プロローグ2.橘もどかの場合

「もどか様!おはようございます!」

「も、もどか様、今日もお美しい…」

「橘先輩、おはようございます〜!」

爽やかな朝、私、橘もどかはとても気分が良かった。

「皆さん、おはよう」

私立神ヶ丘学園附属中学校。橘財閥の令嬢たる私が通うにはいささか格式が低いけれど、ここの生徒達は皆純朴で従順、居心地は悪くない。入学から二年経った今、先輩後輩問わず、全校生徒は私の事を女神のように崇めているし、先生方も私に気を使って敬語で話し掛けてくる。それもひとえに大財閥・橘財閥の力だと言う事は私自身、幼少の頃から理解していた。

だからこそ、皆が望む『橘家のご令嬢』を演じてきた。私が『橘もどか』を演じる限り、誰も私を否定しないし拒絶される事もない。

…そう思っていたの。


「ねえ、教科書を見せてもらってもいいかしら?」

ざわついていた教室が、ピタリと静まり返った。誰も彼もが振り返り、教室の一番隅に座る私達に注目する。そしてその幸運な男子に皆が羨望の眼差しを向ける。これがお決まりのパターンだった。私としては、女子の隣に座るのは男子だから声を掛けるだけでそれ以上の意味は何もないのだけれど、そう言われた男子は蕩けたような真っ赤な表情で私に教科書を差し出す。これがいつものパターンだった。

そう、それがお決まりだったの。

「断る」

「ありがとう、じゃあ……え?」

今、この人はなんと言ったのだろう?私は思わず聞き返してしまったわ。

「今、何て言ったの?」

「断る、って言ったんだ」

その人はぶっきらぼうに言い放った。

「教科書だったら自分の見ろよ」

「な…!」

あまりにも突然で不躾な言葉に、私は言葉を詰まらせてしまった。頬が熱くなり、全身の血が頭に昇ってくるような感覚がした。

「わ、私は!忘れてしまったから見せてと頼んだのよ!?それなのに…」

「引き出し、一番奥」

その人は私の顔も見ずにそう言った。呆然とした私は乱雑とした引き出しに手を入れた。放課後は学習塾、家では専属の家庭教師がいたから、ノートを取るだけで教科書を家に持ち帰る必要はなかった。

「あ…」

それは確かに数学の教科書だった。私は震える手でその教科書を見つめた。悔しいやら恥ずかしいやら、情けない気分だった。するとその人は表情も変えずにこう言った。

「引き出しの整理くらいしろよ、だから見つからなくなるんだよ」

その言葉を聞いた瞬間、目の奥が熱くなり、教科書がぼやけて見えた。堪え切れなくなり瞬きをすると、大粒の涙がポタリと教科書に落ちた。同時に、教室が湯が沸いたようにざわめき出した。

「も、も、も、もどか様〜!!」

「泣かないで!大丈夫だから!」

「あんた最低ね!」

「もどか様に謝りなさいよ!」

教室中の至る所から、私を擁護する声とその人を責める声が聞こえた。私は泣き顔を見られたくなくて、机に突っ伏した。こんな事、初めてだった。その後すぐに先生が教室に入ってきて騒ぎは収まったけれど、私の心はざわついたままだった。

その日、私は初めて白紙のノートと、教科書がパンパンに詰まったカバンを持ち帰った。

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