二章 消えてしまった居場所①



 毎朝、カーテンに透ける日の光を感じるたびに、鬱屈として長嘆する。

 朝を拒むように布団に潜り、真っ暗闇の中で携帯電話に触れる。ディスプレイに浮かぶ時刻を受け入れたくなくて、隠すように画面を消した。

 ぎゅっと目を瞑っていると、とうとう起床を告げるアラームが鳴り響いた。


 気分がすぐれないままベッドから緩慢な動作で起き上がり、顔を洗ってから制服に身を包む。鏡に映った自分の表情があまりにも暗く、無理やり口角を押し上げてみせる。せめて家の中だけでも明るい表情でいたい。けれど、どう頑張っても不自然な表情にしかならなかった。

 リビングで朝食を食べながら、インスタントの珈琲を飲む。お湯に溶かして飲むインスタントと、挽いたコーヒー豆に熱湯をドリップする飲み方では味の濃厚さが違う。

 温かな湯気が立ち上り、鼻腔をくすぐるほろ苦く芳しい匂い。その香りによって呼び起こされるのはあの場所での出来事。


 ――消えたいと思うなら、消えたくない理由をつくればいい。たとえば、珈琲を飲みたい……とかね。


 マスターが言っていたことは案外当たっているかもしれない。

 それに、皐月くんがくれた「苦しくなったら、また来ればいい」という言葉も私の背中を押してくれる。自然と口元が緩んだ。

 またあの場所に珈琲を飲みに行こう。

 ただの逃げかもしれない。立ち向かう勇気がないだけかもしれない。けれど、逃げ場がない状況よりも、逃げてもいい場所があると思うと、少しだけ心が軽くなった。


「祥子、お弁当忘れないようにね」

「……うん」


 テーブルの下で手をぎゅっと握りしめて、口角を上げることを意識しながら頷いてみせる。私の返答に微笑んだお母さんは、お腹をさすりながらソファに座った。私は握りしめた手をほどいて、そっと口元に触れる。

 私は今、うまく笑えていただろうか。

 お母さんに学校のことは一切話していないので、私が今行きにくいことも知らないはずだ。


「ぁ……っ」


 あのね、お母さん。私……学校行きたくないんだ。

 言えるはずもない言葉が、喉元に絡みつく。伝えたとしても困らせるだけだ。負担もかけたくない。


『祥子は本当にいい子ね』


 小学生の頃にお母さんに褒められた言葉がずっと心の中に棲みついている。

 お母さんの前では、いい子でいたい。本当の私を知られて、お母さんの笑顔を曇らせたくない。

 隣に置かれたお弁当を小さいトートバッグの中にしまい、珈琲を飲み干す。

 そうしてまた、憂鬱な一日が始まっていく。


 ♦


 ローファーを履いて、家を出るのが憂鬱。家から高校までの徒歩十五分の距離が憂鬱。

 その間に人と会うのが憂鬱。たくさんの声が聞こえてくるのが憂鬱。目の前を歩く女子高生たちが楽しそうなのが憂鬱。

 私の世界はあらゆる憂鬱から成り立っているのではないかというくらい些細なことがすべて憂鬱だった。学校がまったく楽しくなくて、居心地が悪い。胃がチクチクと針にでも刺されているかのようにだんだん痛くなってきた。

 のんびりと歩いたところで、学校との距離は縮まるだけだ。かといって遅刻するわけにもいかない。


 いっそのこと休んでしまえば楽になれるのだろうか。

 そう考えて、目を伏せた。足が竦んで現状から逃げ出すことすらできない私に、休む勇気はない。それに一度休んでしまえば、学校へ行くことが今以上に怖くなるだろうし、自分の状況を両親に知られてしまうはずだ。

 惨めで情けない私を隠すために、仄暗い感情に心が支配されても、学校に行く以外の選択肢が自分の中にはなかった。重たい足を必死に動かさなければ、私の心も、家でなんとか保っている日常も壊れてしまう。これ以上自分の世界が変わっていくのは耐えきれない。

 嫌々たどり着いた学校には、同じ制服を身に纏った生徒たちの姿。みんな吸い込まれるように校舎を目指して歩いている。もう彼女たちも来ているかもしれない。そう思うと胃に不快感がこみ上げてくる。

 爪が食い込むくらい手を握りしめて、しっかりと目を開けて校門をくぐる。昇降口を通り抜け、靴を履き替えていると後ろから声をかけられた。

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