ドモヴォーイ~見えざる家族~

笹野にゃん吉

一、シチーが冷めるより幸せな時は短い

 ドモヴォーイは目の前の四人の男女を見ている。観察に努めるでもなく、恨みがましくめつけるわけでもなく、春の空に流れる雲を眺めるような目つきで。暖炉ペーチの中に背を丸めながら、ぼんやりと。


「寒い……」


 ひときわ大きな身体を震わせ、家長のアレクセイが呟いた。ひょうひょうと雪の吹きすさぶ小窓を一瞥すると、黒ずんだ指先をこすり合わせた。手のひらに吹きかけられた息が、ボッとくぐもった音を鳴らした。


 ドモヴォーイはちょっと委縮した。ちょうど天上の神がを地上へ堕としたときの仕種も、あんな風だったからだ。


「じきに、チューストヴァ村でも人頭税を取られるようになるらしい」


 けれど幸い、アレクセイは怒っているわけではないようだった。空になった鍋を見つめる目は憂鬱に翳っていた。窓がガタガタと音をたてた。瘤のような肩のあいだに猪首いくびが沈んだ。妻のエーヴァが編み物の手を止めた。


「ロスティスラーフ様がそう仰られたのですか?」

「使いの者から聞いた」

「そうですか。ますます辛くなりますね……。それでも私たちは恵まれています。今年の実りにも、寛大な領主様にも感謝しなければ」

「母様のおっしゃるとおりです。おかげで今日もシチーがおいしかったじゃないですか」


 両親を労うように、ボリースが笑った。その腕の中では、妹のエレーナが寝息をたてていた。しかしな、とアレクセイが何か言いかけたその時だった。


「……フゴッ」


 突然、エレーナの小さな鼻が豚のような音を鳴らした。

 アレクセイは目を見開き、喉から出かかった言葉を忘れてしまった。そして、妻と息子を順番に眺めた。ふたりの表情は、まるで鏡だった。三人は一斉に吹きだした。


 哄笑が風の音をはね退けた。


 ドモヴォーイも家族に混じってキャッキャと笑った。暖炉からとび出し、手を叩き、そこら中を跳ねてまわった。


「んん……っ」


 が、エレーナが寝苦しそうに眉をひそめると、とたんに静かになった。アレクセイもエーヴァも笑いをひっこめた。ただ一人、ボリースだけが笑い続けていた。その腕の中でエレーナは、揺り籠にゆられた赤ん坊のように頬を緩めていった。


 ドモヴォーイは寝顔をそおっと覗きこんだ。そして、すこしだけ、ほんのすこしだけ、彼女が目覚めはしないかと期待した。エレーナだけが彼の声を聞き、「おじいさんデドゥシュカデドゥコ」と呼びかけてくれるから。


 けれど、幼い頃の夢ほど深くながいものだ。目覚める気配などちっとも感じられない。安らかな寝顔を見ているうちに、ドモヴォーイは、我儘に見切りをつけた。エレーナがより心地好い夢のなかを旅できるよう願いさえした。

 そして、白くながい毛で覆われた手を伸ばし、まだ乳の匂いが残る金の髪をやさしく撫でてやるのだった。


「ゆっくりお休み、愛しいエレーナレヌーシュカ



――



 皆の寝静まる頃合いが、ドモヴォーイの動きだす時間だ。とはいえ、彼は家を守る妖精で、人のように眠るわけではない。昼間は、働いてはならないと命じられたわけでもない。家族を驚かせたくないから、夜な夜な仕事をするのだ。


「よい、しょ」


 温められたミルクを脇にのけ暖炉から這いだすと、ドモヴォーイは、天井の隅に備え付けられたものをしみじみと眺めた。聖像イコンの祀られた神棚だった。仕事を始める前に、彼は決まって神を想うのだった。


 ドモヴォーイたち妖精は、かつて神とおなじ世に暮らしていた。が、地上の命を憐れんだものたちが、彼らを天に召し上げられないかと神に直訴すると、神は怒って妖精たちを追放してしまった。


 だから、妖精の中には神を恨むものもあれば、命に憐れみを抱いたことを悔やんで却って命あるものを虐げるものもいる。


 ドモヴォーイも地上で目を覚ましたときは、神を恨みもした。いまも神に対する恐ればかりは拭いきれてはいない。しかし常命のものたちと交わる中で、彼は神の真意がべつにあるのではないかと考えるようになった。


 他を愛し、他を慈しみ、他を助けよ。

 過酷な大地の上で、酷薄な隣人の中で、せめてお前たちが真実の家族であれ。


 命と精、双方の辛苦を慰めるための決断が、きっと互いを寄り添わせることだったのだろう、と――。


「……ありがとうございます」


 ドモヴォーイは我に返り、しばし瞑目した後、ようやく聖像に背をむけた。

 壁を伝い向かったのは、居間の左奥。台所だった。彼は背の低い棚の、質素な木製の皿を一枚手に取ると、絹束のような白い毛をこすって表面を磨き始めた。


愛しいエーヴァエーヴシュカが喜ぶよ」


 当然、いくら磨いたところで木の皿が銀器にはならない。月明かりに瞬いてはくれない。けれどドモヴォーイの毛は、虫を弾き、繊維の隙間のよごれを落とし、表面のささくれを均していく。


「汚れが隠れて、病が逃げるよ。陽が昇って、窓を叩くよ。誰が? もちろん、みんなのおじいさんが!」


 やがて彼は、陽気な歌を口ずさみはじめた。人は哀しい歌ばかりうたうが、ドモヴォーイはとりわけ陽気な歌が好きだった。


「よし、次!」


 食器を一通りきれいにすると、次は床の掃除だ。毛むくじゃらの足をこすりつけ、丁寧に磨いていく。これがなかなか大変な作業だ。今度ばかりは歌う余裕もなかった。


「おお?」


 けれど床の軋む音は、次第に音色のように感じられてくる。歌唱は無理でも演奏なら続けられそうだ。ドモヴォーイはジャンプやステップを交えながら愉快に掃除を進めていった。


「……おじいさん?」


 そこに突然のウィスパーボイス。

 ドモヴォーイは驚いてぴょんと跳びあがった。彼と同じ妖精のなかには悪いものもいる。それがやって来たのだと決めこんで、彼はふり返った。


「あ」


 ところが、そこに立っていたのは眠気眼をこする少女だった。エレーナだ。小窓から射しこんだ月明かりが、小さな身体を蒼っぽく照らしだしていた。


「レヌーシュカ」


 ドモヴォーイはほっと胸を撫でおろし、よたよたと歩み寄った。

 そして、エレーナの身体がわずかに震えているのを見てとって目を細めた。

 冬の夜は人の身には厳しい。こうして起き出してしまうのも無理はない。ドモヴォーイはそっと手を伸ばして、今度こそ彼女が眠れるように両のまぶたを撫でてやった。


「あったかい」


 エレーナは気持ち良さそうに瞼に触れた。その時、ふたりは僅かに触れ合ったが、彼女がそれに気付いた素振りはなかった。おそらく、ドモヴォーイの姿も見えてはいないだろう。彼の存在はとても曖昧だから。


「風邪をひいてしまうよ。もうおやすみ」


 ドモヴォーイは優しく囁きかけた。エレーナはくすくすと笑った。言葉も正しくは伝わっていないようだった。ドモヴォーイは胸に寒風が吹くのを感じたが、彼女の笑顔を見ているうちに、やがて忘れた。


「おじいさんは何をしているの?」

「あ、ぼくはね……」


 ドモヴォーイは答えるべきか迷った。答えてしまえば、エレーナはきっと会話に夢中になってしまう。けれど、ドモヴォーイは元来お喋りな性格だ。名前を呼ばれるのは嫌いなくせに、話をするのは大好きだった。


「家事をしているんだよ」

「なんて?」

「エーヴシュカのお手伝いをしているんだ」

「うふふ、変な声!」


 やはりエレーナの目は冴えていく。爛々と輝いて、ドモヴォーイの姿を探そうと、きょろきょろ転がった。


「おじいさん、どこにいるの?」

「ここにいるよ」

「どこ?」

「ここだよ」


 ドモヴォーイはエレーナの手を握った。少女は、楽しそうにきゃっきゃと笑った。

 早く寝かさなければと思う一方で、無邪気な少女に対する愛おしさはいや増していった。気付けば、そっと抱きしめていた。エレーナも抱きしめてくれた。その手は、身体をすり抜けていった。


 それでもドモヴォーイは構わなかった。


 ぎゅっと、けれど苦しませないように力をこめた。この温もりを、笑顔を永遠に感じていたかった。神に与えられた役目ではなく、きっと彼の本心として。


「さあ、もう休もう、レヌーシュカ。夜は眠ればあっという間。だけど昼はうんと長いよ。しっかり休んでおかないとね」


 ドモヴォーイは囁いた。そして、おもむろにエレーナから離れていった。

 エレーナは不安そうに辺りを見回した。


「大丈夫。ちゃんといるよ」


 ドモヴォーイは声をかけ続けた。

 少女は声のするほうへ、声のするほうへと歩いていった。

 やがて寝床にたどり着いたところで、ドモヴォーイは口をつぐんだ。ちょっと不服そうに横になったエレーナを見て、彼はその頭をやさしく撫でてやった。するとエレーナはくすぐったそうに目を細めて、間もなく眠りについた。


「おやすみ」


 安らかな寝顔を見下ろしながら、ドモヴォーイは願った。

 いつまでも彼女が――彼女の家族もまた安らかにありますように、と。


 しかし神のない大地に、永遠の安らぎなどあるはずもなかった。


 転機はほんの数日後に訪れた。

 領主ロスティスラーフの死が伝えられたのだ。

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