第三十二話 赤いランドセルの幼女

 週明けの朝、亜紀が登校してくると、まだ教室には奈緒の姿はなく、自分の席にいた早穂が、笑顔を浮べて歩み寄ってきた。亜紀は若葉園の話をするいい機会だと考えて、目の前の席に横向きに坐った早穂を見遣った。モールと戦った後、亜紀は怪我の応急措置をするためと余り話す気がしなかったために、すぐに早穂と別れてきてしまったのだった。

「ねえ早穂、実は私昨日、あの前に養護施設に行ってきたの」

「へ? 養護施設?」

早穂は一瞬、何の話かわからないといった表情を見せたが、すぐに「ああ」と両掌を打ち合せた。「亜紀、マジで情報収集に動いてたんだ。私も両親に話を聞き出そうとしただけだけど、何もわからなかったから……申し訳ないな」

「いいのよ、聞いてくれただけでも」亜紀は微笑した。「私もね、特に明らかになったことはないんだ。ただ、ちょっと気になる話があって」

「え、気になる。なになに?」

 亜紀は小林から聞いたまま、施設から脱走した女子の話を語り聞かせた。話を聞き終えると早穂は、不思議そうに首を傾げた。

「妙なこともあるもんだね……、一体どこ行っちゃったんだろう、その子」

「やはり脱走した後、誰かに連れ去られてしまったんじゃないかな」

 亜紀は昨日から考えていた推測を口に出してみた。

「その線は強いよね……やだやだ。私、未解決事件の話とか怖くて苦手なんだよね。テレビで特集されてるのとか見るとぞっとする」

 早穂は顔を顰め、恐怖に堪えないといった表情を見せたが、「でも」と付け加えて身を乗り出した。

「その子も私たちと同じ頃、同じように病院の玄関に遺棄されてたとしたら、やっぱり私たちと関係のある可能性はかなり強いよね」

「私もそう思う、断定はできないけれど……」

 それ以上は何とも言うことができず、二人の間には短い沈黙が流れた。その間、二人は少女の正体について、それぞれの考えに耽っていたのだが、亜紀はふとそのとき、モールのことを思い出し、憂鬱な表情を浮べて顔を上げた。

「ねえ、早穂……」

「何?」

「早穂はこれからも……、モンプエラ達と戦っていくつもりなの?」

「それは……まあ、そうだよ」今更だというように早穂は笑った。「襲われてる人がいたら、放ってはおけないじゃん。あいつらを放置していたら、そのうち、私達の大切な人達にも危害が及ぶかもしれないし。それ以外の選択肢はないな。亜紀は違うの?」

「それは、私も放っておいていいとは全然思っていないけれど……」亜紀はうつむいた。「本当に、私達の力でしかモンプエラは倒せないのかな。警察に通報するだけというわけにはいかないのかな」

「警察では多分、モンプエラには立ち向えないと思う」多分と言ってはいたが、早穂の口調は確信に近かった。

「まずさ、警察はモンプエラの起した殺人事件、一つも解決できてないし、あんなに何件も起きてて、犯人すら判明しないままじゃん? もし見つけられたとしても、あのモンプエラたちからすれば、警官の一人や二人、何の脅威にもならないでしょ」

「だから、私たちでどうにかするしかないということ?」亜紀は暗い顔で言った。「そんなこと、本当にできるのかな……」

 実際に昨日も亜紀は、モールに襲われようとしている子供を見て、殆ど何も考えず、次の瞬間には飛び出していったのだった。早穂が言っていることはその延長線上なのかもしれなかったが、いつでもそんなことができる自信などは、亜紀は持ち合せてはいなかった。そして昨日、自分の長剣がモールの身体を切り裂いたときに感じたあの痛ましい思い……それはもしかしたら、同じモンプエラという存在に対しての、抗い難い親近感の作り出したものであるのかもしれなかった。


* * * * * *


「おい、おっさん。金持ってるんだろ?」

「少しぐらい分けてくれたっていいじゃねえかよ」

「さっさと渡すものを渡せばいいんだよ」

 他には人気もない、夜の公園だった。街燈の下で、三人の若者が一人の中年の男を取り囲んでいた。スーツ姿のこの男は、公園を横切って帰宅途中のサラリーマンであったが、運の悪いことに園内で屯ろしていた不良少年たちに目をつけられ、「おやじ狩り」の標的とされてしまったのだった。

 男は隙を見て逃げ出そうとしていたが、自身の体力がこの三人の若者に到底敵いはしないことを悟って、追い詰められた表情を浮べていた。少年たちはその怯えた表情を見て、楽しそうに笑いながら男を小突き回した。

「何か言えよ、おい。びびってんのかよ」

 一人が男の胸を強く押すと、よろめいた男の背を別の一人が突いた。男は呻き声を上げて、鞄を抱えたまましゃがみ込んだ。少年たちは勝ち誇った笑い声を上げて、そのスーツの丸まった背を次々に蹴った。

 その時、不意にどこからか冷たい風が吹いてきて、少年たちの身体を打った。先程までは微風すらそよいではいなかっただけに、その風の感触は異様だった。彼らは思わず動きを止めて、辺りを見渡した。

「……おい、あれ」

 一人が指さした先に、こちらへと歩いてくる小さな人影があった。三人の少年は無言でその影を見つめた。両者の距離が五メートルほどに縮んだとき、園内の街燈がようやく、相手の姿を照らし出した。

 それはあどけない顔をした、一人の幼い少女だった。外見からは小学校低学年ほどと思われ、実際に背中には、赤いランドセルを背負っていた。少女は立ち止ると、無言で少年たちを見上げた。

 夜中の公園にこんな小さな女子がいることは明らかに異常であったが、何事かと息を呑んで相手を見つめていた少年たちは、相手の姿を見て取るや、一斉にけたたましく哄笑し始めた。

「なんだよ、小学生じゃねえか。誰だよお前」

「もしかしてこのおっさんの娘? パパをお迎えに来たんでちゅか?」

「ごめんねー、パパが俺たちに金を払ったらすぐに一緒に帰れるからねー」

 少年たちが口々に嘲弄の言葉を浴びせても、少女は黙ったまま、何の表情をも顔に表さず、ただ相手を見つめていた。闇の中に浮んでいる白い顔が、人形のように見えた。やがて少年たちもからかいの言葉が尽きて、不機嫌な表情と共に押し黙った。

 短気な一人が、苛立った様子で前へと進み出た。

「おい、何とか言ってみろよ。子供だからって容赦しねえぞ、クソチビ」

「チビ?」

 少女は相手の顔を見上げた。その表情は一瞬にして変貌していた。少年はそこに、思いがけぬ暗い怒りが現れているのを見て、相手が年端もいかない少女であることも忘れ、思わず慄然とした。しかし彼はすぐに我に返り、怯えた自分とその直接の原因たる相手とに、同時に激しい憤怒を感じた。彼は叫びながら片足を振り上げて、相手を思い切り蹴飛ばそうとした。

「文句あんのか! 引っ込んでろクソチビが!」

 蹴りが炸裂した瞬間、少女は素早く飛び退いた。少年はそのまま身体の均衡を崩して転び、相手の動きの余りの速さに、尻餅をついたまま茫然と相手を見つめた。周りの少年たちも、一斉にどよめいた。

少女は立ち上ると、それまでとは全く違った、暗い笑みを浮べた。

「チビじゃ……ない……」

 突如としてその全身が光り輝いたかと思うと、次の瞬間、そこには先ほどとは全く違った、不気味な生き物が立っていた。それは確かに、元の幼い少女の面影を残してはいた。あどけないその表情も、こけしのようなその髪型も変りはなかった。しかしその服装は、黒と茶色の入り混じった色のドレスとなり、腹には銅のような輝くコルセットを巻いて、頭には昆虫さながらの、大きな双の触角が伸びていた。その異様な姿だけでも、充分に恐怖を感じさせるものではあった。しかし最も、少女の半人態を目にした彼らを怯えさせたものは、それとは別にあった。

「に、に、に、逃げるぞ!」

 少女のおぞましい姿を見て、叫びながら一人が駆け出し、他の二人も後に続いた。恐喝されていたサラリーマンは、とっくに姿を消していた。

 逃げていく三人の後ろ姿を見つめながら、少女は笑顔を浮べて空中に手を差し出した。忽ち虚空から、黒く鈍い光を放つ、鋭い剣が現れ出た。剣というよりもそれは、巨大な針と言った方が相応しい姿をしていた。

 少女は高く跳躍すると、少年たちの前へと立ち塞がった。そして間近にいた一人に、物も言わずに剣を突き出した。少年は恐怖と、突然の激痛とに絶叫した。

鋭い剣は彼の胸を貫いたばかりでなく、その先端のごく小さな穴から、毒液を身体の内部へと噴出させる役割をも果していた。少年の悲鳴は途中でかき消えて、少女が剣を引き抜いた瞬間、死骸は無惨に地面へと転がった。

「あ……あ……あ……ああああ!」

 残された二人の少年は、狂ったように元来た道を駆け戻り始めたが、少女は軽く跳躍して瞬く間に追いつくと、その一人の背中に、既に血に塗れている剣を突き刺した。少年は弱々しい叫びを上げたが、それを最後に倒れた。少女はすぐに剣を抜き取り、もう一人の少年の前に立ち塞がった。

少年は腰を抜かして、ただ必死の形相で、歩み寄って来る相手を見つめていることしかできなかった。人形のような少女の顔は、悦びを一杯に湛えており、頭から生えた触角は、愉しそうに揺らめいていた。

「これでもうおあそびはおわり?」少女は屈託のない笑みを浮べた。「たのしかった。ばいばい」

 深夜の公園に、最後に残った少年の絶叫が谺した。

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