ヒーローは泣かない。—— I am Sailing
♪〜I am sailing
Stormy waters
その日、私たちは、海の向こうへ旅立つ彼を見送った。
会見を終えて、最後に彼が笑顔で手を振りながら広いドームを一周する。
会場——彼が数々の栄光を刻んできた場所——には、彼が選んだこの曲「I am Sailing」が流れていた。
その姿を目に焼き付けたいのに、彼のことがよく見えない。
私は号泣していた。
***
彼はエースピッチャーだった。
高校からプロに入って、やんちゃをやったり、ケガをしたりと出遅れた。
それでも、初めて一軍のマウンドに上がると、その後は一直線に、
自他ともに認める日本最高のピッチャーへと上り詰めていった。
メジャーリーグ移籍をささやかれ始めても、彼は否定し続けた。
なのに、結局、アメリカへ渡ることになった主な理由は二つ。
彼の成績に見合う年俸を払い続けることが、球団の負担になっていることに気づいてしまったこと。
そして、日本で、自分が挑める
バッターが本気で向かってきてくれるのでなければ、モチベーションを維持するのは難しい。彼は張り合いを失いつつあった。
***
ピッチングそのもので魅せられる投手は、なかなかいない。
彼が投げる試合は、守備回に席を立つファンが通常より少なかったと思う。
いくつもの球種を操り、駆け引きし、時には真っ向から直球をズバッと決めて、
バットが空を切ると雄叫びを上げる。
玄人を唸らせる、圧巻のピッチング。
一人マウンドで奮闘し、味方の援護なく敗れても、
「1点でも取られた自分が悪い」と言う。
いつもパーフェクトを目指し、泣き言は決して言わなかった。
クールな言動が誤解され、反感を買うこともあったけれど、
彼のプレーに嘘はなかった。
ストイックに、淡々と、我が道を進んでいた。
***
20XX年日本シリーズ第2戦。
第1戦に先発しなかったことで、深刻な故障を疑われていた彼が登板した。
確かに、相手を圧倒するような、いつもの威圧感はなかった。
だけど、彼の周りには静かな気迫がオーラとなって立ち込めていた。
その姿に鼓舞されたチームは勝利し、対戦成績は一勝一敗に。
推測どおりケガをしていた彼は、患部に負担をかけない投球を工夫し、見事に勝ちを引き寄せたのだ。
いつもと違うスタイルながら、いつも以上の気迫のこもったピッチング。
一番記憶に残る彼の試合を訊かれたら、「一世一代の投球」としてあの試合を挙げるファンは多いだろう。
***
♪〜I am flying
Passing high clouds
to be near you
to be free
さらなる栄光へ近づくために、彼は旅立っていった。
過去は過去として、新しい歴史の幕を開けるべく、
その日、彼はもう一度まっさらな自由を手にしたのだ。
別れの会見に集まったファンは、心からの感謝とエールを込めて彼の船出を祝した。
***
当時、日本人としては過去最高の期待を背負って新天地に降り立ったはずの彼も、
その後すぐには、思うようには羽ばたけなかったことは、本人も認めるところだろうと思う。
それでもなお、私がこの目で見てきた彼は色あせない。
今でも私の中のヒーローだ。
そして、神の御もとへと旅する人の魂を歌ったこの歌は、
もともと私が自分の葬送にでも流したいと思っていた曲だったのだけど、
あれ以来すっかり、彼のテーマ曲になってしまった。
今でも聴くたびに、あの一世一代の気迫のピッチングと、
涙の向こうで手を振る、希望に満ちた彼の笑顔を思い出すのだ。
♪「I am Sailing」ロッド・スチュアート
https://www.youtube.com/watch?v=FOt3oQ_k008
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます