第四十一話 再戦

 亜紀は放課後、早穂と別れて帰り道を歩きながら、幸一の母との会話を思い返していた。それまで幸一のことは、長らく胸の奥底深く仕舞い込み、なるべく思い出さないようにしていた。彼がもうこの世にいないという現実を直視することが、余りに恐ろしかったからだ。

 自分にはどうしようもない事件であったのだということはわかっていた。全く予測不可能なテロに、彼は父と共に巻き込まれたのだ。しかし親しい人を喪った人がよくそう思うように、亜紀もまた、自分に何かができたのではないかと、思いを巡らせずにはいられなかった。モンプエラの力というものを手に入れた今、その思いは再び亜紀を苛んだ。

 でも、と亜紀は思った。今、自分はモンプエラと戦うことで、人を救うことができる。モンプエラとして生を享けたことを、彼女はずっと憎み、悩み続けていた。しかし他の人間には決して不可能な、あの敵たちと戦い倒すということが自分にはできる。それは彼女に与えられた、一つの使命であったのかもしれない。だからこそ幸一の母と向き合ったあのとき、戦い続けようという意志が初めて生れたのだ。

 いつしか再び、亜紀はアサシンバグに殺されたあの小学生の少年と、在りし日の幸一の姿を、重ね合せていた。そして小さく、彼の名を呼んだ。もう答えることのない彼の名を呼ぶ度に、涙が滲み出てくるのを感じた。

 そのとき、遠く悲鳴が聞えた気がした。亜紀は顔を上げて空を見た。悲鳴は再び聞えた。それと共に脳裡に、あの死体を背負った怪物が河畔の公園を闊歩している様、数人の小学生たちが、悲鳴を上げて逃げ出そうとしている様が、鮮明に浮んだ。

 亜紀は自転車に跨ると、全速力で漕ぎ始めた。

 やがて辿り着いた河畔公園の入口には駐車場があり、そこには数台の、子供のものらしい自転車が停められていた。亜紀はそのすぐ横に自分の自転車を停めると、園内へと駆け出していった。

 駐車場を出るとすぐの芝生の小さな広場までやって来た時、奥の林から数人の小学生たちが駆け出してきた。彼らは何かひどく怯えた様子で、一目散に走ってきたが、亜紀の姿を見ると、「大変です! あっちへ行っちゃ駄目です!」と、夢中な様子で口々に叫んだ。

「行っちゃ駄目なの? どうして?」

原因は既にわかっていたが、念のために亜紀は尋ねた。

「今、僕たち、怪物に会ったんです……」

「死んだ人をこんなに沢山背中に乗せて……」

「こんなに長い剣を手に持って……」

 昂奮した口調で小学生たちは叫び、懸命に亜紀に、自分たちが見てきたものを説明しようとした。事情を知らなければ何のことか殆どわからなかったろうが、彼らがモンプエラに遭遇したことは明らかだった。亜紀は彼らを安心させようと、敢えて微笑んでみせた。

「それは大変だったね、あなたたちが無事に逃げて来られて良かった。……全員、揃っているのよね?」

 その声に応じて彼らは周りの仲間たちを見廻したが、顔色を変え、一斉に狼狽した様子を見せ始めた。「和樹は?」「和樹がいない……」と、口々に彼らは叫び、自分たちが出てきた林を振り返った。

「一人、いないの?」亜紀は蒼褪めた。「私が探してくるわ。みんなはここで待ってて」

「でも……」

「危ないですよ、あいつに……」

 小学生たちは心配そうな表情を浮べたが、亜紀は軽い頷きを与えると、小走りに彼らが出てきた奥の林へと駆けて行った。

 鬱蒼とした暗い樹々の間に、木洩れ日の射す歩道が、曲がりくねりながら続いている。今の小学生たちは、あの頃の幸一と同じ歳の子たちばかりだった、と辺りを警戒して走りつつ亜紀は思った。殺人モンプエラたちを放置していれば、やがて危害を加えられるのは亜紀の知り合いかもしれないし、もしかすると、祐樹かもしれない。

 弟が死ぬなどという想像はしたくなかった。しかしこれまでにモンプエラに殺されてきた人々にも、かけがえのない家族や友人がいた筈なのだと彼女は思わずにはいられず、そう考えれば、嫌でも自分の家族や友人が被害に遭ったらということを想像せざるを得なかった。もしも祐樹や、父、母、友人の早穂、奈緒たちがモンプエラに襲われたとしたら……、それは如何ばかりの悲しみなのだろう。亜紀は身体が震えるのを感じた。

 辺りには誰の姿もなく、事情さえ知らなければ、森閑とした、平和な公園の景色に過ぎない。しかしこの見通しの悪い林の中に、あのアサシンバグモンプエラが姿を隠している筈だった。亜紀は慎重に林の奥へと足を踏み入れていった。小道は蛇行しながら続き、その果ては河原へと通じている。しかしここからは河の姿は見えなかった。

 ふと亜紀は、藪の中に落ちているものを見つけて拾い上げた。まだ新しい虫取り網である。さっきの子供たちのものだろうか、それとも残された子供のものかと亜紀が考えかけたとき、背後で物音がした。

 亜紀は即座に振り返った。茂みの中にいる誰かと目が合った。それは一人の少年だった。木の幹と茂みとの間に小さな体を押し込み、蹲っていた。亜紀は慌てて駆け寄り、その怯えた眼で彼女を見つめていた少年の傍らへと屈み込んだ。

「大丈夫? 怪我はない?」

 少年は小さく頷き、何かを言おうとするかのように口を開いたが、恐怖のためか、説明し難いものを見てしまったためか、いずれにせよそれ以上、何も言うことができないようだった。亜紀は少年を抱き締め、良かった、良かった、と囁きながらその頭を撫でた。

「とにかくここを出よう。みんなが心配して待っているからね」

 亜紀が少年の手を握り、そう声を掛けながら扶け起したとき、異様な腐臭が鼻を突いた。同時に少年もそれを察知したらしく、怯えたように亜紀に身体を寄せてきた。亜紀は強くその手を握り、慎重に四方を見廻した。

 そしてやや離れた木蔭から、大量の死体を背負い込んだ少女の、歪なシルエットが姿を現した。蠅が音を立てて辺りを飛び交い、少年は亜紀の太腿に頰を押し付けて、小さな悲鳴を上げた。頭から生えた触角を嬉しそうに動かしながら、アサシンバグモンプエラは嬉しそうに口を開いた。

「きてくれたんだね、ねこのおねえちゃん。またあいたいとおもってたんだ。……わたしとあそんでくれるの?」

「逃げて。真直ぐにみんなのところへ行くのよ」

 亜紀は公園の入口の方向へと、少年の身体をそっと押し遣った。相手はやや躊躇うような素振りを見せたが、一目散に駆け出した。その後ろ姿を見送る余裕もなく、亜紀は敵と向い合い、変身した。

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