☗『名人に定跡なし』

 将棋会館を出たあと、千駄ヶ谷から原宿の方に少し歩いたところにある中華料理屋で昼食を取ることにした。

 この店も双葉の目的地の一つだった。


「さっすが双葉ちゃん。しっかり調べてるね。名前は知ってたけど、初めて来たよ」


「まあ、せっかくですから」


 見た目はどこにでもある街の中華屋だが、プロ棋士が対局の際に出前を頼むことが多いということで、いわゆる“将棋めし”の一つとして将棋ファンには有名な店だ。

 双葉はそこで玉子炒飯を注文した。炒飯の上に豪快に乗せた半熟卵が特徴の看板メニューだ。想像以上に量が多かったが、双葉はなんとか平らげた。


「これからどこに行くんですか?」


 店を出て駅に向かう道中で、双葉が真菜に問う。


「ふっふー、着いてからのお楽しみ。そんなに遠くないから大丈夫だよ」


 含み笑いをする真菜に言われるがまま電車に乗り、数駅が過ぎたころ「ここで降りるよ」と促されホームに降りる。

 改札を抜けて少し歩くと、真菜は寂れた雑居ビルを指さした。


「……ここ?」


「うん。エレベーターなんて無いから歩いていくよ」


 期待よりも不安の方が増してきたが、悟が何も言わないので双葉も黙って付いていく。

 四階まで上がると、急にたくさんの人の気配がした。

 ガラス張りの扉の奥から人の声が聞こえる。


「ここが私のお気に入り」


 入口には『桑原将棋道場』と小さな看板が掛けられていた。


「あ……もしかして、マナさんが通ってる道場ですか?」


「正解。将棋会館の空気にあてられちゃって、もう指したくて指したくて仕方なかったでしょ? ここなら思う存分に指せるよ」


 将棋道場とは、将棋好きが集まって将棋を指したり、ときには講師を呼んで教えてもらう場所のこと。双葉の家の近くにも道場があるが、一人で行く勇気はどうしても湧かなかった。いつかは行ってみたいと思っていたが、まさか突然こんな機会に恵まれるとは予想だにしていなかった。


「おう、真菜ちゃん。今日は随分めかし込んでんじゃねえか」


 年季の入った机に肘をかけて新聞を読んでいた老人が真菜に気付いて言った。

 どうやらここが受付らしい。

 

「こんちは、桑原くわばらさん。今日はお客さん連れてきたよ」


「へえ。真菜ちゃんの紹介じゃ、ちっとはサービスすっか」


 桑原と呼ばれた男が呼んでいた新聞を畳んだ。

 自分の祖父と同年代だろうか。ほぼ白髪ではあるが、年齢の割に豊かな髪をオールバックに整えている。無精ひげも無く、藍鼠色あいねずいろ作務衣さむえを着こなしている。


「双葉ちゃん、道場って初めてだよね?」


「あ、はい」


 道場には5組ほどの対局者達がいたが、全員が自分の父親よりもずっと年上の男性ばかりだ。そんな彼らがこちらを気にした様子でチラチラと伺っている。

 将棋は指したいが、少し落ち着かない。


「緊張しなくてだいじょーぶだよ。みんな怖くないから」


 それにだいたいの人よりは双葉ちゃんの方が強いし、と真菜が小さく囁く。


「ああ、真菜ちゃんが勝ちたいっつってた相手はこの嬢ちゃんか」


「そそ。将棋始めてまだ一年も経ってないのに、もう“将棋ウォーリアー”で初段なんですよ」


「ほお。そっちの兄ちゃんは?」


「俺はまだまだ初心者です。二ヶ月くらい前から始めたばかりで」


「なるほど。じゃ、初見さんっつーことで棋力を測らせてもらおうかな。準備するから、ちっと待ってな」


 店主が棚から将棋盤と駒を取り出している間、真菜がひそひそ話をするように二人に向けて言う。


「ここの道場の判定はちょっと厳しいっすからね。ちなみに私はここだと初段です」


「場所によって違うのか?」


「カラオケの採点機能みたいなもんです。同じ歌い方でも機種によって点数違うでしょ?」

 

「うーん、わかったような、わからんような」


 悟はいまいち納得できていないようだが、双葉は腑に落ちた。

 棋力は強さの目安にはなるが、グループ内の相対評価でしか測ることができない。のための指標として使うのであれば、それで十分なのだ。


「マナさん、あの人すごく強いですよね」


 なぜかは分らないが、双葉はそう確信した。


「うん。指せばもっとわかるよ」


 真菜はそれ以上のことを言わず、ただ黙って微笑んだ。


「よっし、準備できたぜ。嬢ちゃんの棋力は、だいたい真菜ちゃんと同じくらいだよな」


「えっと……はい。勝ったり負けたりです」 


「じゃあ、こんなもんか」


「え?」


 双葉は目を疑った。

 店主が大駒を二枚手に取り、駒袋の中に仕舞う。


「二枚落ち……!?」


 の両方を落とす二枚落ちは、6~7段の差がある場合に行うだ。


「こっちの兄ちゃんにはも落としてやる」


「え、そんなにいいんですか? ありがとうございます」


 なにも分かっていない悟が呑気な顔でお礼を言っている。

 このが酔狂や冗談でなければ、この人は想像を絶するくらいに強い。


「ねえ、なんで三つ用意したんです?」


 二人の後ろに立っている真菜が店主に問いかける。

 真菜の言う通り、長机の上に駒と盤が三セット用意されている。


「真菜ちゃん、何言ってんだ。おめえもやるんだよ。はよ座れ」


「え? 私も?」


「強くなったっつって調子こいてるらしいからな。どんくれえ成長したか見てやんよ」


「三面指しで? いくら桑原さんでも厳しいんじゃないですかー?」


「そういうのは勝ってから言え」


「じゃあ……もし二枚落ちで私が勝ったら、二段に昇段させてもらえます?」


「ほう。そういうことなら、オレも本気でやんぜ」


「の、望むところですよ!」


 そう言って真菜が双葉の隣に座った。


「んじゃ、始めるか。オレは桑原有一ゆういち。ここの席主せきしゅだ」


 そう言って桑原が双葉と悟の顔を交互に見る。


「あ、俺は稗村悟です。南條と同じ会社に勤めてます」


「えっと、私は富樫双葉。こっちのサトルちゃんの従妹、です」


「うん。じゃあ、よろしくな」


「よろしくお願いします」


 双葉にとって、初めて自分が下手したて側の駒落ち戦が始まった。



・・・・ ・ ・・・・・・………─────────────………・・・・・・ ・ ・・・・

 


 ☗双葉の将棋格言講座☗

 

 『名人に定跡なし』


 定跡ってさ、これまでたくさんの棋士の人たちが研究してきた指し方だから、それを覚えるのと覚えないのとじゃ勝率が全然違うんだよね。サトルちゃんもその辺はわかってると思うけど。

 でもね、トップレベルの人はその定跡を超えた手を指すこともあるんだよ。ううん、そういう手を指せるからトップレベルなんだと思う。


 でもそれって、ただ変わった手をさせばいいってわけじゃないからね。定跡を完全に把握した上で、その先をいく手を指すってことだから。

 逆に言えば、それくらい強くなって初めて、型や枠から抜けることができるってことなんだろうね。

 これって、いろんなことに通ずるところがある気がするなあ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る