第八話 名取早穂

 朝、起き出した亜紀が居間へ入っていくと、父親の点けたテレビがニュースを流していた。

「昨日午後三時半ごろ、藤野市中野町の道路で、二人の男性が血を流して倒れている、と通行人から通報があり、駆け付けた警察官により、死亡が確認されました。警察によりますと、男性二人は近所に住む自営業、谷修二さん四十六歳と、同じく自営業の樋口正照さん四十四歳であることが確認されたとのことです。遺体は全身に鎌のようなもので執拗に傷付けられた跡があり、死因は多量の失血による失血死であることが確認されました。警察では殺人事件として、捜査を進めているとのことです……」

「随分と物騒な事件が起ったのねえ、藤野市よ。恐ろしい……」

 入ってきた母親が漬物の器を卓上に置きながら呟くように言った。亜紀はちらとテレビの画面を一瞥したが、そのまま席に着き、うつむいて納豆を搔き混ぜ始めた。

 朝目覚めて、蒲団の中で少しずつ昨日の出来事を思い返した亜紀は、全てが夢だったのではないかと最初に考えた。誰しも起きたばかりのときには、夢と現実の境目が曖昧になるものである。しかし目が冴えてくるにつれ、やはりあの出来事は確かに昨日発生した、現実のものであるとしか思われなくなってきた。やがていつものようにカーディガンを羽織ると、階下へと降りていったのである。

 考えに耽りながら味噌汁を飲んでいた亜紀の耳に、ニュースを見ていた父の声が届いた。

「二人も殺されたのか。確かに物騒な事件だな」

「犯人の見当ぐらいは、もうついてると思うけれどね」

 祐樹が知ったような口を利いた。それから父母や弟たちはあれこれと続くニュースを見ながら喋り始めたが、亜紀は普段のように参加する気にはなれず、早々に朝食を食べ終えて学校へと向った。

 昇降口で靴を履き替え、教室へと歩いていこうとしたとき、ふと亜紀は、背後から声を掛けられて立ち止った。

「北野さん、おはよう!」

 そんな風に挨拶をされるのは、絶えてなかったことだった。一般に生徒同士などというのは、親しい間柄でしか挨拶を交さないものである。亜紀にはその親しい仲の者がいなかったのだが、驚いて振り返ってみると、そこにいたのは名取早穂だった。

 相手が早穂であるというのは、更に意外なことだった。一度も話したことのない相手であったし、接点さえもなかったからである。しかし相手の大きな瞳は、茶色がかった前髪の下で確かに亜紀を見据えて笑っていた。亜紀は反射的に「おはよう」と挨拶を返したが、やや警戒心のほうが勝って、すぐには相手に応じて笑みを浮べることができなかった。驚いた亜紀の表情を目の当りにした早穂は、照れたように笑った。

「ごめんね、急に声を掛けちゃって。吃驚した?」

「い……いいえ」亜紀はぎこちなく笑った。「でも、名取さんと話すの、初めてだね」

「な、名取さん?」早穂はさもおかしくて堪らないといった様子で笑い始めた。笑いながら教室へと向って歩き始めたので、亜紀もその後に続いたが、早穂は彼女を振り返ると、はや親しげな口調で言った。

「何か、畏まって名取さんとか呼ばれるの、珍しくて笑っちゃった。でも私が北野さんって呼んだから変でもないのか……早穂でいいよ、早穂で」

「早穂……」亜紀はその名を繰り返した。「うん、早穂ね」

「うんうん、みんなそう呼ぶから……ねえ、私も亜紀って呼んでいい?」

 相手のその申し出に頷きながらも、亜紀は突然に距離を縮めてきた相手の意図を測りかねた。しかし彼女にそのように話し掛けられて、嬉しい気持が込み上げてきたのもまた事実だった。普段の他の生徒との関係は、常に事務的なものでしかなく、こんな風に話し掛けられたのは、最後にいつであったか思い出せぬほどであったから。

「私さ、北野さん……じゃない、亜紀のこと、実は前から気になってたんだよね」

「気になってた?」

亜紀が目を丸くすると、早穂は笑いながら手を振ってみせた。

「いや、勿論変な意味じゃないけど。何か他の人と違った、物静かな感じがさ。この人、どういう人なんだろうって興味をそそられたの」

「そうだったの」

 変った人もいるものだと亜紀は思ったが、悪い気は全くしなかった。寧ろそうして声を掛けてきてくれたことが有難く、嬉しかった。教室へ入ると早穂は先に登校してきた奈緒のところへと行ってしまったが、昼休みになると再び亜紀のもとへとやってきた。一緒に弁当を食べようというのである。

「もしよかったら一緒に食べない?」と早穂は言った。「奈緒も付いてきちゃうけどさ」

「人のことを要らんおまけみたいに言うな!」と、机を早穂のもとまで移動させてきた奈緒が口を尖らせた。「あ、私は北野さん大歓迎だから」

「ありがとう、喜んで」

 不思議な昂揚感に包まれながら、亜紀は自分の机を、二人のところへと寄せていった。やがて各々が弁当箱の蓋を開けて箸を取ってからも、妙に落着かない、何かを話さなければならないような気持に襲われていた。奈緒が唐揚を摘み上げながら、ちらとそんな亜紀の様子を見て笑った。

「いきなり引き込んじゃったけど大丈夫? 困惑してない?」

「いいえ」と亜紀は首を振り、愛想笑いを浮べた。「でも最初は正直驚いたかも、まさか誘ってくれるなんて思ってなかったから……」

「早穂ね、前から北野さんのこと気になる気になるって言ってたのよ。それで私が、そんなに気になるなら声掛ければ、って言ったわけ」

「まあ……そうそう。さっきもちょっと言ったけどね」照れ隠しなのか、早穂は指の腹で軽く顔をこすった。「何か北野さん……じゃない、亜紀って、不思議な雰囲気が漂ってるっていうか、そんな感じがしない?」

「私は……」

 亜紀は微笑しながら首を傾げたが、そのとき自分の経てきた過去、そしてつい昨日起ったばかりの異常な出来事が、瞬時に脳裡を掠めた。早穂がそれを見抜いたわけでもないだろうが、やはり自分が通常の、周りにいる同級生たちと同じような存在かと言えば、それは否定せざるを得ないだろうと思われた。しかしそれを、まさかここで言うわけにもいかない。

「いや、本人に訊いても困るでしょそれは」

 奈緒が冷静にそう言い、亜紀は救われた気がしながら微笑した。

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