箱根物語〜ある皇女の最期〜

白浜 台与

第1話 お忍びの客

上さん。


この頃のうちは手がしびれて歩くこともあまりかなわなくなってしまい、お医者から

「いわゆる江戸病(脚気)ですな」と言われて湯治を勧められ東京からわざわざ箱根まで旅をして来ましたが、


着いた途端なんやえろう疲れてしまいました…


明治十年八月


箱根湯本、塔ノ沢の職員たちはお客の正体が東京からお越しになられた徳川将軍家のご夫人でお忍びである。とだけ聞かされて…


「やれ王政復古だ新都だの、どんどん異人を入れて浮かれ騒がしくなって来ている東京を忘れさせるようなもてなしをしなければなれない」


と宿の主人はことし四十一になった熟練の女中、住之江タツにご夫人のお世話を言い付けた。


「ええ、ようございますよ。お客様に浮世を忘れさせるようなもてなしをたーんとさせていただきますからご夫人のお世話はお任せください」


と早口の江戸ことばでタツはまくしたて、右のこぶしで自分の胸をどん!と叩いた。


通された宿のお部屋から見る景色は見事なもので青々とした樹々や山間での涼しい風はまあ…と夫人と連れの侍女二人の眉を広げさせた。


そこでタツが「長旅お疲れ様でございます」と襖を開けて平伏し、「お茶とお菓子をご用意させていただきました」とお客たちの目の前でぬるめの茶を淹れた。


そこで初めてタツはご夫人の姿を見たのである。


年のころは二十代といったところか麻の着物に黒羽織をまとった切り髪の武家の未亡人姿。


きめの細かいお肌は白い、というよりはなんだか青白く、全体の見た目の華奢さ、といったらことし十三才のタツの次女ミツよりも幼く見えた。


「ほんに、宮さまをお連れしてようございました」


徳川将軍家の夫人で宮さま。

と呼ばれるお方は内親王のご身分でありながら十四代将軍家茂に嫁した静寛院宮せいかんいんのみやこと、皇女和宮その人に他ならない。


と十二の頃から下女としてこのお宿で働いてきたタツにも解ったのである。


忘れもしない、あれは二十五の頃。


天子さまの妹君が将軍家にご降嫁なさり箱根を越えるというので是非皇女様のお興を見ようと見物客や野次馬でひしめき合い、七つになる長女のハツをおんぶしながら人混みの中でぴょんぴょん飛び跳ねて、やっと視界の奥を輿が横切るのが見えただけ。


あの輿の中のお方はきっと、なよ竹のかぐや姫のように光輝いているに違いない…


仕事の合間に同い年の夫で料理人の周吉にその事を話すと


「そいじゃ公方さま(将軍様)は年がら年中光っている嫁を貰うってのかい?眩しくって夜も眠れねえや!」

とからかわれた。



あの時輿にお乗りになられていた皇女さまが、いま目の前にいる。


そう思うとタツは気分が高揚して耳たぶまで赤くなってしまう。


いけないいけない、箱根にご静養に来られたいつものお客様、と思わなければ緊張してしまう。そこでタツは鼻から息を吸い誰にも気づかれないように深呼吸した。


茶と紙にくるんだ菓子を載せた御盆(葵の御紋が入っていた)をご夫人の前に差し出すと、


「ありがとう」

とゆったりとした都なまりで夫人は礼を述べた。


なんの粗相もなかったわ…とタツが部屋から出てすぐ、その笑い声は起こった。


きゃははははは…!とまるで年頃の娘が箸が転げたのを見て笑うような無邪気な笑い声。


天子さまの妹で前の将軍さまのご正妻ならおほほ…と口に手を添えた楚々とした笑い方をするものと思っていたタツは面食らった。



「懐紙の中のお菓子の千鳥の形をした落雁な、うちと夫の大好物だったのを思い出してわろてしまいました。堪忍え」


と和宮は紅色と鶯色の落雁のうち、紅色のほうを右手の指先でつまんで口の中に放り込んだ。

「うん、美味おいし」

「いえ…そんな尊いご身分のお方に」とタツは恐縮したが和宮は菓子を口中で溶かしながら首を横に振った。


「あんたはん、うちらの正体気付いてしもうたみたいやけどこの旅はお忍び。お宿の中では宮さまでなく仮の呼び名で呼んで下さい」


それでは、とタツはおずおず顔を上げ「どのようにお呼びしましょうか?」


如何にも実直そうなタツの目を見て和宮は彼女になら気を許してもいい。と思った。


「そうですね、この箱根の関を越えて武蔵野にお嫁に行ったのだから武蔵野の奥様、と呼んでもらえたら」


こうして身分も育ってきた環境も全く違う二人の女性は「武蔵野の奥様」「おタツ」と呼び合い和宮人生最期の刻まで短い間の友となるのである。









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