第五十三話 張り手

 それから碧衣はオクトパスを振り返った。

 オクトパスは仲間の死を目の当りにして、流石に怯んだようだった。桃香と陽菜を触手で高く掲げたまま、警戒の視線を碧衣に向けていた。両者は立ち尽したまま、しばしの間対峙していた。

「あなたのやってることは間違ってる! 人を傷付けたり、殺したりなんて、絶対に許せない!」

 陽菜は叫びながらもがいていたが、オクトパスも碧衣も、そんなものを気に留めてはいなかった。やがて碧衣は、ゆっくりと弓に矢をつがえ、敵に向って構えた。オクトパスは小さな唸り声を発すると、桃香と陽菜を地面に叩き付けるようにして触手から手放し、そのまま岸壁の端まで走り寄って、海へと飛び込んだ。

 碧衣は無言で水際まで歩み寄った。深く潜水したのだろう、オクトパスの姿は既に黒い水の中に消えていた。しばらく碧衣はその場に佇んでいたが、敵が戻ってくる気配を見せないことを確認して、桃香たちのもとへと歩み寄っていった。

 どうにか難を逃れた桃香たちは、触手に強く締め付けられていた上、コンクリートの地面へと叩き付けられた痛みから、中々立ち上ることができない様子だった。それでも碧衣が近寄っていくと、桃香は顔を上げ、反対に陽菜は気まずそうにうつむいた。

「先輩、ありがとうございました……私、どうにもならなくて……」

「別にあなたを助けたりはしていない」

 桃香の礼の言葉を軽くあしらって、碧衣は陽菜の前に立った。

「陽菜」

 呼ばれて顔を上げた瞬間、陽菜は平手で激しく頰を張られた。大きな音が響き、隣に立っていた桃香が息を呑んだ。

「馬鹿なの? あなたは」

 炎と湧き上る黒煙を背景にして立った碧衣は、冷たく厳しい眼で陽菜を見据えていた。陽菜は茫然と痛みの残る頰を押さえ、涙に潤んだ眼で相手を見上げた。この人、モンプエラよりも怖い、そんな言葉が脳裡に浮んだ。

「どうして桃香の戦闘を邪魔したの? あの悪魔なんかと話が通じるとでも思ったの? 何人もの人間を殺した悪魔を」碧衣は項垂れた陽菜を、溜息をついて見下ろした。「本当に愚かな小娘ね。桃香なんかより余程ひどい。次は容赦しないわよ……悪魔の討伐を邪魔する者も、また悪魔なのだから」

 それから碧衣は、桃香をも睨み付けた。

「あなたもあなたよ。戦っている最中に、こんなのが話し掛けてきたからといって注意を逸らすなど、自殺行為だということがまだわかっていないの? 本当にあなたがユーストガールとして選ばれたことに、私は疑念を捨てきれないのだけれど」

「すみませんでした……」

 桃香は悄然として、そう言葉を返すことしかできなかった。碧衣は溜息をつくと無言で踵を返し、そのまま歩き去っていった。

 残された二人は何も言えずに立ち尽していたが、やがて陽菜が地面に崩れ落ち、しゃくり上げて泣き始めた。桃香は慌てて屈み込んで、その肩を軽く叩いた。

「陽菜ちゃんの気持はわかる……でもね、あいつらは話の通じる相手じゃないんだよ」

「私には……、私にはわかりません。何をどうすればいいのか……」

 陽菜は日光の照り付けるアスファルトの上にうずくまったまま、いつまでも泣き続けた。桃香はどうすることもできずに顔を上げ、尚も立ち昇り続けている黒煙を、ぼんやりと眺めた。

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