第11話  朝日の旅館

 観光、宿泊の人々をかき分けながら、俺は足早で旅館に戻った。

 湯気が夜の明かりの中でほんのり立ちこめる温泉街は、また絵になるくらい風情がある。

 ずいぶん夜も更けてきているがまだ賑わいをみせていて、店の明かりが煌々と点っている。

 部屋に戻ると、親父とお袋が、テレビを見ながら、もう一度風呂に行こうかなどど、暢気に話していた。

 俺も、また入りに行くかと親父に誘われたが断った。

 そして、そのまま綺麗にセットされた布団に入り、眠るべく丸くなった。

 早く寝よう。

 だが……。

 さっきの静夫の、いや静香の泣き顔が脳裏に浮かぶ。

「くそ、寝られねえ……」

 温泉旅行気分はどっかに行ってしまった。

 それでも体は疲れていて寝たい欲求はある。

 何度も睡眠の手前までいって、ぎりぎり踏みとどまってしまう。

 瞼に、少女の涙、働く姿が、あの浮かんでくるのだ。

 寝ているのか起きているのかわからない状態のまま、寝苦しい夜が過ぎてゆく。

 何度かトイレに起きては、また布団に戻る繰り返しだ。

 やがて、そのまま白々と夜が明けてきた。

 もうすぐ朝飯の時間が来る。

 既に起きていた親父とお袋は朝風呂としゃれこんで、ゆだっていた。

 やや寝不足気味のまま、朝風呂に入った。

 一応夜中もずっと風呂に入ることができるのが売りだ。

 早朝だったためか、浴場は俺一人。寝間着の浴衣を脱ぎ捨てて、露天風呂に入る。貸し切り状態だった。

 そして、ゆっくりと湯につかった。

「ふう……」

 睡眠不足の体に温泉の熱が染み渡っていく。

(こりゃ帰りの電車の中は爆睡だな……)

 そう思いつつ朝日の強い光が差し始めた空を眺めた。

 俺の住む町では見られない朝の霧が漂う深緑の山。川のせせらぎが聞こえる。

 そして俺一人ーー。

 いいもんだな。観光地になるだけはある。

「ん?」

 風呂に入り、再び浴衣に着替えて部屋に戻ろうとすると、もう下の帳場や調理場がごそごそうごめいていた。

 ガチャガチャトコトコと音がする。どうやら炊事場のある当たりだ。

(すげーー、こんな早くから朝の準備をしてるのか、旅館の従業員って大変だな)

 おもてなし、なんて簡単にいうが、行き届いたサービスをするのは並大抵の苦労じゃないだろう。

 朝食の準備やら朝の掃除やらで動き始めているんだ。

 いったいどれくらい寝る時間も取れているんだろう?

 あそこに静夫、いや静香も一緒に早朝からの仕事にとりかかってるのだろうか。


 そして、朝食の時間が着た。

 部屋にやってきた静香とは別の従業員の女性が、手早く布団を片づけてゆく。

「おはよう、父さん、母さん」

「あら、ずいぶん眠そうね」

 俺の状況を知らない母さんは、大きなあくびをした俺を笑う。母さんも父さんも朝風呂で湯だった顔だ。

「うーん、ちょっとね……」

 あらかじめ伝えられていた時間通りに、部屋がノックされた。

 昨日の少女ーーとどのつまり静夫……が朝食を運んできた。

 やはり昨日のような着物と帯を来て綺麗に身繕いしている

 そして足袋を履いた足でしずしずと食事を持ち運ぶ。

「おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」

 にこやかな笑顔で皿や料理を揃える。

 昨日の俺にみせた泣きっ面をみじんもみせていなかった。

「ああ、おかげさまで」

「この人ったら、昨日は5回もお風呂に入ってたんですよ」

「いやあ、これまでにも増していいお風呂になってるねえ。さすがお義姉さんだ」

 インテリアやアメニティなどが格段に良くなったとほめちぎる。

 静香もありがとうございます、と愛想笑いをする。

「……」

 チラッとみたような気がした。

 俺は目を逸らした。

「……」

 何事も無かったかのように、父さんと母さんは食事を続け得る。


「お、そうだ、ご飯のおかわりをもらおうかな」

「あら、あたしはお茶をもらおうかしら」

「はい、ただいま」

 呼ぶとやってきて、忙しなく相手をする。


 あの遊び人の静夫が今はここまでかいがいしくやってるかと思うと、胸が痛くなった。一方で俺は、ここで優雅にくつろいでいる。

(いや、静夫の自業自得じゃないか。しかし、今は孤独に頑張っている……あんな少女の姿にされてしまって……)

「母さん、あんまりいろいろ注文すると静香さんが……」

「おや、そうだねえ」


「だめだぞ、良太。静香さんに手を出したりしたらーー」

「でも良太には静香ちゃんのような気が利く子がいいわねえーー」

 暴走気味になってきた両親の脳天気な会話に俺は慌てて箸を置いた。

「んなわけないでしょ! 母さん」

 目の前でなにを言ってるんだ、父さん、母さん。思わず正体をいってしまいそうになったが、口を噤んだ。

 静香は、ひきつった笑いを浮かべていた。


 一泊二日の旅行はあっという間である。

 もうそろそろ出発の時間が来た。

 駅から離れているこの山奥の温泉街は、バスの時間も決まっている。


「どうした? 良太。何か考え込んでいたようだが……」

 父さんが俺の様子がおかしいことに気が付いたようだ。

 旅行の着替えや荷物を整理して、鞄に詰め込む。

 そして出発の時間をゆっくりと過ごしていた。

「いや……」

 首を振った。

 温泉旅行を兼ねた母方の実家がえりが、吹き飛んでしまった。


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