく、今の俺に必要なのは温かいベッドと休息なのだ。

すると十田は俺の目の前で片膝を付き、うつ伏せになっている俺を抱き起こした。

「勝一君、君に魔法の言葉を教えてあげよう。《こんな傷、唾でも付けときゃ治る》さあ、言ってみなさい」

…何を言っているんだこのおっさん。そんな言葉に一体何の意味があるって言うんだ。だけど俺がそう言えば、もしかしたら家に帰してくれるのかも知れない。まともな思考能力を失っている俺は、言われるままにその言葉を口にした。

「《…こ、こんな傷、唾でも付けときゃ治る》」

そう口にした瞬間、眩い光が俺を包み込んだ。ぬるま湯に全身を包まれているかのような優しい快感があった。

すると、先程まで全身を覆っていた激痛や倦怠感が一気に消え、むしろ力がみなぎって来るのを感じた。立ち上がってみると、今までの痛みが嘘のように消え、体が羽のように軽い。

「…どう、なってるんだ?」

「ふむ、見事だ」

困惑する俺を見て、十田は満足そうに頷いた。

「この短期間にここまで成長するとはなぁ。よっぽど師匠の教育が行き届いていると見える」

そう言ってちらりとマリアに視線を送ると、彼女はそっぽを向いて顔を反らした。

「この程度の《治癒フラグ》は初歩の初歩、立てて当然です。立てられなければこの場で止めを刺すつもりでした」

…どうやら俺の命は薄氷の上を渡っていたらしい。俺は生ある事に感謝した。

「お前、結構やるアルなー!ちょっと見直したアル!」

そう言って伊凛は俺の背中をバシバシと叩いた。コイツには色々と言いたい事はあるが、今は我慢しよう。

「さあ諸君、再度気を引き締めよう」

十田は手を叩き、俺達にそう呼び掛けると再び真剣な顔付きに戻った。

「突入に際しては、バディを編成する。我輩と伊凛君はミューズ一階正面から突入し、敵の目をこちらに引き付ける。マリア君と勝一君はその間に屋上から潜入し、人質を救出してくれたまえ。マリア君、異存はないな?」

有無を言わせぬ迫力を漂わせる十田に、マリアは渋々と頷いた。

「よし、それでは行動開始だ。我輩と伊凛君で一階にはフラグを張っておくから、万が一の際に使用してくれ」

「了解」

先程から聞き慣れない単語が飛び交っているが、その中でも俺が一番気になったのが、十田の言った、『フラグを張っておく』と言う言葉の意味だった。一体何の事だろうか。俺は傍らにいる伊凛にヒソヒソ声で問い掛けた。

「…おい、今おっさんが言ってたのってどういう意味だ?」

「それは後のお楽しみアル」

伊凛は質問には答えず、イタズラ小僧のような笑みを浮かべた。

「それよりお前、死ぬんじゃねーアルよ。お前面白いから帰ってきたら遊んでやるアル」

ニコニコしながら俺を見上げる伊凛に、俺は軽くため息をついた。愚か者、こんな所で死んでたまるか。

「勝一」

振り返ると、今まで以上に厳しい表情をしたマリアが立っていた。俺は思わず、後ずさりした。

「今から実戦に赴きます。私の命令を遵守し、決して軽はずみな行動を取らないように。貴方に危険が迫っても、私は任務遂行を優先します。良いですね?」

曖昧な返事をすれば、この場で命を落としかねない。俺は冷や汗を垂らしながら頷いた。

「屋上へは《スカイ・フラグ》で向かいます」

「スカイ・フラグ?」

「さっきみてーに空飛ぶ技の事アル」

伊凛のその言葉を聞いて、俺の全身から嫌な汗が吹き出した。

「それでは、私の足に掴まって下さい」

マリアが足を差し出すと、俺の体の中の拒否反応が全力で作動した。

「……イーヤーだー!足は絶対にイヤだー!!」

駄々っ子のように喚き散らす俺を、マリアは珍しく驚いた表情で見ていた。そんなマリアに伊凛が耳打ちした。

「アイツ、さっき飛んで来た時トラウマになったみたいアル。わりーけど、足以外にしてあげてヨ」

マリアは呆れ顔で大きなため息をついた。悔しいが、無理なものは無理なのだ。俺はきっと、二度と他人の足首を触れない体になってしまったのだ。別に普段の生活で困る事は何もないのだが。

「情けない人ですね。ならば、どこなら良いのです?」

「足以外ならどこでも…」

「あー!分かったアル!お前マリアのおっぱい狙ってるアルなー!」

俺とマリアはほとんど同時に伊凛を睨み付けた。当の本人は、まるで世紀の大発見でもしたかのように大はしゃぎしている。

「マリアにおんぶしてもらって、隙をみて後ろからわしづかみするつもりアルー!きゃー!コイツやっぱりえっちアルー!」

一人で興奮しながら走り回り、とんでもない事を言い放つ。俺は恐ろしくて、とてもじゃないが後ろにいるマリアの顔を見る気にはなれなかった。

「マリアー!気をつけたほーがいいアルよー!さっきコイツ、同級生のおっぱい触って大喜びしてたからナー!」

「コ、コラ!口から出任せ言うな!大喜びなんてしてねーよ!」

「あ、そっか。むひょーじょーで揉みまくってたアルもんなー。そっちの方がへんたいっぽいアル」

「お前いい加減に…!」

「おい、イイ事教えてやるヨ」

突然伊凛は俺の背中に飛び乗り、マリアの事を見ながら耳打ちした。

「マリアのおっぱいはあんなもんじゃねーゾ」

その言葉に全身の血が熱くなるのを感じた。千川原も以外に結構ある方だと思っていたが、それ以上だとすると一体どれ程の…

「勝一」

頭から氷水をぶっかけられたような冷たい衝撃に、俺の血の気は一斉に引いていった。恐る恐る振り返ると、夜叉のような、世にも恐ろしい表情をしたマリアの顔があった。

「ケダモノ」

この世のありとあらゆる軽蔑と侮蔑の念を凝縮したような声色で、マリアは俺にそう吐き捨てた。それは、今までマリアにぶつけられたどんな辛辣な言葉よりも、俺の胸に深く突き刺さった。ヤバい、俺泣きそう。

「諸君、マリア君のおっぱい談義は後でする事にして、そろそろ作戦を開始するぞ」

先程から俺達のアホなやり取りをニヤニヤしながら見守っていた十田は、ニカリと微笑んだ。

「マリア君、勝一君、健闘を祈る」

「マリアー!ソイツほんとーに気をつけろヨー!」

そう言うと二人は瞬く間に、ミューズに向かって飛び去って行った。元々気まずいのに、伊凛のアホのせいで更に気まずくなってしまった。まさに針のむしろである。

「勝一」

「は、はい!何でしょう…?」

マリアの言い知れぬ迫力に、思わず敬語を使ってしまった。彼女は何も言わずに、俺を真っ正面から睨み付けている。

「あの、マリア…さん?」

間が持たなくなり、俺は彼女に呼び掛けた。さん付けで呼んだのは、呼び捨てにしたらぶん殴られそうな予感がしたからだ。深い意味はない。

「勝一」

「は、はい!?」

「私達も向かいましょう。貴方をどうやって運ぶかは私に任せなさい」

「それは構わないですけど、一体どうやって……?」

「私に考えがあります」

マリアさんの無機質な瞳がキラリと輝いた。

俺は、いつも以上に嫌な予感を感じていた…。



「ふむ、これは壮観だな」

ミューズの前には、無数のサイレンとプロペラ音が飛び交っていた。警察官延べ三百人が動員され、自衛隊の出動も要請されている。上空には、警察ヘリが三台、そして更に上空に複数のマスコミのヘリコプターが旋回を繰り返していた。

すでに厳戒体制が敷かれ、周辺の道路も封鎖されており、野次馬達はミューズに近付く事が出来ず喧騒の声を上げていた。

周囲の水をひっくり返したような大騒ぎとは対照的に、無数のサーチライトに照らし出されたミューズは不気味に静まり返っていた。

今日は祝日と言う事もあり、ミューズは大勢の家族連れで賑わっていた。テロリスト達は買い物客に紛れ、午後五時丁度、一斉に行動を起こした。十二階にあるコントロールルームを瞬く間に制圧、電気系統を操作し、ミューズを停電させた。夕暮れ時の薄暗さに加え、全電灯が消えたため、施設内は真っ暗闇となった。突然の出来事にパニックとなった買い物客達に向かって、テロリスト達は威嚇射撃を行い、ミューズはものの十分でテロリスト達の手に落ちた。

直ちに出動した警察は、テロリスト達との交渉とミューズへの侵入を同時に試みたが、交渉は梨のつぶてに終わり、侵入もテロリスト達の強力な装備によって多数の怪我人を出す大失敗に終わった。

最早、成す術なし。とにかく、警察の特殊部隊と自衛隊の到着を待ち、強行突破する以外に解決の道はない。

『…まあ、そんなところだ。全く、頭が痛ぇや』

携帯電話越しに一通りの説明を受け、我輩は頷いた。

「情報提供感謝する。しかし、特殊部隊の到着は待てん」

『まあ、そう言うと思ったよ』

電話の向こうで老人はくぐもった笑い声を上げた。

「人質の安全が最優先だ。一刻の猶予もない。それに彼等では人質を傷付けずにテロリストを制圧する事は不可能だろう。ここからは我々の仕事だ」

我輩は辺りの様子を見渡し、ハッキリと言った。

『俺っちもそう言ったんだが、何分、うちも代替わりしたばかりでね。コイツがとにかく頭が固くて始末に悪い。面目ねぇが、表立っての協力は出来ねぇぜ』

「気にするな。こうやって情報を寄越してくれるだけで有り難いさ」

『なあ、六ちゃん』

老人は親しげに我輩を呼ぶと、妙に改まった口調になった。

『この状況、あの時にそっくりじゃあねぇかい?』

「…奇遇だな。我輩もそう思っていた所だ」

『じゃあ、もう分かってるな?無理するなよ』

「ああ」

『そろそろ始めるぜ。準備は良いかい?』

「いつでもOKだ。よろしく頼む」

そう短く告げると、我輩は電話を切った。

「源さんアルか?」

傍らの伊凛君が、軽めのストレッチをしながら問い掛ける。

「あのジイさん、うちらに協力してよくクビにならないアルなー」

「確かにそうだな」

その言葉に我輩は同意して頷く。

「だが、歴代の総監に貸しがある警部補などあの老人ぐらいだ。クビになど出来まい。それより伊凛君、後五秒で突入だ。準備は良いか?」

「いつでもおーけーアル」

ニコリと笑って我輩を見上げる伊凛君を見て、我輩はそびえ立つミューズを睨んだ。

「よし。では行くぞ!」

我輩の号令と共に、乱雑に並べられたサーチライトの明かりが、突如として一斉に消えた。昼間のように明るかったミューズ周辺は一転、パトカーに備え付けられたサイレンの不規則な赤い光線が、周囲の壁を妖しく照らすだけとなった。突然のアクシデントが、緊張の糸が張りつめていた現場を騒然とさせた。

その時、周囲の草むらから、二つの黒い影がミューズの入口に飛び込んだ事に気付いた者は誰もいなかった。



「勝一、間もなく屋上に到着します。準備は良いですか?」

俺はその問い掛けに答える気力を失っていた。もちろん、テロリストが待ち構えるショッピングセンターに突入する準備など一生出来る気がしない。それはそうなのだが、俺の気力を奪ったのはそこじゃない。

「何か不服ですか?」

「…不服って言うか…情けないって言うか…」

「何がです?」

「…この状況がです」

端的に言うと、今俺は、マリアさんに肩車をされた状態で空を飛んでいた。自分の人生で、年の近い、しかも女の子に肩車をされる日が来るとは思わなかった。

『俺、金髪の美少女に肩車されながらミューズの上空を飛んだ事あるんだぜ!』と言ったら、沢木は一体どんな顔をするのだろうか?

「貴方に極力触れられず、効率良く運び出すための最善策です。我ながら名案でした」

真剣な顔でそう言う彼女は、この絵面がどれ程シュールなものか理解していないのだろうか?この人、以外に天然なのかも知れない。

「…あの、マリアさん。さっき伊凛が言った事はデタラメですからね?」

「喋らないで下さい。汚らわしい」

「ちょっと!ちゃんと話を…」

「暴れないで下さい。叩き落としますよ?」

不意に、遥か真下にある正面入口が騒がしくなった。気付けば辺りは真っ暗になり、遠くの街明かりが星のように煌めいているのが見える。

「な、何でサーチライトの明かりが消えたんだ?」

「どうやら隊長達は突入に成功したようですね。今なら警察やマスコミのヘリにも見付からず侵入出来ます。飛ばしますよ」

そう言うと、マリアさんは急に上昇する速度を上げた。突然、頭を無理矢理押さえ付けられるような強力な重力が襲い掛かってくる。

「マ、マリア…さん!もう少しゆっくり…!」

「無駄口を叩くと舌を噛みますよ」

俺の懇願などお構いなしに、マリアさんはぐんぐん速度を上げていく。否応なしに目に入る十数m下の光景に、胃液が逆流しそうになるのを必死に抑える。

突然、急上昇していたエレベーターが急停止した時のように体が浮き上がり、俺は地面に放り出された。体を打ち付けた痛みよりも、地に足をつけて生きられる喜びを俺は噛み締めていた。

「着きました」

マリアさんのその言葉に顔を上げると、そこにはだだっ広い空間が広がっていた。地上十数mの屋上は強風が吹き抜け、立っているのがやっとだった。広い空間の中心にはミューズの象徴である巨大な女神像が、月明かりに照らされ不気味な輝きを放っている。足下は全面ガラス張りとなっているが、室内の電灯が消えているため中の様子は窺い知れない。

「…人質はおよそ六十四名、情報よりも数が多いようですね」

マリアさんは同じように内部の様子を窺っていたが、まるで見えているかのように四隅を見渡す。

「敵の数は八人、やはり人質の見張りに人員を割いているようですね」

「マリアさん、見えるんですか?」

「フラグ・クラッシャーであれば当然です」

…フラグ・クラッシャーと言うのは超能力集団なのだろうか?俺も目を凝らしてみるが、やはり全く何も見えない。

「ここから内部に侵入します」

マリアさんはすぐ近くの隅を指差して言った。見たところ、ドアのようなものや、開くための取っ手などは見当たらない。

「あの、マリアさん、入るったってどうやって…」

言いかけたその時、軽く振り上げたマリアさんの右腕を青白い電流のようなものが包んだ。

「そ、それって…確かキャリコってヤツが使ってた…」

「《フラグ・ライトニング》」

マリアさんの横顔が青白く照らされた。

「初歩の初歩です」

短くそう言うと、マリアさんはその電流をガラスに突き刺した。電流が突き刺さった箇所から白い煙が上がり、周りのガラスがたちまち赤く変色していく。そのまま、人一人が通れる程の大きさの円形に電流を通した。すると、ガラスは音もなく外れ、穴が開いた。マリアさんは落下しそうになった円形のガラスを素早く掴み、自身の脇に静かに置いた。

「さあ、行きましょう」

俺は驚きで声も出なかった。あのキャリコとか言うヤツと同じ技を、マリアさんはいとも簡単に使っていた。…と言う事は、マリアさんもタンクローリーをボールのように投げ飛ばせるのだろうか?

…この人に逆らってはいけない。俺は改めてそう思った。

「勝一、何をしているのです?早く来なさい」

気付けば、マリアさんはガラスの穴から顔だけ出して俺を睨んでいた。

また肩車か…。そう思って辟易していたら、マリアさんは何かの上に乗っかっているようだった。

「ここに梯子があります。ここから下に降りましょう。決して音を立てないように」

…良かった。どうやら二度目の肩車タイムはないようだ。安心していたら急に不安が襲ってきた。普通に中に入ろうとしているが、この中には武装した凶悪なテロリストが立て籠っているのだ。だが、ここまで来て引き返す事は出来ない。俺は覚悟を決めた。

漆黒の闇に向かって恐る恐る足を伸ばす。金属製の梯子は、油断するとすぐに音が出そうになる。慎重に下まで降りると、室内は月明かりも届かない真の暗闇だった。すぐ側にいるはずのマリアさんすら全く見えない。手探りで辺りを探ろうとすると、何やら柔らかい感触を感じた。と、同時に何やら固いもので頭を思いっきり殴られた。突然の衝撃に、俺は声にならない悲鳴を上げた。

「…どさくさに紛れて何処を触っているのです…!?」

俺を殴ったのは、言わずもがなマリアさんだった。この暗闇の中、俺のこめかみの辺りを正確無比にグーパンチしたようだ。そうだ、この人には見えているんだった。

…ちなみに俺は一体、彼女のどこを触ってしまったんだろうか?

「勝一、不用意に動かないように。敵は暗視ゴーグルを使用しています」

じんじんと痛む頭を擦る俺に、マリアさんは声を潜めて言った。

「暗視ゴーグルって確か、暗闇でもこっちの動きが見えるようになる装置の事ですよね?」

スパイ映画とでよく見るヤツだ。もちろん、実物は見た事がない。

「その通りです。迂闊に動けば敵に発見されます。ここは慎重に…」

その時、誰かの泣き声が静寂の空間に響き渡った。声からして、小さな子供のようだ。

「おい、ソイツを黙らせろ」

低く、くぐもった声が聞こえた。姿は見えないが、俺達がいる所から十m程の距離にいるようだ。その声に応じるように怯えた様子で子供を宥める女性の声が聞こえる。恐らく母親だろうが、子供は一向に泣き止まない。

「一人ぐらい構わないだろう」

別の方向から違う男の声が聞こえた。

「殺せ」

同時に、冷たい金属音が鳴った。…ヤバい!アイツら子供を撃つ気だ!

「やめろっ!!」

俺が叫んだのと発砲音が聞こえたのはほぼ同時だった。カメラのフラッシュのような閃光の中に、マスクを被った男の顎を蹴り上げるマリアさんの姿が映し出された。

「撃て!」

その号令と共に、四方から銃撃が始まった。休みなく放たれるマシンガンの銃口から発せられる激しい発光によって、暗闇に覆われていた室内の景色が浮かび上がる。マスクを被った複数の男達、床に伏せて身を守ろうとする無数の人質、目にも止まらぬ速さで男達を叩き伏せるマリアさん。けたたましい銃声の合間に、男達の短い悲鳴が聞こえたかと思うと、いつの間にか室内には静寂と暗闇が戻っていた。ほんの四、五秒の出来事だった。その間、俺は間抜けに突っ立っていただけだった。

やがて、ざわざわと人々の戸惑いの声が聞こえてきた。一体何が起きたのか、理解している人間は、俺を含めて皆無だった。突然、室内の明かりが付いた。眩しい光に皆一様に目を覆う。暫くして俺達の目に飛び込んできたのは、床に倒れ伏せのびている男達の姿であった。

「この階の敵は全て制圧しました」

その声に皆一斉に顔を上げた。マリアさんは、人質達の前に立って声を張り上げた。

「今から皆さんを誘導し、この施設から脱出します」

その言葉に、人質となっていた人々は歓喜の声を上げた。俺は緊張の糸がどっと抜け、思わずその場にへたり込んだ。

「勝一」

顔を上げた俺を、マリアさんは厳しい表情で見ていた。

「私は貴方に動かないよう、音を立てないよう厳命した筈です」

俺はマリアさんの顔をまともに見る事が出来なかった。恐ろしくて何も出来ず、むしろ彼女の足を引っ張ってしまった。情けなくて、悔しかった。

「ですが…」俺から目を背け、マリアさんは言った。

「貴方が声を上げたお陰で敵の照準が乱れ、子供が怪我をせずに済みました。そこだけは褒めてあげましょう」

その言葉に俺は思わずマリアさんの顔を見た。褒められたのか?俺が?あのマリアさんに?俺は…俺は何も出来なかったってのに…

その時、小さな女の子が横からマリアさんの袖を引いた。その手には、赤いリボンが巻き付けられたクマのぬいぐるみがあった。彼女は真っ赤に泣き腫らした顔を笑顔にして、マリアさんを見上げていた。

「…おねえちゃん、ありがとう」

声から察するに、先程泣いていたのはこの子だろう。マリアさんは片膝を付き、少女に目線を合わせると、微笑を浮かべて彼女の頭を撫でた。

…この人って、こんな風に優しく笑うのか。

俺は彼女の笑顔に見入っていた、そんな自分に気が付いてかぶりを振った。

「さあ、行きましょう」

立ち上がったマリアさんはいつもの表情に戻っていた。俺は自分の頬を叩き、気合を入れた。これ以上、足手纏いになるような真似はしたくない。

俺達はマリアさんの先導に従って行動を始めた。六十四名の人質は老若男女様々で、テロリスト達への恐怖もあって足並みは中々揃わなかった。しかし、先頭に立つマリアさんは彼らを励ましながら巧みに誘導した。俺も俺なりに、一番後方で腰が抜けてしまったおばあさんに肩を貸したりしていた。

室内は巨大な遊技施設とゲームセンターが一緒になった作りになっており、その奥には大きなエレベーターホールがあった。エレベーターは二十人乗りのものが二台あり、テロリストによって遮断された電気回線を復帰させたため、問題なく作動しているようだ。これだけの人数だ、階段で脱出するのは危険すぎる。俺達がエレベーターの前に到着すると、下の階から複数の発砲音が聞こえた。人質達は抱き合って悲鳴を上げる。すると、呼び出しボタンを押してもいないのにエレベーターがここ十二階を目指して上昇を始めた。人質達の間で動揺が広がる。まさか、テロリスト達がここにやってくるのではないかと。

「ご心配なく」

マリアさんは皆の不安を打ち消すかのような落ち着き払った声で言った。

「味方です」

到着を知らせるベルと共に開いたエレベーターのドアから、伊凛がひょっこりと顔を出した。彼女は、黒色の双眼鏡のような物を被っていた。そのレンズの部分は、僅かに赤く発光している。マリアさんは呆れた様子でため息をついた。

「…何をしているのです、伊凛」

「へっへっー!戦利品アル!敵からぶん取ったヨー!」

「外しなさい。貴女にはそんな物必要ないでしょう?」

「えー、せっかくゲットしたのにナー」

伊凛は渋々それを外すと、マリアさんの後ろに控える人質達を見て感嘆の声を上げた。

「さっすがマリア、仕事が早いアルー!」

「首尾は?」

「伊凛が五人、隊長が八人やっつけたアル」

「計二十一人、隊長の予測通り、数は多かったようですね」

「念のため、隊長が各階をしらみつぶしに捜索中ヨ。他にも潜んでるヤツがいるかもしれねーから」

「分かりました。油断せずに行きましょう」

マリアさんは後ろを振り返って、人質達に呼び掛けた。

「これからエレベーターを使って脱出します。女性、子供、老人を優先し、各エレベーターに分乗して下さい」

その言葉に、彼らは移動を始めた。互いに声を掛け合い、エレベーターに乗り込む。しかし数が多いため、スムーズにはいかなかった。

「おい、これやるヨ」

おばあさんをエレベータに乗せた俺に伊凛が声を掛けた。その手にあったのは、先程の暗視ゴーグルであった。

「…いらねーよ。使う機会なんてないし」

「いいから受け取れヨ。これが《フラグを張る》ってヤツアル」

伊凛は半ば強引に俺の手にゴーグルを押し付けた。

「きっとなんかの役に立つアル」

「…分かったよ」

そう言って暗視ゴーグルを受け取ると、伊凛が俺の顔をジッと見上げながら言った。

「あれー?お前なんかテンション低いなー。もしかして、マリアのおっぱい触って殴られたカ?」

「ち、ちげーよ!そんなんじゃない!」

俺が顔を赤くしてそう言うと、伊凛はにしし、と笑みを浮かべた。

「そーそー、お前はそうやってうるせーのが似合ってるアル」

俺は何だか拍子抜けしてしまい、笑ってしまった。どうやら俺は、伊凛に励まされたようだ。伊凛は俺の腰を軽く一叩きすると、人質達であふれ返るエレベーターに乗った。

「じゃーマリア、先に行ってるアルよ!」

「お願いします」

「お前も頑張れヨー、おっぱいマン!」

「変なあだ名付けんな!」

人質達を乗せ、伊凛が護衛するエレベーターは一階に向けて下降していった。同時にもう一台のエレベーターがこちらに到着した。恐らく十田が俺達のためによこしたのだろう。再び人質達が空のエレベーターに乗り込む。

「勝一、貴方も乗りなさい」

「え?マリアさんは?」

「私は残りの方達と共に階段を使用します」

確かに残りの人質は、初老の人もいるが問題なく階段で脱出出来そうな男性達だった。

「ここのエレベーターは昇降に時間が掛かります。予断を許さない今の状況では我々は階段を使用するのがベストです」

「じゃあ俺も階段で…」

「足手纏いです」

俺の言葉を遮って、マリアさんはハッキリとそう告げた。その一言は、一瞬で俺を金縛りにした。

「敵が襲って来ても反応出来ず、私の命令にも従わない。貴方のお守りをしながら遂行できる程、簡単な任務ではないのです」

ぐうの音も出なかった。俺はただ、歯を食い縛り拳を握り締めて、マリアさんの正論を受け入れる事しか出来なかった。マリアさんは俺の目も見ず、冷たく言い放った。

「早くお行きなさい。途中で何か異常事態が発生した場合は、決して動かず私が合流するまで待機するように。良いですね?」

マリアさんは立ち尽くす俺の返事も聞かず、男性達を促し階段を降りて行った。俺は堪らない気持ちを拳に込めて壁に叩き付けた。既にエレベーターに乗り込んでいる女性達が、不安げな瞳で俺を見ていた。

…こんな事をしている場合じゃない。この人達を無事に脱出させるんだ。俺はもう一度、頬を叩いた。


マリアさんの言う通り、このエレベーターは随分とゆっくり下降して行く。階段で降りるよりは当然早いだろうが、今にも突然停止してテロリストが乗り込んで来そうな、そんな不安な気持ちにさせる速度だった。俺は女性達でごった返すエレベーター内を見渡した。その中には、先程の女の子が母親らしき人の足にしがみ付き、怯えた表情で震えていた。その手には、あのクマのぬいぐるみがなかった。

「…ママ、くまさん、いなくなっちゃった」

少女が今にも泣き出しそうな声で母親に話し掛けた。恐らく、さっきエレベーターに乗り込む時に落としてしまったのだろう。母親は青い顔をしながらも、無理矢理に笑顔を作って言った。

「我慢してね。また今度買ってあげるから」

「……やだぁ、あのくまさんじゃないといやだぁー!」

少女は堪え切れずに泣き出してしまった。余程大切なものだったのだろう。母親は周りの人に申し訳なさそうな表情で、懸命に子供を宥めていた。

その時、大きな揺れと共にエレベーターが急停止した。地震だろうか、こんな時に…!

突然の出来事にエレベーター内はパニックとなった。更に追い打ちを掛けるように電灯が消え、人を満載したエレベーター内は真っ暗となった。俺は咄嗟に伊凛から渡された暗視ゴーグルを被った。すると、暗闇の中で泣き叫ぶ人達の表情まではっきりと見えた。

この中で男は俺一人、俺が何とかしなければ。

俺は閉じられたドアの隙間に指を突っ込んだ。力を込めて開こうとすると、意外な程あっさりとドアが開いた。隙間から顔を出し、辺りを確認すると、丁度どこかの階に着いていたようだ。これなら降りても大丈夫そうだ。俺はドアを全開にした。

「みんな、ここから出てくれ!ゆっくり、慌てずにな!」

俺がそう呼び掛けると、女性達は怯えながらもゆっくりと動き始めた。俺はドアの横に立ち、彼女達の手を取って脱出を促した。全員の無事を確認し一息つくと、再び大きな揺れが起きた。これは地震などではない、すぐ上の階で起きている。もしかしたら爆弾かも知れない。マリアさんからは動かないように言われていたが、もはや一刻の猶予もない。

幸い、階段付近には月明かりが窓から差し込んでおり、暗視ゴーグルがなくても周囲の様子は辛うじて視認出来た。ここは八階、一階まで降りるにはまだ時間が掛かる。

「みんな、手を繋いで一列になってくれ。階段の手すりに沿って降りて行けば一階まで降りられる。」

俺は恐怖を必死に抑え込んで、なるべく落ち着いた声でみんなに呼び掛けた。マリアさんのようにはいかないが、みんな何とか俺の言葉に応じてくれた。すると突然、俺の隣にいた女性が声を上げた。

「…みきちゃん、みきちゃん!?」

「どうした?」

「子供が…子供がいなくなってしまって…!」

それは先程の母親だった。一瞬の混乱の最中、子供がどこかに行ってしまったらしい。

…まさか、十二階にぬいぐるみを探しに行ったのか?嫌な予感が頭を過る。

母親はパニックになって、階段を登って行こうとした。周りの女性達が必死になって彼女を止める。

「離して!離して下さい!みきちゃん!みきちゃん!!」

「落ち着け!」

俺は彼女の肩を掴んで叫んだ。

「俺が必ず連れて帰る!だから先に下に降りて待っていてくれ!」

そう言うと、彼女は俺にしがみ付いて涙を流しながら懇願した。

「お願いします…お願いします…あの子を助けてやって下さい…」

「任せてくれ。さあ、早く行くんだ」

女性達は彼女を抱きかかえながら、階段を降りて行った。俺は、震える拳を握り締めて、階段を登り始めた。もし、少女が階段を降りていれば何も問題はない。だが、俺には彼女が階段を昇って行った、そんな予感がしていた。


階段を昇って行くと、何やらきな臭い匂いが立ち込めてきた。十階の踊り場に着いた俺は、自分の目を疑った。十階のフロアは火の海となっており、スプリンクラーが作動して大量の水を噴射していたが、火の勢いはまったく衰える気配を見せない。火の粉が舞い、熱風が皮膚を突き刺す。

「勝一、ここで一体何をしているのです!?」

呆然と立ち尽くす俺に、階段から降りて来たマリアさんが怒りに満ちた表情で怒鳴った。

「エレベーターが止まってしまって…」

「言い訳は結構。人質の皆さんはどうしたのです?」

「階段で下に降りるように伝えました」

俺がそう言うと、マリアさんは何かを言おうと口を開いた。その時、マリアさんのすぐ後ろにある非常ドアの脇の暗闇で、何かがキラリと光った。

「危ない!」

俺が咄嗟にマリアさんを突き飛ばすと、暗闇からマスクを被った男が踊り掛かって来た。その手には、鋭いナイフが握られていた。コイツはマリアさんを狙っている。そう判断した時、俺の体は勝手に動き出した。

俺はその男の手首を掴み、ナイフを奪おうとしたが、男は手慣れた様子で俺をかわすと、俺の横面を殴打した。俺は呆気なく殴り飛ばされ、ひっくり返った。男は無防備になった俺に向かってナイフを振り上げる。

「クッ…!」

マリアさんが素早く俺に覆い被さり、凶刃から俺を守ってくれた。代わりに彼女の背中は切り付けられ、彼女の迷彩服がぱっくりと切り裂かれた。

「マリアさん!?」

俺が声を上げた瞬間、マリアさんは再度ナイフを振り上げた男の腹に強烈な蹴りを入れ、男を弾き飛ばした。男は苦しげな呻き声を上げると、そのまま気を失った。

「マリアさん!大丈夫ですか?」

「…この程度、かすり傷です」

マリアさんは肩を抑えながら息を整えている。その手からは赤い鮮血が滲み出ている。マリアさんは歩き出そうとしたが、痛みに顔を歪めてその場に膝をついた。

「…何で、何で俺の事なんか…俺に何かあっても任務を優先するって言ってたじゃないですか!?」

俺は思わず叫んだ。まさかマリアさんが、自分の身を呈して俺を守ってくれるだなんて考えてもいなかった。情けなくて悔しくて、俺は今にも泣き出してしまいそうだった。すると、マリアさんは俺の目を見つめてこう言った。

「…私はフラグ・クラッシャー。目の前の人々を救う、それが私の使命だからです」

彼女はまっすぐな瞳でそう言った。一点の迷いもない、力強い青い瞳。それを見たら、不思議と昂ぶった感情が収まっていくのを感じた。

マリアさんの傷口から、次から次へと血が滲んでくる。ふと、彼女の切り裂かれた迷彩服から見える素肌に、大きな傷跡がある事に気が付いた。今出来たものではない、ずっと昔に負ったものであろう、大きな古傷。

俺の視線に気付いたのか、マリアさんは身をよじって背中を隠した。その目は、まるで何かに怯えているようだった。

俺は着ていた上着を脱ぎ、彼女の肩に掛けた。

「…勝一?」

「使って下さい」

俺はそう言って、階段を見上げた。

「俺は今から十二階に戻ります」

「なっ!何をバカな事を言っているのです!?」

「さっきの女の子が大切なものを取りに戻ったんです。迎えに行ってやらないと」

「しかし、私達が階段を降りて来た時には…」

「多分、そこの非常階段を使ったんでしょう。今は非常灯が作動して明るくなっているから、そこから昇ったんだと思います」

確信めいた直感があった。彼女は今、一人で泣いている。

「俺が行ってやらないと」

「ダメです!許可出来ません!私が戻ります!」

「マリアさんは人質のみんなと一緒に降りて下さい。またいつ爆発が起きるか分からないですから。俺には不思議な力なんて使えない、だけど女の子を抱えて一階まで降りるくらいなら出来ます」

「ダメです!」

「…あんたは俺の師匠だろーが!?」

気付いた時、俺はマリアさんに向かって声を張り上げていた。マリアさんは声を詰まらせて俺を見ていた。

「俺を一人前のフラグ・クラッシャーにしてくれるんだろ!?俺の事、信じてくれよ」

マリアさんはそれ以上何も言わずに目を伏せた。俺は階段に向かって走り出した。

「勝一!」

振り返ると、マリアさんが汗を滲ませた顔で俺を睨んでいた。

「勝手に死ぬ事は許しませんよ…!貴方に止めを刺すのは私の仕事です、絶対に生きて戻るように!良いですね!?」

…何て物騒な励ましの言葉なんだ。俺は苦笑しながら頷き、階段を駆け上がった。


今のところ、爆発が起きたのは十階だけのようだった。階段を昇って行くと、徐々に暗闇が深まっていく。十二階の構造だけは他の階と異なっており、室内には月明かりが入るような窓は一切ない。天井のガラス張りは明るく輝いているが、天井が高過ぎるためこちらまで光は届かない。

「みきちゃん!いるんだろ!?返事をしてくれ!」

俺は暗視ゴーグルを装着して辺りを見渡す。すると、エレベーターのドアの脇に、ぬいぐるみが落ちているのを見付けた。そして、非常ドアの向こうから誰かがすすり泣く声が聞こえた。

「みきちゃん!」

ドアを開くと、先程の女の子がうずくまって泣いていた。どうやらここまで登ってきたものの、怖くなってしまい動けなくなったようだ。こんな小さな女の子だ、無理もない。

彼女は暗視ゴーグルを着けた俺を見て、声を上げて泣き始めた。しまった、俺が怖がらせてしまった。

「ほら、これだろ?お前が探してたのは」

俺は努めて優しい声で彼女に話し掛けた。そして、ぬいぐるみを彼女に渡すと、彼女は泣き止んで笑顔を見せた。

「…くまさんだぁ!ありがとう!」

「もうなくすなよ。さあ、行くぞ」

俺は彼女を抱き上げると、階段に向かって走り出した。その時、再び大きな揺れと、何かが砕けるような衝撃音が鳴り響いた。

…マズイ!

俺は彼女を抱えたまま、身をよじった。遊技施設にある遊具が突然発光し、間もなく爆発したのだ。あっという間に辺りに火が広がる。暗視ゴーグルはその炎の光を増幅し、俺の目を眩ました。

「クソッ…!目が…!」

慌てて暗視ゴーグルを外して放り捨てたが、太陽光を直接見た時の何倍もの強烈な光が、俺の視界を完全に遮断した。

炎が猛る音、遊具が倒壊する音、少女の泣き叫ぶ音が俺の耳に飛び込んで来る。そして全身に感じる炎の熱、階下も既に火に飲まれている。階段からの脱出は絶望的だ。もはや、成す術は何もない。

それでも、それでもこの子だけは。

俺の腕の中で震えるこの子だけは、絶対に助けなければならない。

今度こそ、俺が、絶対に守る。


「全ては、神の意志」


声が聞こえた。いつの間にか、周りの轟音も消え、少女の泣き声さえ止んでいる。いや、音が止んだのではない。歪な形の炎、落下直前で静止している遊具、まるで時が止まっているようだった。


「全ては、光の意志」


俺は声の方向に顔を向けた。その先にいたのは、全身に真っ黒な衣装を身に纏った人だった。頭にはフードが掛けられており、顔は見えない。その声も、その人が男なのか女なのか分からない、不思議な声色をしていた。

「あんた……誰だ?」

やっとの思いで俺がそう問い掛けると、その人はどこかを指差した。すると、その指に従って、火の海となっていたフロアに道が開けた。まるで、モーゼの十戒を見ているようだった。


「全ては…」


最後の言葉は、ほとんど聞き取れなかった。気が付いた時にはその人は消え、全ての音が再び俺の耳に飛び込んで来た。あの人は一体何者だったのか。しかし今は、考えている時間はない。俺は開けた道の先を視線で追った。

…そうだ、一つだけあった!脱出出来る方法が!

俺は少女を抱きかかえたまま、走り出した。その道の先には、最初にマリアさんと侵入して来た梯子があった。この上には、マリアさんが開けた穴がある。炎も屋上までは届くまい。そこで救出を待てば良い。

俺は梯子に手を掛けた。金属製の梯子は炎に炙られてとてつもない高温になっていたが、今はそんな事には構っていられない。俺は梯子を昇り始めた。

同時に背後の道が炎に包まれた。もう引き返す事は出来ない。掌と靴底が焼かれ、焦げ臭い匂いが鼻につく。掌を貫かれるような痛みと戦いながら、俺は少しずつ、梯子を昇って行く。少女は俺の首にしがみ付き、ぬいぐるみを抱きながら目をぎゅっと瞑って恐怖に耐えていた。泣き出したい気持ちを必死に抑えて、俺の事を信じてくれている。彼女を見ていたら、心の底から勇気が湧いて来た。

やっとの思いで俺達は穴から抜け出した。屋上は相変わらず強風が吹きすさんでいるが、ずっと高温のサウナに閉じ込められていたような状況だった俺達にとって、外の新鮮な空気は救いだった。汗が冷やされてかなり肌寒いが、俺達はようやく一息付けた。その時、上空を旋回していた警察ヘリが、俺達に向けてサーチライトを照らした。俺は精一杯手を振る。どうやら俺達を発見してくれたようだ。

屋上はガラス張りとなっているため、ヘリが着陸する訳にはいかない。ヘリのドアが開き、ロープ製の梯子が垂らされる。隊員の一人が梯子の先まで降り、何か指示を出していた。ヘリがゆっくりと俺達に近づいて来る。

助かった…そう思った瞬間だった。

凄まじい爆発音と共に、屋上のガラスが上空に向かって吹き飛んだ。巨大な女神像はバラバラに砕け、炎の海に飲み込まれて行った。俺達は屋上の縁に移動していたため難を逃れたが、あのままガラスの上にいれば吹き飛ばされていた。警察ヘリは大きくバランスを崩し、梯子に掴まっていた隊員は必死に梯子にしがみ付いていた。

ダメだ。この状況ではヘリは近付けない。それにこのまま手をこまねいていれば、いずれ炎はここまで上がってくるだろう。マリアさんも、伊凛も、十田もいない。万策尽きた、絶望的な状況だった。

…ここまでなのか?その時、俺の脳裏にあの言葉が過った。

《一階にはフラグを張っておく》

あの言葉の意味は正直分からない。だけど、信じる以外に道はない。俺は少女を強く抱き締めた。

「……ウワァァア!!!」

俺は彼女を抱きかかえたまま、助走を付けて屋上から飛び降りた。恐ろしい強風に煽られ、俺達は凄まじい速さで落下していく。頭上から激しい熱を感じた。目の端に、直前まで俺達がいた場所が爆発で吹き飛ばされるのが見えた。俺達は尚も落下していく。

死ぬ、確実に死ぬ。そんな事は火を見るよりも明らかだ。

だが、それと同じくらい、俺にはある強い想いがあった。

絶対に、この子を守り抜く。

次の瞬間、俺達は深い水の中にいた。突然の出来事に混乱していたが、少女を離してはいけない、その事だけが俺の頭の中に渦巻いていた。それから、俺の意識は冷たい水の中で混濁していった…



「…勝一!勝一!!」

誰かが、俺の名を呼んでいる。うっすらと目を開けると、目の前に怖い顔をして俺に呼び掛けるマリアさんの顔があった。

「マリ…ア…さん」

俺がそう言うと、マリアさんは一瞬驚いたように目を見開き、俺の顔を覗き込んだ。

「…愚か者、貴方は本当に愚か者です」

彼女はそう呟くと、水で濡れて張り付いていた俺の前髪を優しく掻き分けた。

「……あの子は?」

「安心なさい、無事ですよ。貴方のおかげです」

「良かった…」

俺はほっとため息をついた。

「隊長と伊凛に感謝するのですね。二人が開けた大穴から地下水脈が出なければ、貴方達は今頃…」

「ち、地下水脈…?」

俺は驚いて先程俺達が落下した場所を見た。そこには、深く穿たれた大穴から大量の水が湧き出ており、小さな池のようになっていた。二人が一体どうやってこんな大穴を作ったのか、何故都合良く地下水脈を掘り当てられたのか、頭の処理が全く追いつかない内に、マリアさんが口を開いた。

「二人が《脱出フラグ》を張ってくれたおかげです」

…話が大きすぎて良く理解出来ないが、多分これが、十田の言っていた《フラグを張っておく》と言う事なのだろう。

「あの…勝一…」

珍しくマリアさんが口籠りながら俺を呼んだ。

「貴方は…見ましたか?…その…私の…」

マリアさんは羽織った俺の上着をキュッと握り締めながら問い掛けた。その手は微かに震えていた。だから俺は、笑顔を浮かべて言った。

「見てないですよ、何も」

「…え?」

「それより、怪我は大丈夫ですか?」

マリアさんは安心したようにため息をつくと、急にそっぽを向いた。

「この程度、怪我のうちに入りません。私を誰だと思っているのです?」

良かった。いつものマリアさんだ。その時、俺達の脇に誰かが走り寄って来たのを感じた。それは、あの少女だった。まだ濡れていて、顔や服は煤汚れているが、怪我はないようだ。その手には、あのぬいぐるみがしっかりと抱かれていた。

「おにいちゃん、ありがとう!」

彼女は輝くような笑顔で俺にお礼を言う。俺は痛む体を起こして、彼女の頭を撫でた。


―…ちゃん


その時、俺の胸に黒い淀みのようなものがのし掛かったのを感じた。目の前の少女に勘付かれないよう、俺は笑顔を作った。彼女は俺に手を振りながら、母親の元に駆け寄って行った。



「隊長、アイツ、やっぱりスゲーアルね」

彼らから少し離れた所で、伊凛君は二人を言った。我々の周りでは、警察官や救急隊員が忙しなく走り回っている。

「うむ。我輩の予想を遥かに超えていた」

我輩は同意しながら、勝一君の横顔を見つめていた。その時、胸ポケットから陽気な着信音が聞こえて来た。

『よぉ、六ちゃん。見てたぜ、ご苦労だったな。また借りが出来ちまったなぁ』

電話の先で、老人の鷹揚とした声が聞こえた。

「気にするな、こういう時はお互い様だろう」

『…しかし、お前さんも酷な事をするねぇ』

声は笑っているが、その目は恐らく笑ってはいまい。

我輩は老人の言葉を黙ったまま聞いた。

『五年前の世界同時テロ、忘れた訳はあるめぇな?』

老人は一呼吸置いて、鋭い口調で言った。

『なあ六ちゃん。そんなに大事かい、使命ってヤツは』

我輩は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

「ああ」

『若者の人生を踏み潰すことになってもかい?』

間髪を入れずに、老人は問い掛ける。この人物には嘘や誤魔化しは通じない。我輩はその事を良く理解していた。

「源さん。我輩は、傷は『舐め合う』のではなく、『触れ合う』事でしか癒せないと考えている」

『…そうかい。まあ俺っちも人の事を言えた義理じゃあねぇしな』

かか、と笑うと、老人は穏やかな声に戻った。

『じゃあな六ちゃん。この礼は改めてするよ』

「ああ」

電話を切ると、一陣の冷たい風が脇を通り抜けた。胸に去来する、不確かな未来への期待と不安。

我輩の思惑は、吉と出るのか、それとも……



「…勝一、申し訳ないのですがこの上着、もう少しお借りしていても良いですか?血で汚れてしまっていますし、洗ってお返しします」

マリアさんは恥ずかしそうに顔を赤らめて、おずおずとそう切り出した。あのマリアさんの貴重な表情だ。俺はしっかり目に焼き付けておこうと思った。

「ええ、もちろん。そんなので良ければ」

「それと、本部に戻ったらトレーニングルームに来るように」

「え?」

本日最強の嫌な予感が頭を過る。

「…な、何でですか?」

「貴方には罰を与えると言った筈です」

マリアさんの青い瞳がキラリと輝いた。俺は汗なのか水なのか、よく分からない雫を拭いながら抗議した。

「いや、でも!俺こんなに頑張ったし!こんなに怪我してるし!今日は勘弁して下さいよー!」

「フラグ・クラッシャーたる者、一度交わした約束は必ず守らなければなりません」

そう言うと、彼女はニコリと微笑んだ。

「覚悟して下さいね、勝一」

心なしか、その微笑みはいつものものとは少し違って見えた。

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