わたしは、小鳥 〜自転車にのる者たちの物語〜

オレンジのアライグマ【活動制限中】

青い小鳥 〜ロードレーサー〜

 風が優しくささやいてきた。


 「調子はどうだい?」


 「ええ、おかげさまでね。そちらは?」


 「機嫌がいいに決まっているじゃないか」




 昨日、殴られた傷の痛みが引いていく。


 風が治してくれたんだ。





 昨日、嫌なことがあった。


 でも、もう気にしない。


 わたしを乗せたロードレーサーは、羽のように軽い。


 ペダルを軽く漕いだだけで飛んでいきそうだ。



 わたしはレバーを押し込み、ギアを一段重くする。


 クロムモリブデン鋼製のフレームがキュッとしなる、一歩遅れてわたしの愛機は加速する。





 わたしは、小鳥。


 風と戯れる青い小鳥。




 風はいつもわたしに優しくしてくれるわけじゃないし、わたしを傷つけようとすることもあるけど、私は風が好きだ。





 国道をを走るダンプカーが私を追い越す。


 風に揉まれ、一瞬だけよろめく。 



 大丈夫、怖くない。



 下り坂だ。地面すれすれを滑空する。




 ビルの間から朝の日差しが差し込む。


 長い橋を越え、隧道すいどうを抜け、高圧電線をくぐる。




 あの人たちのことを思い出すこともある。




 わたしはあの人たちを理解できない。


 わたしは、あなたたちの名前も知らなかったのに。

 

 わたしが何か悪いことでもしたの?


 わたしが嫌いならついてこなければいいのに。


 なんでついてくるの?


 なんであんなことをするの?


 答えは帰ってこない。





 風は黙ったまま。


 一台のトラックとすれ違う。


 砂煙が舞い上がり、私は咳き込む。





 峠を幾つも越える。


 辛いけど、


 こうしている間、わたしは自由だ。




 誰もわたしについて来れない。



 あの人たちはついてこれない。


 このときばかりは、わたしは、あの人たちのことを忘れることができる。






 わたしは、どこに向かっているのだろう。


 この道を通ったことはない。


 でも、なぜか懐かしい場所に続いているような気もする。







 標識が見える。


 わたしは何故か、この標識を覚えている。



 わたしはスピードを上げる。



 コンクリートの壁に生えた苔、寂れたバス停。



 景色が後ろに流れていく。









 桜並木の下の、木漏れ日が綺麗なところで坂の中腹で、わたしは遂に疲れて動けなくなった。





 桜の木に愛機を立てかけ、わたしは桜の根本に腰を下ろす。


 空気がおいしい。




 私は愛機を眺める。


 透き通るような青色で塗装されたフレームが木漏れ日を浴びて輝く。


 メッキを施された部分やアルミニウム合金でできた部品が空を映す。


 スポークが地面に紋様のような影を落としている。


 遠くで蝉が鳴いている。


 見たところ、特に異常はない。


 いつも通りの、美しい愛機。




 あと、もう一息。


 わたしは、再び愛機に跨る。




 木漏れ日が美しい。


 この山は私たちを歓迎している。



 風がわたしたちを追い越しながら、がんばれと言う。


 ハンドルを握り直す。



 

 気がつけば、わたしたちは完全に一つになっていた。


 ここには、先程までのわたしはいないし、わたしの愛機もない。


 あるのは、翼を広げた青い小鳥が一羽。


 

 わたしはこの道を行く。風がわたしをみちびく。


 この道がどこに続いているのか、わたしにはわからない。


 でも、今、わたしが行こうとしているのは決して悪い場所ではない。


 風が教えてくれる。


 懐かしい場所、ずっと行きたかった場所。


 さあ、もう少しだ。

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