願いをさえずる鳥のうた

野森ちえこ

前編 雑木林と青年

 その雑木林は、ぼくの散歩コースになっていた。

 一か月ほどまえに引っ越してきたマンションから、のんびり歩いて十分ほど。住宅街からも商店街からもはずれていて、人どおりらしい人どおりもない。なんていうと、犯罪の温床おんしょうになりそうに思えるが、そんな気配はまるで感じない、とても気持ちのいい場所だった。

 五月さつき晴れという言葉がぴたりとはまる、今日みたいな日はなおさらだ。

 風のざわめき。鳥のさえずり。からりと明るい、澄んだ空気に満たされている。


 ブラブラとなかほどまで進んだとき、ふいにその姿が目にはいった。

 青年が、木漏れ日の下で空を見あげている。

 白いシャツに包まれた背中が光にとけて、今にも消えてしまいそうに見えた。

 肩幅はがっしりしているし、上背うわぜいもあるのに、青年を構成するなにかがひどく希薄で、妙に不安になる。


 なんの鳥だろうか。ピィーキュロピィーキュロ、高らかに歌う鳥の声が頭上から降ってくる。


「浮気の誘いかなあ?」


 初対面の相手にかける第一声としてはどうかと思うけれど、あたりさわりのない挨拶では逃げられてしまうような気がした。

 自分でいうのもなんだが、ぼくのこういう直感はわりとよくあたるのだ。


 大学生だろうか。青年はギョッとしたようにこちらを振り返った。精悍な顔立ちをしている。


「……なんですか、浮気って」


 よし。くいついた。


「ぼくもなにかの雑誌でちょっと読んだだけなんだけどね。鳥の歌には、自分の性別とか、独身か既婚かとか、いろんな情報がふくまれてるらしいんだよ」


 それらは強弱やテンポによって変わるらしいのだが、そのさえずりルールを利用して、巣の近くでは妻にさえずり、遠出しては独身アピールをするなんていうオスもいるのだとか。そうして二か所の森を行き来して、本妻と浮気相手と二重生活を送るオスもいれば、歌上手なオスについてまわり、おこぼれを狙うオスもいるのだという。


 メスはメスで、こっそり縄張りを離れては、より歌のうまいオスと浮気したり、独占したいオスをめぐってメス同士でとっくみあいのバトルを繰り広げたり、なんてこともあるらしい。

 という雑学語りをいきなりはじめたぼくを、ポカンとみつめていた青年はやはりポカンとした顔で口をひらいた。


「マジですか。なんか、鳥を見る目が変わりそうです」

「あはは。だよなー」


 愛くるしい姿で美しい歌を奏でる小鳥たちであるが、その世界は人間社会に負けず劣らず、なかなか生々しいみたいだ。


「気持ちいい場所だよね、ここ。きみも散歩?」

「まあ、そんなところです」

「ぼくは菊竹周治きくたけしゅうじ。この町には、最近引っ越してきたばっかなんだ」

「……久門です。久門くもんあゆむ



 ♭



 なぜ歩くんに声をかけたのか。

 なぜ逃してはいけないと思ったのか。


 それはやはり直感としかいいようがないのだけど、どこか――自分のなかの、手が届かないくらい深いところで、なにかを感知したのだと思う。


 もともと無口なのか、ぼくを警戒しているのか。かろうじて、今年の春から大学生になったということと、地元の人間だということだけは教えてくれたものの、歩くんは自分のことをほとんど話そうとしなかった。こんなひょろっとした、冴えないおっさん相手では無理もないが。


 そうして、自分でもなにをしたいのかよくわからないまま、たいして中身のない雑学やら世間話やらをペラペラしゃべっていたのだけど、ぼくが兼業作詞家だと話した瞬間、わずかに歩くんの顔色が変わった。


「歌……つくってるんですか」


 思わずといったように口をひらいた歩くんの表情はかたい。


「うん。それだけじゃ食べていけないから、ウェブライターもやってるけどね」


 そもそものきっかけは、高校時代にはいっていた軽音部で、オリジナル曲を何曲かつくったことだろう。部内コンペで、ぼくの詞が採用されることが多かった。

 もちろん、だからといってプロになろうともなれるとも思っていなかったのだが、人生なにがどう転がるかわからない。

 高校卒業後数年、軽音部仲間のひとりがシンガーソングライターとしてメジャーデビューをはたした。それだけでも驚いたのだけど、そいつがはじめてのアルバムをつくったとき、いったいなんの気まぐれだったのか、何曲か詞をつけてくれないかとぼくに依頼してきたのである。

 結果として、当時駆けだしライターだったぼくは、それを契機に作詞家としても活動するようになった。十年以上まえの話だ。


 これまで、ぼくが詞をつけた曲が大ヒットを飛ばすなんてことはなかったけれど、いつもそこそこ売れるので、そこそこ仕事がはいってくる。


「音楽、嫌い?」

「いや、そういうわけじゃ……」


 きっと、踏みこむならここだ。


「ぼくら、他人だよね」

「え」

「ぼくは、歩くんがどんな性格でどんな人間なのかも知らない。さっき会ったばかりで、このまま別れれば二度と会わないかもしれない。現時点でのぼくは、きみの人生になんのかかわりもない人間だ。身近な人間に話しにくいことを話すには手ごろな相手だと思わない?」


 歩くんはめずらしい生きものでも発見したかのような目で、じっと、まじろぎもせずにぼくを見ている。もし視線が実体化したら、確実に顔をつらぬかれているだろう。

 ぼくは力を抜いて、なんでもないような顔をする。目だけはそらさずに、そっと待つ。


 ふっと、歩くんの緊張がとけた。ぼくに向けていた視線も空に移動する。


「すごく、歌のうまい女の子がいたんです。おれの一歳下でした」


 まさに今、歩くんが立っている場所で歌っていたのだという。

 おそらく、誰もが一度は聞いたことがあるだろう讃美歌を。いきいきと、うれしそうに。

 歌うことが好きで、それとおなじくらい鳥のことも好きな女の子だったらしい。


「二重生活をする鳥がいるとか、知ってたのかな」


 そうつぶやいた彼の表情は、切ないくらいにやさしかった。


「そのころ、おれ、ちょっと荒れてて」


 少女の歌声に、ずいぶん癒やされたのだと彼はいう。

 それ以来、高校生だった歩くんは、放課後になるとこの雑木林にかようようになった。雨の日以外、ほぼ毎日。少女に会うために。


「いつのまにか、好きになってました」


 交際を申しこんだとき、すこし考えさせてと、うれしそうに頬をそめていたという。しかし、その翌日から、彼女はふっつりと姿を見せなくなった。


 歩くんは、そうなってはじめて、彼女のことをなにも知らないのだと気がついた。彼女から聞いたのは下の名前と年齢だけ。メアドも電話番号も、名字すら知らないのだと。それは彼女が意図的に隠していたふしがあった。


 なにも知らない自分。告白したとたんに姿を消した彼女。つまりはそれがこたえなのだろうと歩くんは思った。

 もう会えないのだと、どうにか忘れよう、あきらめようともがいて数か月。秋のおわりになって、歩くんは彼女の死を知った。自宅マンションから落ちたのだという記事を、スマホのニュースサイトでみつけてしまったのだという。


 状況から見て、自殺の可能性が高いとされたらしいが、ほんとうのところはわからないという。

 はたして彼女は自宅マンションのベランダから『飛んだ』のか、それとも『落ちた』のか。


 部外者である彼の耳にはいることといえば、虐待されていたとか、妊娠していたとか、売春していたとか、クスリをやっていたとか、どれもこれも無責任な噂ばかりだった。


「彼女、サインだしてたんです」


 歩くんの声は、とても静かだった。

 まるで、自分にはかなしむ資格がないとでもいうように。


「歌ってるときは、ほかのことぜんぶ忘れられるからって、そういってたのに。きっと、すごく苦しんでたのに。おれ、ぜんぜん気がつかなくて、自分の気持ちばっか、押しつけて。彼女がなにを思ってたのか、なんで死んでしまったのか。いくら考えても、わからない。それだけです」


 いっそ、おだやかに感じるくらいに。

 それはとても、とても静かな吐露だった。



     (つづく)



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