第八章:氷雨に打たれて

 兄が既に灯りを点した、春の夜の、ウエハースじみた匂いまでどこか冷えた板張りの階段を裸足で音を押さえつつ駆け下りる。


 カチャリ。


 リビングのガラスのドアを開けると、群青というか海色の部屋着のシャツを着た航がゆっくり振り向いた。


――翔は出来るのに、どうしてお兄ちゃんは出来ないの?


――お兄ちゃんは八十点より下を取ってきたことないよ。


 二人が比べられてどちらかが貶された時に浮かべる悲しい表情だ。


「起きてたのか」


「起きてるよ」


 本当は知っているくせに。


「眠れないからね」


 お下がりの瑠璃色の部屋着を纏った肩を竦めた弟を兄は黙して眺めている。


「お前さ」


 言い掛けた兄の海色の部屋着の肩越しに、テーブルに置かれたココアのカップが見えた。


 紫がかった薄い膜の張った表面からはまだ幽かに白い湯気が出ている。


 甘いような苦いような香りが仄かにこちらにまで漂ってきた。


「俺、櫻子ちゃんが気になるんだ」


 一気に言ってしまうと、ワーッと胸に熱い血が押し寄せる一方で鼻先には冷え冷えとした空気が通り過ぎるのを感じる。


「『櫻子ちゃん』と呼ぶほど、もう親しくはないけど」


 ハーフアップにしたミニリカちゃんの小さな笑顔と刈り上げ頭の伏せた眼差しが相次いで浮かんだ。


 航は表情の消えた、しかし、明らかに言い掛ける前より血の気の引いた面持ちでこちらを見詰めている。


「あの子、俺とは学校で会っても目も合わせないんだよ」


 どうしてお前が傷付いた顔になる。


 自分に似てもっと優しい面差しが悲しげに変わるさまにふっと笑えた。


「俺のことは嫌いなんだろうな」


 口に出してみると、これまで自覚していたよりも胸に突き刺さってくる。


「それは」


 一つ上の兄は重々しく口を開いた。


「元から露骨に出さなかっただけで嫌いだったんだろう。俺、あの子に優しくなかったしな。すみれちゃんや葵ちゃんみたいな子と同じ、きつく当たっていじめてくる一人に思われてたのかも」


 兄貴が何事か話す前に先回りして語る。


「俺も一緒に習ってた頃はすぐ泣くトロ臭い子と思ってたし」


 サーッと閉じたリビングのカーテンの向こうから水を撒くような音が響いてきた。


 外では雨が降り出したらしい。今、降りてきた階段も寒かったから、氷雨になるだろう。


「だから向こうからも好かれなくて当たり前なんだけどね」


 去年の今頃も雪が降ったから、これも雪に変わるかもしれない。


 せっかく桜が咲き始めたばかりなのに。


 昼間見たあの小さくあえかな花が夜の闇の中で冷たい雨の礫に打たれる様が浮かんだ。


 暗闇にはらはらと散じて落ちていく透き通るように白い花びら。


 頭の中で思い描きながら、知らず知らず空の掌を握り締める。


 俺はさっきまであの貧弱な花をむしり取りたいと思っていたのに。


「でも、そこで思い切れないんだ」


 兄は言い掛けた唇をいつの間にか固く閉じていた。


「俺はあの子がそういう意味で好きなのかもしれない。でも、それ以上に憎くて仕方がないんだ」


 ソファに腰掛けた航は口を固く閉ざした、表情の消えた面持ちでこちらを見詰めている。


 テーブルに置かれたカップのココアには紫の膜がもう完全にかかってしまっていた。


 あれじゃ、もうおいしくないだろう。


 兄貴だって本当はゆっくり温かいココアを飲みたかっただけだろうに、俺はいつもタイミングが悪いのだ。


「昔を思い出しても、本当はあの時も嫌だったんだろう、つまんないと思ってたんだろう、バレエに夢中な俺を醒めた目で眺めていたんだろう、あの子の目に映る自分はどんだけ浅はかで薄っぺらく見えたんだろうかって」


 目の前の兄とココアのカップがじわりと熱く滲んで頬には冷たい滴が伝い落ちるのを感じた。


「刈り上げの男みたいになったあの子を見ると殴り付けたくなる。メチャクチャにしてやりたくなるんだ」


 馬鹿野郎、と立ち上がった航が自分を殴り付けてくるところを想像して知らず知らず肩を張って身構える。


「自分でも気持ち悪いと思うけど、そういう気持ちが消えてくれない。あの子の方でも嫌な気配を察しているから目も合わせないんだろう」


 涙を拭っても胸の奥で見えない血が流れ続けた。


「同じクラスになったけど、学校なんて永久に始まらなくていい。近くにいても俺とは目も合わせないあの子を見るのは辛いんだ」


 肩にそっと置かれた兄の手の温もりで自分の体が冷え切っていたことに改めて気付いて震える。


「あの子に会いたくて、でも会いたくない」


 幼稚園の年中の頃、自分が左腕を折った時も兄貴は二人分の荷物をずっと持ってくれた。弁当やら上履きやら体操着やら年長さんの兄貴にだって重くなかった訳はないのに。


 あの時も、俺は「早く腕が治らないとバレエが出来ない」と自分のことばかり考えてろくにありがとうも言わなかった。


 今だって俺が兄貴に返せていることなど何もない。


 サーサーと雨の降り続く音が兄弟のいる居間の中にも遠く響いてくる。

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